5

 すべてを話せたわけではない。特に男を客と間違えたことは言いたくなかった。男を侮辱すると感じたのだ。だから母ちゃんの言いつけで客の相手をしていたことも言えなかった。


 ここにたどり着くまでの間、幾度となく客の誘いに乗ったことも言えなかった。それを言えば男を客として見た事がバレると思った。


 母ちゃんが酒蔵の旦那にオイラを売ったことは言ったけど、旦那様の玩具おもちゃとして、とは言えなかった。気に入られて養子になったと嘘をついた。


 けれどそんな嘘も、客を取らされていたことも、取ったことも、きっと男は察しているのだろう。オイラのようなガキが盗みだけで食べていけるほど、世の中は甘くない。


 どうして旦那様のもとを逃げ出した、と聞かれたとき、話そうとしたけれど嗚咽おえつの発作に襲われてまともに話せなくなった。いいよ、いいよ、辛かったってことはよく分かった、衣食住足りたって、だからって人は幸せとは限らないからな、そんなに辛いことを聞いた俺が悪かった、と男は言った。


「なぁ、お前。もう盗みはするな。俺がお前の面倒を見てやる。ちゃんと仕事を与え給金をやる」


 嫁を迎えるにあたって店を大きくしたい。俺の手助けをしてくれる手代がほしい。


「今から下働きで頑張れば俺の年ごろには独立できるかもしれん。頑張り次第だし、俺も後押ししてやる。真面目に働けばの話だ」


 ところで、歳はいくつだ、と問われ答えられなかった。旦那様の家を抜け出してから日を数えていない。1年は経っているだろう、2年過ぎたかどうか……


「十か十一か……十二にはなっていなさそうだね。誕生日はいつだ?」


覚えている日付を言うと、それは今日だ、お前は今日、十一になった、と男はオイラの頭を撫でた。


「これも何かの縁だ。いいね、俺の言いつけを守って真面目に働くんだよ」


オイラの気持ちを確認することもなく話は決まってしまっていた。


 男は自分を「親方」と呼ぶよう言った。野菜や果物を仕入れては売る、そんな商いをしていると言った。


 親方の店は今のところ、リンゴを盗んだあの店だけだが、年が明けるころにはもう一軒増やす予定らしい。今の店はもう何年も一緒に働いてくれている番頭と手代に任せて、自分は新しい店を切り盛りしたい、お前は新しい店で新しく雇い入れる店番と二人、俺の手助けをするんだ。


「俺もな、そうやって今の店を手に入れた。親方について修行して、コツコツ貯めた金で店を手に入れたんだ。お前にもできない話じゃない。頑張るんだよ」


 自分の家の空いた部屋 ―― 台所の奥にもう一つ小さな部屋があった ―― に住まわせてくれ、食事も一緒に同じものを食べた。


 初日こそ店に連れて行ってくれたが、翌日からは一足先に行って掃除するよう言い渡された。


 3日目、入荷があったとき「ほれ、みんな一つずつだ」とリンゴを投げてくれた。


 売ってるのに味がわからないんじゃ困るからな、と番頭さんやもう一人の手代と笑いながらかじったリンゴは、ほんのりと酸っぱくて甘くって瑞々しかった。が、その値段を知って腰を抜かし、皆の笑いを誘ってしまった。どうりで酒蔵の旦那さんの食卓でも見たことないはずだ。


「こんな高価なもの、いいんですか?」


「食べた後で言うな ―― そうさな、傷のない物をあげられるのは、これが最初で最後かもな」


 でもさ、と親方は続けた。


「初めてリンゴを食べたとき、世の中のみんなに、この美味い果実を食べさせたい、と思ったんだよ。こんな美味いものが世の中にはあるぞ、って。でもさぁ、遠くから運ぶだろう、思いのほか運賃がかかっちまってな、こんな高値で売らなきゃならなくなった。残念なことだよ」


 お前が盗んだあの日、つぶれたリンゴを握りしめたとき『皆に食べてもらいたくてやっとこ運んできたのに、こんなに粉々にしちまって』って怒りや口惜しさが沸き上がってな、だけどそれがだんだん収まってくると、『世の中のみんなに食べてもらいたい』って、世の中のみんなって、あのガキもそのうちの一人か、ってふと思ったんだ。


 腹を減らしてたんだろうな。捕まえたら、なんとしてでも食ってやるとばかりかじりついていた。


 腹をすかせた子供の前で、美味しいよ、美味しいよ、って繰り返し、俺、叫んでたんだな、なんて罪なことをしたもんだろう。しかも怒りに任せて殴り放題、抵抗もできない子供をだ。後悔ばかりが浮かんでなぁ……


「だがな、盗みはいかん」

強い声で親方は言った。


「誰かに恵んでもらうのもいかん。あの朝、お前に食事を与えたのは恵んでやったんじゃない。殴った償いだ。そして今は給金の一部だ」


 前々からいる番頭も手代も親方同様親切だった。仕事に関しては厳しくて、時々言われたとおりにできないと、叱られ小突かれることもあったけれど、これはこうしてこうするんだ、と何度も繰り返し教えてくれた。


「うん、お前はツラがいい。手足も長くて見栄えがいい。しかも頭がいいと来てる。うちの親方、いい売り子を手に入れたね」

 ある日番頭さんが言った。


「お前が店に立つようになってから、お客が増えたよ。売り上げももちろん上がってる。お前が客を呼んでいるんだ」


だからいつもニコニコしていろ。愛嬌あいきょうを振りまくんだ。


「ちぇっ、こればかりはおっ母を恨むしかないからなぁ」

と手代の兄さん(と言ってもオイラより三つばかり上なだけだ)が笑った。


 いよいよ木枯らしが吹き始め冬が来るぞという頃には明けけに『ボクに会いに来たよ』と言う客も現れた。休みに遊びに行こうよ、と誘われることもあった。


 そんな時は親方や番頭さん、手代さんが「ダメダメ、小僧っ子に休みなんかあるもんかぃ」とお茶をにごしてくれた。


 もともと読み書きも計算もできたから重宝ちょうほうがられるようにもなっていた。手代さんの代わりに代金を計算したり、手代さんと二人、帳簿の書き方を番頭さんに習うようにもなっていた。そして ――


 ある時から店先に来るようになったスズメに、野菜屑やさいくずを投げてやるようになっていた。捨てる屑をスズメにやっていいか親方に聞くと、後片付けをちゃんとするならいい、と

「スズメが食うかわからんぞ」

と言いながら許してくれた。


 いつも同じスズメだった。そして『あの』スズメだった。野菜屑をある程度 ついばむと、後片付けのため食べ終わるのを待っているオイラの肩にパッと飛んできて頬をつついたら飛び降り、一欠けらの野菜屑を持ち去った。これがあのスズメでないはずはない。


 そのスズメを見るたび、そして雨が降るたびオイラはあの少女を思い出していた。


 あの子は今夜もまた、あの薄暗がりに立って母親が娼婦から、自分の母ちゃんに戻るのを待っているんだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る