第33話 地下鉄へ伸びる影

 カーテンコールが終わると、隣に座っていた木元がこんな話を始めた。

「相羽、顔色良くなってるぜ」

 今日会った木元は不気味な容貌になっていた。美容室にも行かなくなったようで、天然パーマは再び己の意志を取り戻して、上へ上へと太陽を目指す。このまま行くと、たわしのようになってしまうだろう。

「そうかな」

 私は自分の頬を触って、自分の体温を確かめた。少し、普段より温かいように思った。今、私は紅潮しているのかもしれない。海の中を歩いていたような気分の重さはもう無かった。代わりに浮き上がっているような気分でもない。地面に足を着けている安定感を取り戻していた。

「最近調子悪そうだったから、元気出たみたいで良かったよ。やっぱり効くんだな、良い舞台ってのは」

「木元はどうなのよ」

 彼の顔だって紅くなっていた。興奮していて、白眼を輝かせていた。久しく見た彼の顔だった。「俺は、なんもさ、打ちのめされてばかりさ」急に頭を乱暴に擦って、「あー、あんな舞台作ってみてえ」

「凄いよね、ほんと」

 劇場から出たところに、バイト終わりの河南が待っていた。彼女の背後には真っ赤な夕陽、人がごった返している出入り口の前に、彼女の影だけが浮かび上がっていた。風になびくように手が振られていた。また思い浮かんだのは例の言葉、「性的逸脱行為」けれど、私の心は平衡を保っていた。あの影のような不安はどこへ行ったのだろうか、悪夢から覚めた後のように、安堵感が何故か寂しい。

 寄ってきた河南の影は、その縁だけが真紅に輝いていた。河南という人間の外縁だけを、風景が縁取っていたように見えた。中にあるのは真っ暗な闇、私はそれを美しいと思うだけで、肉欲は、もう感じることが無かった。木元は、「じゃ、俺打ち合わせあっから」適当なことを言って走り去った。河南はいつものように私に腕を絡ませて来たが、「ちょっと暑苦しいよ」と言って、するりと彼女の体温から身を離した。彼女は何も言わなかったが、不思議そうに、私の顔を見つめた。地下鉄へ向かうと、私たちの影は進行方向に伸びた。

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