Holy Night

 11月初めにクリニックを退院してからの約ひと月間は、平和に穏やかに日々が過ぎていった。

 体調もすこぶる良好で、妊婦健診の結果を見る藤堂の笑顔も、回を追うごとにどんどん明るくなっていくのが感じられる。 


「いいですね。とても順調です。

 今日が12月2日ですから……望ましい出産週数に入るまで、あと26日です。

 ——ゴールテープがとうとう見えてきましたね」


 12月初めの健診の日。

 藤堂の口から、そんな言葉が出た。



「——」


 何とも表現しがたい喜びに、俺も神岡も思わず言葉に詰まる。


 ゴールテープ。

 俺たちにとってその言葉は、いくつもの苦しみを乗り越えた末にとうとう聞くことの叶った、例えようもなく幸せな言葉だ。

 やはり手が届かないのかもしれないと、何度も思った——希望に満ちたスタートへと繋がる、輝くゴールテープ。

 それが、もう俺たちの目の前まで来ている。



「——藤堂先生……

 本当に、ありがとうございます」


 俺たちは、何だかぎゅうっと胸が詰まったまま、深く頭を下げる。



「お二人とも、ここまで本当によく頑張りましたね。

 男性の身体でも、若く健康であれば体内で胎児を育むことが可能なのだということが、これでほぼ証明できたと言えるでしょう。私も産婦人科医としてこの上ない達成感を感じています。

 でも、まだ終わったわけじゃないですよ。大切なのはこれからです」

 そう言って、藤堂はいつもと変わらぬ快活な笑顔を見せた。

 そして、手元のカルテをめくりながら表情を引き締め、明確な口調で説明する。


「12月29日から、正規産、つまり赤ちゃんにとって望ましい出産時期である第37週目に入ります。

 これが単胎児であれば、出産予定日は第40週の1月19日なのですが、多胎児の場合は、予定日前のあらかじめ設定した日に帝王切開という方法を取るケースが多いですね。しかも今回は男性の出産という非常に特殊なケースですので、三崎さんに関しては帝王切開の一択になります。

