第31話 思春期の代行
「どういうこと?」
店長が奥に引っ込んだ後、私は木元に尋ねた。
彼は、内ポケットから、タバコの箱とライターを取り出した。唇まで吸い口を持っていって、サクラさんのしていたように、男らしい火の付け方をした。このとき知ったが、彼の吸っているのはどちらの側にもフィルターが付いていない、両切りだった。彼は、ゆっくりと肺まで煙を入れて、吐いた。それで何か言うかと思ったら、何も言わない。「ねえ、サクラさん、帰って来るよね?」私は続けて尋ねた。
彼は、タバコを指で挟んだままグラスを傾けた。私の質問には答えないのに、カウンターに立っている店員にもう一杯注文した。
暑い夜だったが、店内はもう冷房で冷えていた。酔うほど酒を飲んでいなかったから、少し寒かった。けれど、木元は上着を脱いで椅子に掛けた。彼が息を吐く度、細長い煙が店内を揺蕩った。どこにも行けない、天井の小さなライトに照らされて、いつまでも、いつまでも残った。
「俺は主役にはなれない」
木元は何かの呪文のようにそう言った。それを聞いても、意味が分からなかった。「分かんないよ、説明してよ」子供のような口調、話の続きをねだるように尋ねた。
そのうち、木元の口から火の付いたタバコがカウンターに落ちた。蝉が死ぬのに似て、ぽとり、静かに落ちた。吸い口から半分くらいまで湿って、巻紙から中のタバコの葉が透けて見えた。彼は、それを摘まんでもう一度口に付けた。彼の口は、醜く横に開いて、震えていた。湿っている部分まで火元が達すると、タバコは煙を出すのを止めた。それにも気が付かず、彼は吸い続けた。俯いている彼の横顔、高い鼻が突き出て、その先に水滴が付いている。それが汗なのか、鼻水なのか分からない。鞄からティッシュを取り出して、彼に渡すと一枚取った。彼は震える手で、小動物の首の骨を折るように、ティッシュを握る、不意に、また勢いよくグラスを煽った。がつ、口の奥が鳴るほど、勢いよく飲みこんだ。そして、もう一度タバコに火を付けようとした。すっかり湿っているそれは、火が付かなかったようだ。苛立たしげにライターを擦る彼、そのうちタバコの箱を取り出して、指先で中を漁った。しかし、もうタバコは残っていなかった。
彼は丁寧に、丁寧にタバコの箱を解体し始めた。まるで、指先に彼とは別の意志が宿っているようだった。中の銀紙を綺麗に展開して、名刺サイズの箱の一辺、裂いて、平面にした。全てが終わると、「無くなっちまった」言わんばかりに手元から放る。展開された箱の中には、屑のように溢れ落ちたタバコの葉、それくらい。そのとき、私は眼の端に熱いものを感じた。
「どうして……」疑問は止めどない、あんなに上手くいってたのに、私から見る彼らは成功していた。いつまでも続く関係を築いているように見えていた。彼女が手術を終えたら、関係はもっと盤石なものになるとばかり思っていた。私に見えているのが、同性的な臭さを排除した、ほんの一部であったとしても、本心からそう思っていた。
私は同性愛というものが、美しいものでは無いことを知っている。そこには、独特の悪臭があることを、身を以て体験している。古い汗のような、性器から出てくる体液のような臭い、相手が自分に近いからなのだろうか。行為のときは勿論、生活空間を共にしているだけでもその臭いは漂ってくる。やがて、その臭いが相手からだけでなく、自分からも発せられていることに気が付いて愕然とする。だから私たちは、香水や洗髪剤の香りで、必死になってごまかすのだ。そうしなければ、とても世間には出て行けないのだ。幻覚なのかもしれない、後ろめたさに臭いがあるならきっとそれだった。周りには気が付かれていないのか、知らぬ顔をしているだけなのか、気が気でない。お前は臭いと、指摘する人間は誰もいない。
木元は、彼の思春期の只中に一人、もう、彼の街には誰もいなかった。最後の住人は彼とキスを交わして、タクシーに乗って、早朝通りを抜けて行った。そして、どこにも行けない彼だけが、孤独に立っている。
「黙れ」
彼は腹の底から、私に言った。小さい声だったのに、以前大きな声を出したときよりも空気は震えた。それは紛れもなく私に向けられた怒り、握り絞めたティッシュで眼から鼻を拭う。くしゃくしゃに皺が付いて、辛うじて乾いている一部が彼の手の中、花のように突き出ていた。
それから私は静かにした。木元の怒声は、痛々しく、恐ろしかった。俯いて、鼻を啜って、一人で考え続けた。何が悪かったのだろうか、どこを直せば良かったのか。前に木元が書いた脚本を思い出す。初めから駄目だったのか、一見何かの上で花開いているように見えても、根本が腐っていたのか。
店の扉が開いて、一組の男女が入ってきた。私たちには目もくれず、奥側のカウンター席に座って、店員と話し始めた。男女は恋人同士というわけではないらしい。互いの間合いは近いが、男女というよりは親戚、そんな気の使い方で、どうやら男性の方が店員と知り合いらしい。彼らは三人で静かに笑い合っていた。物見遊山という雰囲気は無かった。ただ、新しい世界に来たという感じだった。私はしばらく横目で新参の二人を眺めていた。名前も知らない彼ら、漂う雰囲気、何故か愛おしく。気が付くと木元も私越しに彼らを見ていた。天井のライトが、舞台の照明のように彼らを照らしていた。
「結局俺がやっていたことは、思春期の代行なんだ」
そう呟いた木元は、もう平静を取り戻していた。少なくとも声、顔つきはそうだった。それから話し始めた彼の話、「他人の感情がよく分からない……」もう、彼の周りに噴出していた怒りの雰囲気は霧散していた。開き直っているようにすら見えた。「泣いて悲しんでいるんなら笑かすくらいは出来るけど、笑いながら悲しんでいる人間には気付もしない、祈ることしか俺には出来ない」
「思春期の代行か」
大抵の舞台の観客は、芝居を見ているその実、自分の過去を見ている。定番のシチュエーションや展開を通して、観客自身の、過去の感情に笑う、涙を流す、切なく感じる。舞台が終われば、彼らはすっきりした顔で拍手、舞台に立っている人々を置き去りにして、各々の現在に回帰していく。そういうものだ。そして、作る人々は自分の思春期から抜け出すことを許されない。その悲しさが世間に知られていないことは悲劇だと思う。
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