変身

 11月、最初の週末。

 俺は、めでたくクリニックを退院した。

 子宮口、子宮頸管いずれも、退院しても心配のない数値まで改善したためだ。

 現在妊娠8ヶ月、29週目。理想の出産時期まであと約7週間だ。


「先生、お世話になりました」

「まずは良かった。けどな、本番はこれからだ。

 三崎さん、君は自由になるとギリギリまで頑張りたくなるタイプのようだから、その辺はくれぐれもやり過ぎないように。とにかく無理は禁物だからね!」

 退院の日、深く礼をする俺と神岡に向かって、藤堂はいつもの快活さに厳しさを漂わせて俺に釘を刺す。

「はい。肝に銘じます。今回の痛みと恐怖感は二度と味わいたくないと、つくづく身に染みましたので」

「僕も、出産まではできる限りマメに連絡を入れたり、定時に帰宅できるよう努力します」

 神岡も俺の横に立ち、真剣な表情でそう呟く。

「まあ、神岡工務店の副社長さんですから、お忙しさはお察ししますが……ここはぜひ、極力彼へ意識を向けていてあげてください。妊娠や出産は、いつ何が起こるか予測のできないものですからね。

 三崎さん、私の携帯へもいつでも繋がるようにしてあるから、何か体調が変わったりした場合はすぐに連絡をください。常に万全の体制を取れるようにしておきます」

「……ありがとうございます、先生」


 藤堂の言葉は、いつでも俺たちの不安をしっかりと支えてくれる。

 この人に出会えて良かったと、その度に深い感謝を覚えずにいられない。




 家へ向かう車内。

 神岡は、ほっとほぐれたような明るさの中に、微かに複雑な表情を漂わせて話す。

「君が入院している間、君は先生のすぐ側にいるんだから安心だと思いつつも、真っ暗な家へ帰ってくる毎日がとんでもなく寂しかった。

 君がまた家で待っていてくれる日々が戻ってくるのは、本当に嬉しいよ。

 でも……先生も言っていたように、とにかく無理はしないで欲しい。家事も料理も、気持ちが向かない時は一切やらなくていいんだからね。

 君が家であれこれ頑張りすぎてるんじゃないかと思えば思うほど、僕の心配は大きくなる。——この気持ち、わかるよね?」


 神岡の深い気遣いに、俺の胸は改めてじわっと温かくなる。


「はい。

 今回は、こんな風にあなたや周囲の人たちに散々心配をかけて……それもこれも、自分自身の気持ちにうまくブレーキがかけられなかったせいだと、心底反省してます。

 今後は、あなたのためにも、思い切りだらーーーっと過ごしますので、安心してください。なんにもやらなさ過ぎて、『いい加減にしろ、だらしない!!』とかキレたりしないでくださいね?」

「ははっ、君がソファでだらっとテレビでも観て笑ってる姿を見られるようなら僕は安心だ」


 そんなことを話しながら、笑い合う。



 ——とにかく。


 何が何でも、目の前にあるこの幸せを守り抜く。

 何が何でも——無事に出産を終え、新しい二つの命を抱いてこの人と微笑み合う日を迎える。


 彼の柔らかな微笑を見つめながら、俺は静かにそんな決意を新たにしていた。









 そうして、 約1ヶ月半ぶりに我が家へ戻ってきて、数日後。

 俺宛に大きな包みがドカドカと3つ届いた。

 差出人は、宮田だ。



 先日病院へ見舞いに来た際に、楽しい遊びでも思いついたようにニヤニヤしながら俺に話した彼の言葉を思い出した。

『そうだ。今度、つけ心地が良くて傍目からもまずバレない人気のウィッグを君に送るよ。君に似合いそうなマタニティ用の服とかと一緒にね。

 たまにちょっと外に出たくても、今の見た目じゃ周りの視線も鬱陶しいだろ? しっかりメイクしてちょっと色っぽい仕草でもすれば、君なら綺麗な女子に変身できること間違いなしだ。最近は君くらいのすらっと長身な女の子も全然珍しくないしね。

 どうせ家でも暇になっちゃうんだろうから、この際普段は絶対やらないそういうイタズラも楽しんでみたら?』



「……あいつの好きそうな悪ふざけだよな、全く」


 俺は、ブツブツとそんなことを言いつつ包みを開けていく。

 中を開けると、艶やかな栗色の上質なロングのウィッグと、大きいサイズのピンクのマタニティワンピース、黒いタートルネックの柔らかなセーターが出てきた。そして、暖かそうな黒のマタニティ用タイツ、淡いグレーの冬用のコートと、履きやすそうなショートブーツ。立派なメイクアップセットまで完備されている。


