五十年の執着

知らない人

復讐

 とんでもない真実を思い出しましてね。どうやら普通の人間というのは、普段生きている中で死ぬことを、まったくと言っていいほど考えないらしいんですよ。例えばですよ、会社で上司に理不尽なお叱りを受けたり、疲れ果てた体でようやく帰った家ですら、マンネリの相手とその子分たちにのけ者にされてもなお、自死の二文字が頭を駆け巡らないようなのです。

 私も以前は普通の人間だったのですが、近頃はつくづく普通の感覚という物を忘れてしまっておりましてね。五十年前に一度精神を壊してから、何をするにも自死と言う言葉が浮かんでしまうようになったのです。

 例えばお腹の鳴る時に考えることと言えば普通、ラーメンにするか、うどんにするか、もしくは時間もお金も惜しいと水だけで済ませるか、とにかく自死などと言う物騒な言葉は普通なら浮かばないと思うのです。

 私が言いたいのは、選択肢が二つ以上浮かぶような場面では、ほんの些細なことでも居直り強盗の如く自死と言う文字が私の頭の中を闊歩し始める、と言うことなのです。ですから私は死なないために、選択を極力排除しました。ええ。この灰色のシャツも、灰色のズボンも、それに由来するものです。娘と夫のプレゼントでしてね、これを身に着けていると、どこからともなく温かい笑い声が聞こえるのです。

 一年前に出所した日から、今日、あなたを見つけ出すまで肌身離さず身につけてきました。この衣服が初めて私の手元にやって来たのは、……いつでしょうか。とにかくあの頃は良かったです。体は若く心も希望に溢れていましたから。


 ところでこのサイレンは、警察ですか。あなたの表情を見るに、幻聴ではないようですね。しかしどうしてばれたのでしょう。なるほど。この後ろ手に握っているのは、もしかして携帯電話ですか。ずいぶん小さいですね。スピーカー?なるほどよく分かりませんがこれで警官を呼んだと。椅子に縛り付けられ、自由を奪われ、さらには両手両足の爪をはがされてもなお死を望まなかったのは、希望があったから、と言うわけですか。

 なんだってこうも、理不尽なんでしょうね。

 あなたのような悪人に……、いえ、私も悪人でしょうか。人を拷問にかけている時点で善ではありませんね。明らかに。とは言え、私と、私の家族が受けた痛みは、これでもまったく足りない。あなたが死を望んでいない時点で、全く足りていない。

 出所するまで長かった。五十年ですからね。社会は大きく変わり、私は年老いた。ですが無意味にサイレンがやかましいのは、今も昔も変わっていない。このサイレンは明らかに私に与している。そうでしょう?ということは、役立たずなのもやはり、昔と変わらないのでしょう。ここを特定するのには、もうすこし時間がかかりそうです。

 それまで昔話をしましょう。

 あなたは五十年以上も昔、私に愛の告白をしました。ええ。私は確かにあなたを愛していた。駆け落ちが脳裏をよぎる程度には。しかし私は自らのうちに芽生えたその気持ちを受け入れられなかった。同性愛が禁忌とされたあの時代では、どうしても幸せな未来が思い描けなかったからです。しかしあなたは諦めが悪かった。私があの人と結婚することになっても、子供ができてもその決意の固さは変わらなかった。

 どうしても私を諦めきれなかったあなたは、私の家族を皆殺しにした。家に帰ってきて凄惨な光景を目撃した私は、もうどうにでもなれという気分になっていました。やってきた小太りの警官にも適当に首を縦に振るばかりで、犯人があなたであることは明らかだったのに、証言はしなかった。

 あなたという狂人を好きになってしまったことへの後悔、そして罪悪感が私を偽証へと導いたのです。

 私は法で裁かれることで自分を罰しようとしました。そんな私がどうしてあなたの家族を皆殺しにしたのか、気になりますよね?いいえ、被害者面なんてしないでください。私を狂人に作り替えたのはあなたです。家族を皆殺しにした狂人として刑務所に放り込まれ、自死を選ぶこともできない環境で、延々と自らの過ちを回顧させられる。それがどれほどの苦痛だったか、あなたに想像がつきますか?


