第37話 女の影

 関係が終わった朝から、現実感の無くなった日々を過ごした。夢か、舞台を観ているような気分で、私は私を見つめる視線で、一社会人として暮らすのを見ていた。どうやら私は、河南との関係を絶ったことで、唯一残った世間というものとを繋ぐ糸に引きずられ始めたようだった。事ここに至るまで気が付かなかったが、それぞれの関係を支配していたのは、私では無く相手だった。互いが私を間に挟んで、腕を引っ張り合うから私はバランスを取れていたのだった。

 私はしばらく、痛みと疲れを知らなかった。気が変になったように仕事を熟して、気の食わない先輩のミスと、仕事の遅さをあげつらって傷つけることすら厭わなかった。業務終わりに不手際を攻めて、終いには聞こえるように舌打ちをした。そうして、以前私に業務を押しつけた先輩を一度泣かせた。それで、職場では嫌悪を通り越したものを味わうことになった。誰も彼も、私の方を向こうとしない。業務のやり取りで、先輩と最低限の会話を交わすことはあっても、何か脆い物を持つのに似た、変な真剣さが垣間見えるようになった。

 駅へと進む人の流れを見た。大通り公園の噴水が上がっていて、周りには小さい子供たちが、冷たい水のしぶきを楽しそうに浴びていた。太陽は直上、芝生は触れば火傷しそうなくらいに光を湛えている。公園を覆う木々の影に入ると、そこだけが夜のような涼しさを人間に吹きかけていた。車道の方に、落ちた涎に似た染みが二、三、現れたと思えば、あっという間に雨、風景が加速した。辺りは真っ青に変色した。

 木陰に立っていた私は通り雨に当たらず済んでいた。木々の間から、駅へと走る人々の影を見た。子供たちは、濡れるにも構わずはしゃいでいた。路上を行く人、折りたたみ傘を開く者もいた。不意に背筋に、冷や水を掛けられたような寒さが迸った。サクラさんがいた。彼女は、駅へと行く人の中にいた。遠目に顔しか見えなかったが、髪は少し伸びていたように見えた。轟音の中に駆けだして、彼女を追ったが、地下への階段を抜けても見当たらない。他人の空似だったかもしれない。冷静に考えれば、そうに決まっている。それから、急に寒さを感じた。濡れそぼった体、地下の冷気が暴力的に刺さった。それから、雨が過ぎるまで階段で立ち止まっていた。二の腕を擦りながら、降りたり昇ったりする人々の、私の目の前を通過する横顔を見た。皆、私を見ようとしない。ここには誰も立っていないように振る舞い、それでいて、一定の距離には踏み込まないでいる。地上から差していたのは、ただの藍鼠色で、底の暗さがそれを光とした。一つの色の濃淡だけが、モノトーンとなって、踊り場までを彩った。その中で行き交う人々の、唇、肌、髪が、紙粘土の造形のような質感であった。ちょっとした振動で、表面が削れてしまいそうだ。

 人は脆いんだ。誰だって、本当はそうなんだ。サクラさんだって、木元だって、河南だって、会社の先輩だって、勿論、私だって。

 そう考えた瞬間に、今まで人々を傷つけた痛みが遅れて心に届いた。痛烈ではないが、抓られたような、後に引く痛みだった。これ以上職場にいるのは、世間にとって良くないことのように思った。私は他人を不幸にしたいと思ったことはなかった。ただ、何かに属していると、自然私は人を傷つけてしまうようだった。意識をすれば矯正できるようなものではなく、自分の一部として受け入れていくしかない、そんな類いの性質だった。


 上司に退職を考えている旨を知らせると、顔を曇らせて理由を尋ねてきた。人間関係だと答えると、「昇進したら、少しは見直されるんじゃないかな」と反論してきた。彼の態度で、私に辞められたら困ることが、ひしひしと伝わってきた。けれど、私の考えは変わらなかった。今年の春に新卒が入ってきたのは知っているが、経理部に配属されたのは若い男の子一人ぽっち、退職を伝えた後の一月、彼に業務の引き継ぎをして過ごした。

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