未来
「わかってるんだ。本当は、こんなことは贅沢な悩みなんだって。
僕が誰かの親になるなんて——これまでの人生で、一度だってリアルにイメージできたことなどなかったんだから。
心から愛する女性に出会い、幸せいっぱいな結婚をし、そのひとと僕の子が、またこの会社を継いでいく。そんな未来は、僕の中ではどこかかけ離れた彼方のことだった。
けれど、そういう将来を当然のように期待されていることは痛いほど感じていたから……僕はいつでも、窒息するような苦しさを感じていた」
健診を終えて帰宅した、日曜の夕暮れ。
リビングのソファで、彼はぽつぽつと話し出して淡く微笑む。
「君も知っているように、うちの会社は、曽祖父の創業以来神岡家の跡継ぎが社長を世襲する形で経営している。
両親とも僕を次期社長にふさわしい人材にするために相当な厳格さで育てたし、僕も必要な知識や心構えを身につけるために必死で努力した。
けれど……
僕は、そんな家に生まれた自分自身を、不幸だと——ずっと思ってきた」
彼の表情に、言ってはいけないことを無理やり口にするような苦しげな思いが浮かぶ。
その言葉に、俺は思わず肩が震えた。
「子供の頃は、訳も分からないまま、親の教えに従った。
けれど——成長し、自分の意思がはっきりとすればするほど、両親の希望と自分自身の望みは、どんどんずれていく。
そのことに、僕は次第に、背筋が冷たくなるような落胆を感じるようになった。
気づけば、自由になることなど、何一つなかった。
将来の夢も、恋愛も。
もしも僕の中に、次期社長という責務に対して前向きな意欲があったら、きっとそういう日々も少しは幸せだったのかもしれない。
だけど——僕は、この仕事に興味を見出すことができなかった。……家を創る喜びを情熱的に語る君に出会うまで。
僕にとっては、とてつもなく重たいものを背負わされ、大切なものを諦めるばかりの人生……そうとしか、感じられなかったんだ」
そう言うと、彼は俯き、小さいため息を落とした。
神岡の夢は、空を飛ぶことだった。
パイロットになって空で仕事がしたいと、幼い頃の彼は夢に描いていたという。
そんな彼が現実の重さに気づき始めたのは、いつ頃からだったのだろうか。
そして神岡は、大学時代に、深く愛した同性の恋人を失っていた。
自分が大企業の後継者であるという事実を、神岡は長く恋人に切り出すことができずにいた。
お互いにかけがえのない存在となった後に知らされたその事実に、恋人は深く悲しみ、彼を責めた。なぜこうなる前に言ってくれなかったのか、自分がそんな重責を担う男の恋人でいられるはずがない、と。
いくら引き止めて説得を繰り返しても、その人は顔を上げることなく、静かに神岡の元を去った。
密やかに育てた同性同士の恋は、あまりにも呆気なく壊れたのだ。社会的立場という見えない重圧の前に。
「僕たちに、息子が生まれる。
はっきりとそう知った時、僕の頭は思わず不安でいっぱいになった。
どうあっても君をパートナーにしたいという僕の強い希望を、親父も止むを得ず認めたんだろうと思う。後継ぎやそういう部分については、両親の中でも一旦は諦めているのかもしれない。
けれど——跡継ぎが生まれる、となれば、話は別だ。
親父は、僕らの子を神岡工務店の後継者にと強く望むはずだ。
でも、僕は……
子供達の人生から自由を取り上げるようなことは、どうしてもできない。僕が経験したような苦しみは、味わわせたくないんだ。絶対に」
