『ノート』

さくらぎ(仮名)

.

 別所博士はおもむろにそのノートを開いて黙読を始めた。

『十月四日(水)――――私は一秒でも早く死にたいけれども、そんな身勝手な欲望に他の誰かが付き合ってくれるはずがないことはよく解っている。道行く他人に突然「私を絞め殺してください」などとお願いしても狂人だと思われて無視されるだけで、快く「はい分かりました」と応えてくれるわけがない。また私は線路に飛び込んだりして大勢の他人に迷惑をかけることの愚かさもよく理解している。どんな理由で自殺した人間よりも今生きている人間のほうが偉いと本気で思っている。自分にも他人にも甘い。誰だって痛いのは嫌いなはずだ。だから私は自殺もしない。私に残された死の手段は最早三つに絞られている。ひとつ、近頃多発している通り魔に襲われること。ひとつ、これは通り魔事件よりも日常的だが――交通事故に遭うこと。ひとつ、地震で瓦礫の下敷きになること。私が他人に迷惑をかけずに死ぬには、最早この三つの手段しか残されていない。そして最も「仕方ない」と思われるのが三つ目に挙げた地震である。私は何の準備もせず、ただ地震を待っている。つい先月、岡山県を震源とする震度五弱の地震があった時、私は遂に来たかと思った。期待に胸を高鳴らせるとは、ああいう状態を指すのだろう。しかしそれは見事に裏切られた。全てがまたすぐに日常に戻ってしまったことが私は大変に悔しかったし、これを書いている今もそれを引きずっている。あと何年、何十年待てば私は死ねるのか。普段はそればかり考えている――生き残ってしまった時のことは考えないようにしている。私自身のためにも、そして家族にこれ以上迷惑をかけないためにも、私は地震によって死ななければならない。その日まで、死んだように生きていくほかない』

「……これやな」

「結局、何が書いてあったんですか?」

「別に大したことちゃう。思春期の子どもがみんな一回は考えるようなしょーもないことや」

 博士は溜息混じりにそう呟いて、閉じたノートを押し付けるように村山に手渡した。

「考えてもしゃーないことを延々と考え続けて悦に浸るとか、見苦しいだけや。こいつももっと他のことに頭使ったらよかったのにな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ノート』 さくらぎ(仮名) @sakuragi_43

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る