第39話 あかね色の作業
真昼の暖かい時間に河南が部屋にやって来た。本当は、帰ってきたという感じのほうが強かった。インターホンが鳴って、扉を開いたら、外の清々しい暖気の中、彼女は立っていた。真上で輝く太陽が、彼女の目許に影を作っていた。日に焼かれている彼女は頬を紅くして、黒いシャツを着ていたが、よく見たら脇と背中に焦げのような汗の染みがあった。それでも、中に入ってきたときにふっと香り立つのは清涼感のある花の香りだった。今日は木元も手伝いにやってくるはず、重たい荷物は梱包して、河南の住居に配送するのだが、下着や服は今日のうちに運ぶ予定だった。なのに、河南がやってきてしばらく待っても木元は来ない。元々時間にルーズな男だった。
彼女をリビングに通しながら、「外、暑かった?」「いえ、そんなに」素っ気ない会話、季節は丁度秋の入り口というところ。あの熱い嵐は、遠い夜の出来事だった。すっかり熱気も冷めた外気も寂しく、玄関廊下の途中、「お茶入れるから、ちょっと座ってて」と、台所で立ち止まった。「はい」河南は簡素な返事、さっさとリビングに入っていった。冷えた麦茶を入れながら、彼女の硬い表情を思った。緊張しているんだろうか。私だってそうだ。時間をかけてお茶を淹れて、彼女と話す内容を必死になって考えていた。私たちは、二人きりのとき一体何を話していたんだろうか。思い返せば、大して会話も無かった気がする。ただ、お互いの体温を近くに感じられてさえいれば、それで満足だった。
木元は中々やって来なかった。ダイニングテーブルで、彼女と向かい合って座り、お互いの近況を話し合った。河南は、私が心配していた程生活に苦労していないらしい。今も現役で働く親の仕送りを得て、劇団の活動を口実に一人暮らしをすることにしたらしい。ただ、自分が同性愛者であること、それは知られているらしく、「まあ、以前通りってわけでもないんですけど」厄介払いという雰囲気が少なからずあるようだ。逆に、私が辞職したことを話すとかなり驚かれた。
「なんで? なんで沙織さんが仕事辞めちゃうの?」
向かい合って理由を尋ねられると、返答に困った。だって、そうすべきだとしか思えなかったのだ。孤独を感じていたこと、上司のプレッシャーがあったこと、河南がいなくなったこと、他人を傷つけたこと、編み出した理由は、どれもそれなりに様にはなったが、微妙に的を射ていないような気がした。低く唸った後、「分かんない。気が付いたら、仕事辞めてた」と答えた。「いつの間にか、こんな人生だったんだよねえ」西向きの窓から入るのは、深まりつつある秋の、すっからかんな群青色だった。それがニスの塗られたテーブルの木目に辛うじて反射している。窓から見える景色、底に、空き地に生える緑が見える。出し抜けに窓を開いた。澄んだ木々の香りが風と共に入ってきた。マイノリティになりきれない、私は変化することが出来ないと思い込んでいたが、本当は、少しだけ変わっていたのかも知れない。少しだけ変わって、どちらにも属せない位置で行き詰まってしまったのか。これから私はどうなるんだろう。……今までどちらかの側に、一歩踏み込んだ時点で自分に色が付く気がしていた。ここで河南を抱きしめれば、もう一方とは隔絶してしまうか、そうは思わない。外の空気に感覚を傾けるうち、スマートフォンに木元からの連絡が入った。どうやら、彼は近所で道に迷ったらしかった。困った奴だと笑い合って、近場をうろつく彼を探しに秋空の下へ出た。
空があかね色になって、ようやく作業が終わりつつあった。作業の粗方が終わると、木元は重いダンボール箱を玄関廊下まで運び、「じゃ、俺はこんくらいで帰るかな」腰をうんと伸ばして、そそくさと帰っていった。梱包も済み、持ち帰る手荷物も纏め、後は後日に業者が荷物を取りに来るのを待つだけ。大きな紙袋に衣類を纏め、化粧品は小さいビニール袋に纏めて入れた。
それらを両手で担いで河南が玄関に立ったとき、急に思い出して、「ちょっと待ってて」と彼女を引き留めた。私は慌ててバルコニーに走って行って、彼女の育てていたアサガオを持って戻った。「あっ」見るなり驚いて、「元気になってる。萎れて、もう駄目だと思っていたのに」
「ネットで調べたら、日に当てすぎるのも良くないって書いててさ」
萎れていた蕾は水気を取り戻している。中に大切な物をしまっているように、腹を大きくして支柱に垂れかかっている。
「こんなに元気になった。まだ全然花を咲かせるんだよ。きっと、種も取れるようになるから」
「ありがとう」
彼女はそう言ったが、既に両手には重そうな袋を携えていた。それで、結局彼女の住まいまで植木鉢を持っていくことになった。
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