彼の眼差しは暗く沈み、ざわざわと音を立てる。
彼の思いが、痛いほど伝わってくる。
親の期待に応えなければ。
そう思いながらも、抑えきれず溢れ出してくる自分の望み。
憧れた職業を諦め、愛する人さえも諦め——
ここにくるまで、どれほどたくさんの感情と闘い、俯き、堪えてきたか。
同じ苦しみを、生まれてくる子供たちには経験させたくない。
その気持ちは、俺も全く同じだ。
俺は立ち上がり、白ワインのボトルを冷蔵庫から取り出すと、グラスを2つ持ってローテーブルに並べた。
「少し、飲みませんか。
夕食の時に開けようと思って、甘口の白ワイン冷やしておいたので。
難しく考え込んでも、きっといい考えは浮かばない。……そんな気がしませんか?」
彼は驚いたように俺を見てから、少し困ったように微笑んだ。
「……全く……
君には、いつも驚かされる。
——貸して。僕が開けよう」
彼は、手際よくその栓を抜くと、美しい液体をグラスへ静かに注いだ。
「俺は、一口だけ」
「うん。お腹の子たちが酔っ払っちゃうもんな。
でも、君が一口付き合ってくれるだけで、僕はほっと気持ちが解れる。……不思議だよな」
「時々、あー!樹さんと一緒にとことん酔いたいーっ!ってめちゃくちゃ思いますけどね」
そんなことを言いながら、一緒に軽く笑い合う。
少しだけ注がれたワインの香りを楽しむ程度に味わい、俺は少しずつ思いをまとめながら呟く。
「……俺も、生まれた瞬間から子供たちを何か窮屈な枠に押し込むようなことは、絶対にしたくありません。
俺は、両親があんなふうだし、人一倍マイペースに行動してきた人間ですから、幸いそういう辛さは味わわずに来られました。
でもそのおかげで、今こんなにも大きな幸せを手にしている……そんな気がします。
思った通りに進んでみたい。そういう気持ちを周囲から応援され、実行できたから、あなたに出会えた。そして、こうして新しい命まで授かった。
自分で選んだものだからこそ、これが幸せだと納得できる。……きっと、そういうことなんですよね」
俺の言葉に、神岡は頷く。
「有無を言わさず背負わされたものを自分の幸せとして納得するまでには、長い時間と忍耐が要る。
それよりも僕は子供達に、明るい何かに向けて自由に手を伸ばしてほしい。手に入れたいものに向かって、全力でぶつかっていく。そんな自由をあげたいんだ。
たった一度限りの、大切な人生なんだから……そうだろ?」
彼の、父親としての愛情が、もう既にここに生まれている。
そう思った。
生まれてくる命を、全力で幸せにしたい。
そんな願いが、彼の中で大きな波のように揺れているのを感じる。
「近いうちに、僕の両親の方へも、今の僕たちの状況を報告に行かなければならない。
その際に、男の子の双子という事実を伝えれば……親は恐らく、会社の後継者に関して強い希望を伝えてくるだろう。
両親とまた対立するのかと思うと、胸に重石がのしかかるようだが——僕も、自分の思いを譲る訳にはいかない」
「……でも——」
俺は少し考え、手にしていたグラスを置いた。
「もしもこの子たちが、神岡工務店の仕事を知って、『これこそが自分の生きる道だ!』と、熱意を見せてくれるとしたら……?」
「…………」
意表を突かれたように俺を見る神岡に、俺は明るく微笑む。
「それが絶対にないとは、言い切れませんよ?