 うーーーーん……宮田、やるな。

 さすが美容師、センスがいいし、行き届いてる。ってか、かなり金もかかってるだろこれ……今度何か礼をしなくちゃ。

 これがあれば、とりあえずちょっとした外出くらいなら充分対応できる程度に変身できそうだ。人目を気にせず外に出られるなんて、絶対楽しい。



「……やってみよ」


 思わぬ好奇心がムズムズと動き、気づけば俺は宮田同様ニマニマしつつ早速着替えに取り掛かっていた。









「ただいまー。柊くん、体調はどう?」

「お帰りなさーい、あなた♪」

 その夜。

 いつものように、俺を気遣う言葉と共に帰宅した彼に、俺はたたたっと走り寄りながらきゅるんっと可愛く返事をした。

 もちろん、例のウィッグと衣装、そしてメイクまで完璧に済ませた出で立ちでだ。


「————!!?」

 神岡は、俺を見るやギョッとした顔になり、大きく一歩後ずさった。


「……あ、あの……??」

「樹さん、俺ですってー♪♪ 驚きました?」


「え……し、柊くん……??

 どっ、どうしたのその格好……?」

「この前のお見舞いの時に宮田さんが言ってた品物、今日届いたんです。すっげー完璧な女装グッズ! なかなかかわいい仕上がりでしょー?」



「…………

 というか……

 すごく綺麗で、一瞬びっくりした……」



「……」



 俺をまじまじと見つめて思わず本音を零したような神岡の言葉に、ふざけ半分だった空気が俄かにどこか甘酸っぱく変化する。


「……あ……

 ありがとうございます……」



「すごくいいよ。違和感なくて驚いた。

 その姿なら、いつでも気軽に外の空気を楽しめるね。

 男が振り返る素敵な妊婦さんだ。

 ——宮田くん、ナイスアイデアだな」


 静かに微笑んでそう呟く彼の表情に、どこか陰がさした気がして——俺は、その眼差しをじっと覗き込んだ。



「あの……

 樹さんが気に入らないなら……こういうの、やめます」


「気に入らないわけないだろ?

 君が嬉しそうで、僕も嬉しい」


 そう優しく答えながら、彼は俺を腕の中に引き寄せる。

 そして、俺の耳元で、低く掠れそうな声が囁いた。



「——ごめん、柊くん。

 僕は、いつもこんな風に、君の気持ちに気づいてやることができない」



 俺の肩に回った彼の両腕に、ぎゅっと強い力が篭る。



「大島係長とのことも……

 僕がもっと早く、君の周囲の環境の厳しさに気づいていたら、きっとあんなことにはならなかった。

 あの件があってからずっと、その痛みが僕の中にぐるぐると回っていた。

 そして、今も。

 こうやって他の誰かが君のことを細やかに気遣うその様子を見て、初めてはっと気づかされたりするんだ。


 今、君が味わっている息苦しさや、どうしても避けられない周囲からの視線や反応。

 それらが、君にとってどれほど重いかを、僕は敏感に感じ取ってやることができない——いつも。

 本当ならば、君のために一番最初にそういうアイデアを思いつくのは、僕でなければいけないのに。


 いつまで経っても抜け出すことのできないこの不甲斐なさは、一体どうしたらいいんだろうな……

 本当に、ごめん」


 その語尾が、消え入るように震えた。



「——樹さん。

 俺、あなたにそういう気の利くパートナーになってほしいなんて、これっぽっちも思ってませんよ」


 強く抱き締められたまま、俺は彼の耳元へ囁き返す。



「あなたがちょっと天然チックな変人だ、ということは、あなたと最初に出会った時から知ってます。

 そしてあなたが、外では大勢の社員達のためにまさに体を張って仕事をしていることも。

 そういうあなたに、俺は惚れたんですから。


 俺の幸せは、そんなあなたの隣で生きることです。

 そういうあなたに愛されることです。

 裏返せば——たとえどれだけ行き届いた環境を用意されても、天然で変人なあなたが隣にいなければ、俺は幸せを感じられない。

 つまり、そういうことです。


 だから、俺を幸せにしたいと思うなら、あなたはただこれまで通り、俺の隣で俺を愛していてください」



「——それでいいの?」

「逆に、あなたがこれから別人みたいに変わったりしたら、俺のあなたへの想いが一気に冷めちゃうかもしれませんよ?」


「——……

 それは困る。絶対に」

「でしょ?」


 やっと、彼の表情が柔らかく綻んだ。

 その首筋に、俺は思い切り腕を回して引き寄せる。


「あなたとこうしていられれば、俺は幸せなんです」



「……うん。

 僕もだ。

 ——ありがとう、柊くん」



 強く互いを抱き締め——そして、間近で視線を合わせる。



「こんな綺麗な君が、街中まちなかでほかの男に口説かれないか心配だ」

「妊婦を口説く変わった趣味の男なんて、いませんよ」



 そうして俺たちは同時に小さく笑い合った。



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