第40話 植木鉢を持つ女
植木鉢を両手で持って地下鉄に乗る、無性に新生活という雰囲気で中々恥ずかしかった。河南はずっと私の傍にいた。大通り駅で降りて、十分も歩かないうちに彼女の住まいに辿り着いた。紅い外壁で、過疎な道路を向いた側には部屋のバルコニーの、錆の浮いた鉄柵が並んで見えた。彼女の部屋は三階だったが、アパートにエレベーターは無かったので、私も河南も、重たいものを持って、何処までも上がった。息せき切って、「一体何処まで上がるんだろうね、全く」肩でこめかみの汗を拭うが、普段からトレーニングをしている彼女はどこ吹く風、「昇るのはね、大変なんですよね」。部屋は東向きで、朝は太陽が存分に入るだろうと思われた。「良い部屋だね」「狭いんですけどね」不便そうに佇む。実際、私の家のベッドルームよりも狭かった。ただ、東向きにバルコニーが付いているから、そこは素敵だな、と思った。バルコニーの隅にアサガオを置いたとき、こいつを担いで、随分長い道のりを歩んだような気がした。腰の筋肉が随分痛くなった。そして、貧弱な明かりを付けた、部屋の中を見渡した。LEDではない、紐で引っ張るタイプだ。付くときに、糸をつま弾くような音を立てる。彼女の部屋には殆ど物は無い、高低を作る家具さえ無いから、袋に入れた化粧品は床に置いたままだった。衣類は仕分けをして、畳んでクローゼットに突っ込んでいた。その他には、床に敷いた布団と、私の部屋のと同じカラーボックスが枕元に二つ並んでいる限りだった。河南は、布団に座りながら自分の下着を丁寧に仕分けしていた。
東の方には、もう夜空が滲んでいる。冷たい風が、鉄柵を吹き抜けてきた。バルコニーから見えるコンビニの向こう、街灯が賑やかに輝く大きな通りが垣間見えている。私は寒くなって部屋の中に入った。暖房も付けていないのに、部屋の中には不思議な暖気があった。
「机くらいは私の部屋から持ってこようか。ベッドは流石に無理そうだけど」
河南は丸めたショーツを手から放って、「いい。今は、あんまり物を増やしたくないから」溜め息交じりに呟いた。
それ以上、私がこの部屋でするべきことは無かった。「じゃあ、元気で」と言って、部屋を出ようと玄関の扉を開いたとき、「待った!」と急に呼び止められた。河南は布団から立ち上って、枕元のカラーボックスの中身を部屋に並べ始めた。中から出てきたのは、脚本や筆記用具、そして、一番奥からノートを一冊取り上げて、付いた埃を払った。
「あっ」
思わず声が出た。以前ゴミ箱に丸めて捨てた、私のノート。彼女は、それを大切そうに私に突き出した。もうとっくに、灰になったと思っていた。
「なんで……」
「本当は、ずっと黙って持っていようかと思ってたんだけど。沙織さん、いつか捨てたの後悔するかなって思って」
後悔?
「後悔、というか……」
諦めていた。
本当に、もう私には書けないと思っていた。それで、私は何かを書くことを捨てたのだ。けれど、捨てた筈のものは灰にもならず、腐りもしないで、ずっと河南の手の中にあった。そんな事実に、素朴に感動した。純粋な気持ちで、河南と過ごして良かったと思った。中を捲ると「不知顔」の構想、散逸していながらも確かに残っている。これを書いたときは本当に辛かった。辛かったが、河南と過ごしていた日々の楽しい思い出も、同様に頭の中を過ぎた。さらに捲っていくと、どんどん過去に遡った。その度に当時の自分を思った。辛い思いでばかりだったが、今考えると、全て愛おしい思い出だった。ノートの表紙に行き着いたとき、不意に白い手が伸びてきて、私の手からノートを奪っていった。
「これで終わりにはしないよね」
河南は強い口調で言う。
「え?」
「これで終わりじゃあ……」と、顔を歪ませて、声を震わせて彼女が言い切らない。
私たちのことなのか、脚本を書くことなのか、どちらのことも言っている気がした。ただ、思い出を振り返って終わりなのか。
「終わりには……ならないと思う」
多分、そうだと思う。河南とのことも、脚本も。未来のことなんて分からない、それは嵐の夜のように暗いのだ。辛いことや、死にたくなることが見えない中、影の濃淡だけで映し出されて輪郭も見せないでいる。
「たまには遊びにおいでよ」
不知顔、色々な出来事がこの言葉に向かって線を繋いで、意味を持ち始めた。
あらゆる言葉、動作に意味を持たせるのが、本来私のしようとしていたことだった。多分、木元だって本当はそうなのだ。誰だって、自分の思春期に大人になれるわけではない。だから、彼女たちの人生に意味を与えてあげたい。そうすることでしか祈れない。これから彼女が発する言葉、行動に特別な意味。木元の神の舞台を観て、私は確かにそれを見た。それは、きっと未来ってやつなんじゃないか。本物の舞台というものは、観客の、己の顔と過去を見せつけて、カーテンコールのその後に、きっと未来を思わせる。
それはきっと、思春期を代行するということ、抜け出せないところで人々を見送ってあげるということ。開いたままの扉からは、西から差す眩しいくらいのあかね色、太陽は彼女の無機質な部屋を照らし、こうしている間にも、潮が引くように静けさを呼んだ。にじり寄るように、夜の暗がりが河南の頭、肩に掛かっていく。彼女もいつの日かは私を置いてどこかへ行くんだろうか、普通の男性と結婚するのか、素敵な女性とずっと生きていくのか。
「……知らない顔はもうしないよ」
そう言い切ると、切ない顔をした河南が私の胸にゆっくり顔を埋めてきた。淫靡な雰囲気の全く無い、いつか私が見たような、雅とすら形容できる別れ際だったかもしれない。
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