 私としては、今の三崎さんと赤ちゃんたちの状態から、38週目の初日である1月5日に分娩が可能であればと考えていますが——いかがでしょう」


「——……はい。

 先生がそう判断されるのであれば……どうぞよろしくお願いいたします」


 俺たちは、どこか震える思いで彼に再びそう深く礼をする。


「三崎さんも双子ちゃんも、これ以上ないほどに順調な経過です。大丈夫。私たちも、体制を万全に整えて臨みます。

 後はリラックスして、元気な彼らに会える時を楽しみに待ちましょう。

 とにかく、ここで絶対に油断はしないように。ゴールテープを本当に切る瞬間まで、しっかりと毎日を大切に過ごしてくださいね」



 ゴールテープを本当に切るその瞬間まで、毎日を大切に。

 俺たちは、彼の真摯な言葉を深く脳に刻んだ。









「1月5日か……予定通りに行けば、二人の誕生日は1月5日、ってことだよね。——正月三が日が明けてすぐなんて、なんともめでたくて明るい時期だ」

「考えてみれば、本当にそうですね。なんだかイベント好きな子達が出てくる気がしてならない……」

「うあー、男の子が一度に二人増えるだけでもう賑やかすぎるのに、イベント好きって。もし二人ともむちゃくちゃわんぱくだったらどうしよう……」

「あはは! でも可能性は大いにありますねー」


 健診が済んで帰宅した夕刻のリビングのソファで、神岡のいれてくれたミルクティを飲みながら、俺たちは何とも明るい空気に身を委ねた。


「本当に、ゴールまであと少しだ。

 先生もおっしゃっていた通り、出産日当日まで決して油断しないでいこう」


 穏やかな口調でそう話す彼の優しい眼差しに、俺は深く頷く。


「俺も、肝に銘じます。

 ここまでいろいろあっても、今こんな風に順調な状況で過ごせてるなんて……妊娠を決意した時の半端ない不安感を思えば、本当に奇跡みたいです。

 だから、来年1月の出産日まで、絶対にこのまま……。

 ——あ」


 ふと、とても大切な何かが脳内で一つに繋がった気がして、俺はマグカップに伸ばしかけた手を置いて神岡を見た。


「ねえ、樹さん。

 この子達の名前、ものすごく候補が多くて今までずーっとウンウン迷ってきましたよね。

 けど……今日、予定日の話が聞けて、一気に決まりそうじゃないですか?」


「ん、どういうこと?」

「だって二人は、年明け——『新春』に生まれてくるんですから。

 すごくいい響きなのに、時期がずれてる気がして迷っていたあの名前、やっぱり選んでいいんじゃないかなって」


「——そうか、新春か。

 うん……確かに、君の言う通りだ」


「じゃ……。

 これでやっと揃いましたね。兄弟の名前。

 ——『はる』と、『みなと』」



「晴、湊。

 うん。やっぱりいいな、とても。何度口にしても、広々と晴れやかな空と海が眼に浮かぶようで。

 空、海——そんな、広く深い心を持った男に育ってほしいよな」


「名前って、不思議ですよね。その名前の響きが似合う人になっていくような……そんな気がします。

 だって、この世に生まれたその瞬間からずうっと、その響きで呼ばれるんですもんね。

 晴も湊も、その名前に相応しい男に育ちます、きっと」


「——そうだね。

 僕と君が本気でそう願って育てれば、名前通りのいい男に成長するのは間違いない」


 大きく深い青空と、広く爽やかな海。

 そんな明るい景色を心に描いて、俺は一つ大きく息を吸い込んだ。


「ここからが、本当のスタートなんですね。

 ……でも、名前が決まると、いよいよ自分たちが親になるんだっていう感覚がリアルになりますね。はあ、なんだか心拍数上がってくる……」


「ははっ、ひと月後にはこの子たちが本当に出てくるんだぞ。二人と対面して挙動不審にならないようにしとかなきゃ。なー晴、湊」



 自分と、愛する人の命を混ぜ合わせて作った、新しい命。

 そのふたつの命が、もうすぐこの世に生まれてくる。

 ——心から待ち望んだ、新しい命に会える。



 俄かに胸から目の奥へぐっと突き上げる熱いものを感じながら、俺たちはその健やかな命たちを優しく掌で摩った。









 そして、12月24日。

 クリスマスイブ、かつ俺の28歳の誕生日だ。



 その日、神岡が俺とのパートナーの関係を正式に会社へ届け出た。

 今春から社内規定に新たに加わった、同性婚に関わる規定の適用を受けるためだ。

 規定の内容は、同性のパートナーにも配偶者と同等の福利厚生等の待遇を保障するというものである。


 2年ほど前、神岡は、この新規定の制定を社内の賛成多数により勝ち取った。——これはぶっちゃけ、何としても俺をパートナーに迎える為に神岡が社長に対して打って出た画策だった、と言っても過言ではないのだが。

 この4月の施行以降、既にこの規定の適用を受けた社内カップルは数組あるらしく、他社に先んじたこの動きに神岡工務店の企業イメージも大きく上昇したようだ。

 


 その夜。

 クリスマス兼バースデーケーキとチキンをダイニングテーブルに並べ、俺たちはマリッジリングを贈り合った。

 シンプルなシルバーのリング。俺の指にも神岡の指にもさり気なく似合い、二人同時にそれと決めた品だ。



「それからもう一つ、君に提案があるんだけど」

 真っ白いクリームにイチゴの輝くケーキを綺麗に切り分けながら、神岡が言う。


「なんですか?」

 アップルサイダーのグラスを傾けていた俺は、彼のどこか改まった声に顔を上げた。


「子供たちが成長してくれば、いずれこの部屋じゃ手狭になる。

 だから——数年後くらいの目処で、新しい家を持てればと思うんだ。

 同性カップルだけでなく、その子供も『家族』として承認を受けられる『パートナーシップ・ファミリーシップ制度』を設けている街がある。会社からもそう遠くない。そこに、新たに土地を購入したいと思うんだが……どう?」


「……俺も、少し前からそんなことを考えていました。

 子供たちが生まれれば、俺たちは今より更にしっかり『両親』として結びつき、子供たちの権利や安全を守れなきゃいけないんじゃないか……と。

 そう考えると、法的な効力はないとしても、家族としての関係を認める制度の適用を受けることは、大きな意味を持ちますよね。

 導入されている地区はまだ僅かですし、その街の住人であることが条件ですから……

 俺も、樹さんの案に大賛成です。

 ……でも……簡単に土地を買えるような場所では……」


「いや。ちょっと調べてみたが問題ないよ。例えば、充分な広さがあって、駅から徒歩10分、公園も幼稚園も近い好物件だと、相場はこれくらいだけどね」

 彼は俺の耳元に顔を寄せると、その額をさらりと囁く。



「…………」


 その金額を脳内に反芻しながら、俺は改めてまじまじと彼の瞳を見つめた。



「僕が君をハウスキーパーとして雇った時以来の有意義な出費だ」


 彼は俺を見つめ返すと、事も無げに美しく微笑んだ。



「……樹さんって、普段は全然すごい感じしないんだけど、やっぱ雲の上の人なんですね……

 こういう時に、それを改めて見せつけられる気がします」


「ははっ、普段全然すごい感じしないってなんだよ?」

 明るく笑いつつワインのグラスを傾けると、彼は悪戯っぽく瞳を輝かせて囁く。


「——そう言うなら、君はそんな雲の上の男をこうしてメロメロにさせる困ったひとだ」


「……んー。そういうことにしときますか」


 ため息混じりにそう答え、一緒にクスッと笑い合う。



 そんな風に、クリスマスイブの静かな夜は穏やかに更けていったのだった。



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