困難
話し合いの最中の俺の目眩で、神岡の実家でのバーベキューから帰宅した夜9時。
俺と神岡は、その後すぐに藤堂クリニックへと向かった。
もしも体の不調や異常が出た場合は、連絡をくれればいつでも対応する、と以前藤堂から説明されていた。
「目眩もさっき一瞬でしたし、もう全くいつも通りだし……多分大丈夫ですから」
「多分とか言ってる場合じゃない。タクシーも呼んだし。必要な荷物は僕が持つよ」
神岡は俺の言葉を完全に無視し、ざわざわと青ざめた表情で不安げにそう呟く。
確かに、俺自身にも、大丈夫と言える根拠はなく……神岡に引っ張られるようにタクシーに乗り込んだ。
「んー。少し貧血が出てるようですね。それに、顔色もあまり良くないようだ……」
いつもの検診同様に注意深く俺の身体をチェックした藤堂は、検査結果のデータから顔を上げて俺の表情を見つめる。
「……最近、何か無理をしたり、疲労を溜めるようなことはしていませんか?」
「え、と……」
心当たりはなくはない……というか、かなりある。
答えを探して焦る俺の内心を、藤堂は鋭く見抜いたようだ。
「三崎さん。
きっとあなたは、いつも人一倍頑張ってしまうタイプでしょう?
どんな時も変わらず笑顔だし、とても冷静で、しっかり者だ。
けれど、常に上限まで頑張らなければという固定観念が、もしあなたの中にあるとしたら……今の体調の下では、とても危険だ」
藤堂の真剣な眼差しが、俺を諭すように注がれる。
「あなた一人の身体であれば、それはあなたの魅力であり、大きな長所です。
でも、今は違う。
今は、あなた自身の気持ちよりも、優先しなければならないものがあります。
だから、どうか考え方を切り替えて欲しい。
——今お腹で育っている二つの命を守ることが、あなたが今、何よりも優先しなければならない仕事なんですよ」
「————」
そんな言葉に、俺も神岡も、自ずと視線が深く下がる。
「……ああ、済みません。つい説教くさいことを言ってしまって。
自分自身を切り替えるって、そう簡単ではないですよね。
それに……日々の中で、重圧や問題から逃げていては先に進めない場合だって、いくらでもある。
しかし、だからこそ、敢えて言わせてもらいました。
回避できるストレスは、可能な限り避けてもらいたい。それは、問題から逃げているのではなく、大切なお二人の赤ちゃんたちのためだと。そう考えて欲しい。
——医師の立場から、お二人にお願いします」
真摯な思いのこもった藤堂のその言葉が、ずしりと胸に響く。
「…………今日はありがとうございました、藤堂先生。
先生のお話を常に頭に置いて、子供達を守ることを最優先に生活しなければと……改めて、肝に銘じます」
神岡が、真剣な面持ちで深く頭を下げる。
「まあ、何事もあまり思いつめ過ぎずに行けるといいですね。
身を投じて全力で事に当たるのは、無事赤ちゃんたちが誕生してからいくらでもできるんですから。
じゃ、貧血のお薬、出しときますね」
藤堂はちょっと冗談めかして微笑みながら、そんなことを言った。
*
「よかったね、特に大きな問題がなくて」
クリニックから帰宅して、気持ちを落ち着けるようにミルクティを用意しながら、神岡は静かにそう呟いた。
「……そうですね」
俺も、リビングのソファに座り、小さくそう返す。
「……ごめん、柊くん。
君の身体のことを考えれば——会社の後継者のことに関しては、急いではいけなかったのかもしれない」
キッチンで二つのカップに紅茶を注ぐその背が、ふうっと大きなため息とともに俯いた。
「いいえ……俺も、妊娠の報告と同時に、ご両親に俺たちの考えを伝えておいた方がいいと思っていましたから」
湯気の上がるマグカップをテーブルへ置きながら横に座った彼に、俺は明るく微笑む。
「どちらが悪い、って責めるのは、やめませんか? これからも、どんなことも」
「…………
君は、いつも優しいな」
彼の温かい眼差しが、俺を見つめる。
その瞳の奥の沈んだ色に、今回の検査結果だけでは拭われない不安が彼の中にあることを、俺ははっきりと感じ取る。
「柊くん。
藤堂先生も言っていた通り、全てのことに全力で向き合おうとする姿勢は、今は危険だ。
後継者の件については、今日僕たちの気持ちは両親に伝えたのだし……すぐにちゃんとした答えが出ないとしても、今は一旦忘れよう。
それと……
君が妊娠していることを、今後社内に報告する件についても……
君の心身への負担を考えれば……」
そう呟きながら、彼は手の中のカップに目を落とす。
「————」
彼の言葉に、俺も答えを探せず、口をつぐんだ。
自分が妊娠をしていることを、社内に報告する。
この件は、恐らく……どうやっても、避けることはできない。俺が神岡工務店を退職でもしない限りは。
やり甲斐のあるこの仕事をここで辞める気など、もちろん一切ない。
だが、日一日と大きくなる腹部を、これ以上はもう隠せない。
そして、会社に籍を置き続けるのであれば、いずれ出産の為の休暇等の申請も必要になる。
結局、社内にはどうしても事実を知られることになるのだ。
藤堂の言ったように、余計な重圧やストレスを回避するために、仮に明日から無理やり休暇を取得する方法を考えるとしても……
本人から何の説明もないまま、噂を伝え聞くような形で俺の妊娠や出産の事実を知ったとしたら……同僚や上司は、一体どんな反応をするか。
事実を言う勇気が持てずにびびって逃げた、とは死んでも言われたくない。
——生まれてくる子たちのためにも。
そんなことを思うと、目の前の困難から逃げることの方が、むしろじわじわと自分自身を苦しめる気がしてならない。
例えそんな形で出産を終えても、何食わぬ顔で会社に復帰することなど、俺は絶対にできない。
次第に迫ってくる、避けることのできない大きな壁を、なす術もなくただ見つめるだけ。
そんな追い詰められるような苦しさを、彼も今、感じているに違いない。
「——樹さん。
ここは、絶対大丈夫だ、と思わなきゃいけないところです。
……こういう苦労を承知で、新しい命を迎えることを望んだんですから」
俯いていた顔を上げ、俺ははっきりとそう言葉にする。
彼に伝えると同時に、自分自身にも、そう言い聞かせるために。
「——柊くん……」
「藤堂先生は、回避できる重圧は極力回避してほしい、と仰ってましたね。
けれど——それは、回避できないことからも逃げろ、という意味ではないはずで。
逃げてはいけない問題には、ちゃんと向き合いたい。
そうでなければ、回避したつもりの重圧に、この先ますますのしかかられるだけな気がします。
だから、今必要だと思うことは、やり遂げます。
そして、お腹にいるこの子たちも……何が何でも、絶対に守ります。
来週の月曜、部門の上司に、きちんと自分の妊娠のことを報告しようと思います」
神岡の瞳をまっすぐに見つめ、俺はそう伝えた。
「…………わかった」
俺の決意の固さと、その裏にある思いを感じ取ったのだろうか。
彼も、静かにそう答える。
「守ってみせる。
君のことも、この子たちも。
月曜の朝は、僕も、君と一緒に設計部門へ行く。
二人で一緒に、今回のことを藤木部長に報告しよう」
「はい。
一緒なら、大丈夫です。——絶対に」
「うん。そうだな。
一緒なら、乗り越えられる」
お互いの眼差しの中に、決して揺らぐことのない決意のようなものを感じ合う。
そして俺たちは、初めて穏やかに微笑み合った。
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