 どうして笑うんですか。あなたはもう気が狂ってしまったのですか。


 ……ええ。確かに私は五十年間、常にあなたのことを考えていました。ですがそれが一体どうしたというのですか。私の感じた苦痛をあなたにも与えたかった。ただそれだけを糧に今日まで生きてきたのです。それを、私の醜い憎悪を、どうしてあざ笑うわけでもなく、純粋な子供のような笑顔で受け止めるのですか。

 私はもう後戻りできません。あなたももう、どこにも帰れない。分かっていないのですか?

 違うのならせめて、泣いて叫んで悔しがってください。私を殺したいほど憎んで、口汚くこき下ろしてください。どうして、あなたは、笑ってばかりいるのですか。


 ……そうですか。分かりました。話すつもりはありませんでしたが、そうでもしなければあなたは私を憎まないのでしょう。如何にして私があなたの家族を殺したか、お伝えしましょう。

 夕方、私はチャイムを押してあなたの夫に玄関を開けさせました。あなたがそうしたように、私も彼の胸を刃物で一突きし、返り血を浴びました。刺されてもなお、逃げろ、と二階に向けて叫ぶものですから、幾度となく刃物を顔に突き立てました。

 私が次に殺したのは孫のサキちゃんです。サキちゃんはいい子でしたね。階段を下りた後、横たわるあなたの夫を見ると、玄関の血まみれの化け物を気にもせず、駆け寄って、命の抜けだした体をゆするのです。おじいちゃん、おじいちゃん、と泣きわめく小さな体を私は突き飛ばしました。地面に倒れこんだ彼女へ、あなたがしたのと同様に、胸を一突きしました。するとすぐに動かなくなりました。生きていたらなら、きっと誰からも好かれる幸せな人生を送っていたでしょうに。

 最後に殺したのはカエデちゃんです。カエデちゃんは二階のタンスの中に隠れてました。おそらくサキちゃんの指示でそこに入っていたのでしょう。震える声で言いました。助けてお姉ちゃん、と。


 ……辛かったね?苦しかったね?いったい何を言うのですか。どうして私があなたに慰められなければならないのですか。辛くても苦しくても、それがあなたを傷付けることにつながるのならば、私は何でもします。人の爪をはぐことも、聞いたことのないような絶叫をこらえることも、むくな子供を、あの小さな体を、この手で、刺し殺すことですら私はやります。

 だというのにどうしてあなたは私を、そんなねぎらうような表情で迎えるのですか。私のやったことはいったい何だったのですか。どうして私は罪のない人たちを殺さなければならなかったのですか。教えてくださいよ。なんのためにあなたは家庭をもったのですか。

 私は全てをあなたに奪われました。家族、未来、幸せ、そして人として最低限の道徳心までも。しかし私は何一つとして奪い返すことはできなかった。失わせることさえ叶わなかった。なぜならあなたは最初から何も持っていなかったからです。人に思い入れをもつこともせず、ただ機械的に縁を結び、長年付き合ってきた家族や、果ては自らの人生ですら駒のように扱い、全てを私を傷付けることだけに費やしたからです。

 そんなあなたの気持ちなんて私には一生、理解できません。

 ……サイレンの動きが止まりました。どうやら警察がこの家を特定したようですね。結局私はただただ、あなたの手のひらの上で踊らされていただけだった。


 ――だったらせめて最後くらいは、あなたの予想を裏切りたい。こう願うのも当然のことですよね。


 ……みえますか。私の胸に、深々と突き刺さった包丁が。

 ふっ。どうして、そんな、表情をするんですか。あなたは愚かです。こんな方法で、私を奪えるとでも、思っていたのですか?罪悪感で、縛り付けられるとでも、思っていたのですか?あなたが、私から全てを、奪うのなら、私はあなたから、私自身を奪います。


 あなたは、本当に、愚かでした。

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五十年の執着 知らない人 @shiranaihito

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