むしろ、可能性は低くない。
だって、子供たちの中には、半分俺の血が入ってるんですから。
俺自身もその両親も住宅設計の魅力に取り憑かれた、『家建てるの大好きオタク』みたいな遺伝子が」
「……『家建てるの大好きオタク』……?」
「ええ。
自分から進んでその道を選ぶのであれば、それは決して不幸でも苦しみでもないはずです。どんなことだって、きっと乗り越えられる。
そういう可能性を信じて、まずはのびのび自由に育てる……そうできたら、一番いいなと……そんな気がします。単純に、親として。
会社の実情をよく知らない俺なんかが、偉そうにいろんなこと言えませんけどね」
「…………」
「あ、そろそろ夕食の支度始めないと、食事が遅くなっちゃいますね。今夜は超美味いステーキ肉があるんです。両親が高級なのをどさっと送ってよこしたんで。あー、腹の虫が騒ぎ出した!」
そのままじっと何かを考え込む神岡に、俺は明るくそう言い残してキッチンへと立ち上がった。
*
「美味いですか?」
「うん。素晴らしい。さすが君のご両親だ。選ぶものが一流だね——もちろん、君の料理の腕前もだが」
両親の送ってきた最高級の肉をシンプルに焼いたサーロインステーキを、神岡は至福の表情でがっつく。
喋るために手を止めたが、それまで俺も無言でひたすら肉を頬張っていた。
俺も男。彼も男。
肉のがっつきぶりも全く一緒だ。
——幸せだ。
この人と一緒なら。
食べる時も、悩む時も。
「良かったです」
何ということもないそんな言葉を交わし、俺たちは軽く微笑み合った。
*
「さっきの君の言葉……よく考えてみたよ」
最高に贅沢な、そんな食事の後。
ワインの柔らかい酔いに包まれながら、神岡は穏やかに呟いた。
「君の言う通りだ。
子供達が、ウチの会社の仕事に意欲や誇りを感じてくれたとしたら、こんなに嬉しいことはない。
だから……子供たちに足枷をはめるんじゃなくて、自然に『この仕事が好き』と感じられる何かを教えてやれたら。
それが、僕と君の大切な仕事の一つなのかもしれないな」
俺は、今はアルコールは禁止だが……不安の遠のいた彼の表情を見つめながら、まるでほろ酔いでもするような心地良さに浸る。
「俺も、それを考えていました。
俺が両親の仕事に魅力を感じたのは、何かを押し付けられたりすることのない空気の中で、生き生きと目を輝かせて仕事に向き合う二人の姿を側で見ていたからなんですよね、きっと。
そんな風に、子供達にも俺たちの仕事の魅力を伝えられたら、最高ですね。——この仕事を彼らが引き継ぐかどうかは別にしても」
俺のそんな言葉に彼は微笑みながら頷き、少し表情を引き締めるように呟く。
「うん。そうだな。
今度報告に行く時は、今の僕たちの気持ちを、両親にそのまま話そう。
それで親父が納得するかなんて、わからないけどね」
「その時は、その時です。
誰が何と言っても、生まれてくる子たちの親は俺たちなんですから。そんなにあれこれ干渉されては黙っていられませんよ」
「……なんだか君の本性が見えそうで、ちょっと怖いな」
「樹さん。俺の本性を見て後悔しても、もう遅いですからね?」
「後悔なんかするわけない。
——むしろ、そういう君に散々噛みつかれるのも悪くない」
俺を見つめる彼の囁きが、次第に甘やかな熱を帯びていく。
そうなのだ。
今夜は、健診も無事済み、月イチの幸せが許された夜なのである。
「……よかった。あなたの苦しい表情が消えて。安心しました」
「やっぱり、僕のパートナーはこの世にたったひとりだ。
こうして君が隣にいてくれるから、僕は何とか自分のこの道を歩けるよ」
そんな囁きと共に優しく訪れたキスが、唇からゆっくりと首筋を伝い下りる。
シャツの襟元を開かれ、胸の先端にごく微かに触れた唇の刺激に、俺の全身が思わずビリビリと反応した。
「……ひゃ……っっ……!!」
妊娠の影響で、以前よりもそういうとこがずっと敏感になっているのだ。
そんな俺のヘンテコなリアクションに、彼は思わずくすくすと笑う。
「君の頭脳はいつもこの上なく聡明に働くのに、身体の方はこんなにもかわいくて……あー、もう一秒も我慢できない」
今夜こそという勢いで俺の身体を抱き上げベッドルームへ運びながらも、彼の唇は胸に戯れ付き、離れようとしない。
「……ねえ柊くん、もしかして……ここの色とか大きさが少し、前よりも……その」
「あーーーーーストップ!!! それ以上言わないでください恥ずかしいからっ!!! 仕方ないでしょ妊娠中なんだし……! だっだからそこあんまり刺激しちゃだめですってば!」
「え、だって……
頼む。もう少しだけ」
「……んう……っっ……
それ以上いじられたらもうあちこちがヤバいですっ……!!」
そんなこんなで、この上なく真剣なはずだったやり取りは、いつしかベッドの上でぐずぐずに甘く崩れていったのだった。
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