第34話 嵐の夜に

 本当は、関係の終焉をずっと予感していた。「性的逸脱行為」という言葉を思う度に、その気配はあった。木元とサクラさんの別離を目の当たりにしていて、いずれは私の下にも訪れる、そう確信していた。それでも河南は、辛い時期の私には必要で、優しくて、美しかったから、その体温を手放すことをただ恐れていた。河南は、私と一緒にいて幸せだったのだろうか。思い返すと、私は彼女の幸福を、ただ搾取し続けていた気がする。ホームで隣に立つ彼女、俯いて、何も喋らずに突っ立っていた。体温は触れ合わず、張り詰めていた糸の切れるような音がして地下鉄はやってきた。

 台風が上陸したのはその夜、二重の窓の向こうでは風が吹きすさび、雨の流れが絶え間なく映り込み、粘り着いた水の切れ間、木々が暴風に叩き付けられているのが見えた。空き地で伸びた草は、ただ祭りのように、無邪気にはしゃいでいた。カーテンを閉じても、風が何かに裂かれる音は常に響いた。電気は付けているのに、いつもより暗い。私たちはリビングでじっとしていた。ダイニングテーブルに座って、大して好きでも無い菓子を真ん中に置いていた。テレビは付けていたが、風景が動いているのを見ていたかっただけで、内容は殆ど頭に入れていなかった。ダイニングテーブルに座っていた河南、「お茶でも淹れましょうか」と立ち上がって玄関廊下の方へ姿を消した。

 不意に、ぽん、と間抜けな音が鳴って部屋の電気が落ちた。次いで、何かが割れる音、玄関廊下の方から小さい悲鳴が聞こえた。

「河南」

 光源はノートパソコンの電源ランプだけ、それすらも呼吸に似たリズムで点滅し、光っていると分かる限りで、足下を照らすには至らない。スマートフォンはソファ近くのコンセントで充電していた。部屋にあるはずだった物は、辛うじて影の、濃い部分と薄い部分が分かる程度。台所に向けて足を踏み出すと、新雪を素足で踏んだときの冷たさがにじり寄ってきた。明かりの消えた部屋には何もない、慎重に闇を渡った。少し踏み外せば、大きな怪我をする恐ろしさがあった。「何か割った?」音の鳴った方に声を掛けた。目を凝らすと、何か白い物が、頼りなさそうにぷらぷら浮いているのが見える。「分かりませえん」彼女の声の位置から察するに、どうやら河南の素足らしい。片足を上げた状態で、何かに手を突いてバランスを取っているようだ。

「ガラス?」

「多分……」

 床に散らばっているであろう、透明なガラスは全く目に見えない。河南の顔も見えない。辛うじて影が揺れ動く、片足の位置が分かるだけだ。

「こっち来られる?」

 摺り足で近づきながら尋ねた。

「どこで割れたかわかんないんです。どうしよう」

「私の手、掴める?」

 彼女の方に伸ばした手の先を、何かが揺れ動く気配がある。彼女の手、目には見えないが、そこにあるらしい。爪の先が掠り合う。

「もう少し、気を付けて」

 けれど、バランスを取りながら腕を伸ばし続けるのは辛いらしい、「駄目だ、沙織さんが見えないよ」また手を引っ込めてしまったようだ。心細そうに溜め息を吐く。この部屋に懐中電灯は無かっただろうか、入居してからしばらく経つが、見た覚えは無い。

「私はここにいるよ。ほら」

 思い切って大きく右足を踏み出した。踵に鋭い物が刺さった感触があったが、大して痛くは無い、もう一度彼女の方へ手を伸ばした。そして、今度は指を鳴らした。「あ」向こうから、そろそろと私の手を握り締める彼女の手、触れて確かめ合って、指を開くと、その手は私の手首に滑り込んできた。私も向こうの手首をしっかり掴んだ。

「引っ張るから、こっちの方に飛んできなよ。落ちてるから気を付けて」

「踏みました!?」

「小さい破片だよ。平気平気」

 それから、息を合わせてこちらに引っ張った。右足に食い込んだガラスよりも、河南の勢いに押されて、打ち付けた頭の方が痛んだ。

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