溶け込んだ恋

鞘村ちえ

溶け込んだ恋

 結局彼と恋に落ちたのはお互いが満ちていなかったからなのだと、すべてが終わった頃になってからふと気が付いた。運命的に出会ったとか、本当に愛し合っていたとか、そんなものは存在すらしていなくて、ただ散ってしまったあとの日常は何も変わることなく淡々と動き続けていた。悲しいよりもずっと、寂しい気持ちのほうが勝っている自分が気持ち悪かった。彼のことを好きだと思っていたけれど、恋をしている自分に酔っていたところもあったのだ。


 「ひさしぶり。増田さんで合っていますか? 森田です」

 あっという間に終わってしまった私の三ヵ月程度の恋を覗いていたようなタイミングで、森田くんからダイレクトメッセージがきていた。鍵をかけていないSNSのアカウントを見つけた彼が、高校生ぶりに連絡をくれたのだ。森田くんは私が人生で初めて本気で好きになった人だ。

 私は中学生の頃はずっと図書館にこもっていて、休み時間(だと思っていたら授業が始まっていたこともある)に小説を読み漁っているようなおとなしい学生だった。他のクラスメイトは生物の先生の愚痴や、どことどこのクラスの人が付き合った、という話題で盛り上がっている年齢だったから、少し浮いていたとは思う。友達関係で喧嘩をすることはなかったけれど、それはそこまで仲を深める関係性の友達がいなかったからということもある。とにかく、私はひっそりと中学生活を過ごしていた。

 そんな新学期を迎えた私の斜め前に座っていたのが森田くんだった。森田くんは他のクラスメイトと喋ったり、くだらないことでたくさん笑ったりするけれど、お昼休みになるとすうっと図書室に溶け込むのだ。まるで誰かから追われて図書室に逃げているかのように、息を潜めるほど静かに小説をめくっている森田くんを見たときに、私は彼を好きだと思った。

「さっきから見つめているけれど、どうしたの? 僕が小説を読んでいるのは変かな」

 彼はゆっくりと瞬きをしながら私にそう訊いた。あまりにも綺麗だったから、と言うと彼は驚いたように黙ってから

「増田さんは心のなかを素直に話してくれる人なんだね」

と微笑んだので、私は恥ずかしくなって俯いた。森田くんと喋ったのはこれが初めてだった。

 それから、私と森田くんはお昼休みになると必ず図書室で顔を合わせる仲になった。特に言葉を交わさず隣でページをめくる音だけが響いているときもあるし、時には読んだ小説の感想で盛り上がって図書室の先生に怒られたこともあった。他のクラスメイトみたいに彼女を自分の所有物みたいに自慢しないような雰囲気があって、私はそれがとても好きだった。森田くんの彼女になれたらいいなと、思うことが増えた。

 中学の卒業式で私は森田くんに告白をしようと、手紙を準備していた。たった一枚の紙だけど、私の思いが四文字に詰められていた。森田くんは私からの手紙を受け取ると、ブレザーの内ポケットから違う手紙を出して

「僕も渡そうと思ってたんだ」

と照れたように微笑んだ。私は森田くんからの手紙を受け取り、こうして私と森田くんは付き合うことになった。

 森田くんとは二年付き合った後、彼が違う大学に進むことになり、自然に別れてしまいそうになってしまった。私はずっと彼のことが好きだったのでぎりぎりのところで「別れよう」と告げて、恋人関係を解消することになった。


 あれから10年が経ち、私はいま森田くんとふたりでバーに座っていた。あの頃は飲めなかったお酒を飲み、雰囲気のあるバーの照明に照らされた森田くんは大人の男の人を感じさせる余裕と色気を纏っていた。

「増田さん、大人っぽくなったよね」

「うん? そうかな、森田くんこそ」

 調子に乗っていつもより早いペースで飲んでしまう私に、森田くんは水をすすめてくれた。昔から、私よりも森田くんのほうがずっとちゃんとしているのだ。私はしっかりした男の人が好きだ。同い年とか年上とか関係なく、自分よりもずっと物分かりがよくて、言葉遣いが丁寧で、たまにびっくりするほど寂しそうな顔をする彼が好きだったことを思い出した。

「あんまり飲みすぎると、終電逃すし危ないよ。女の子なんだし、しっかりしなさい」

 女の子、という言葉を使うところも好きだった。

「大丈夫だよ。もうそれなりに大人だし」

「それなりに? 大人にしてはまだペース分かってないでしょう」

「お母さんみたいな喋り方だ。昔と変わらないね、森田くん」

 森田くんはあきれたように私のグラスを奪って、残っていたお酒を飲み干した。あ、間接キスだ。とか中学生の恋愛のようなことを考えている自分がいることに気が付いて恥ずかしくなると

「なに、大人の女の人になったんじゃないんですか?」

とからかうように顔を覗いてきた。あぁ、森田くんは女の子に慣れているのだと思いながら私は俯いて

「そうだよ。もう大人の女の人だから、27歳だから、しっかりしなきゃなの」

と強く言うと、森田くんは優しい瞳で私を見つめていた。

「ほんとに変わらないね。実は強気なところとか、そういう可愛いところとか」

「森田くんはちょっと女の子に慣れすぎだよ」

 すると、森田くんはあの頃と同じように驚くほど寂しそうな顔をしてから

「分かっていると思うけど、好きだからこういうことを言うんだよ」

と言ってから店員を呼んだ。暗い店内に溶け込む彼の表情に見とれながら、酔った頭に彼の柔らかな声が何度も繰り返し響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

溶け込んだ恋 鞘村ちえ @tappuri_milk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