第25話 捨てる恐怖

 昼下がりに、直属の上司に呼び出された。何か、私の仕事でミスがあったのか、最近調子が良かった分、心臓まで青ざめるようだった。現在の上司は壮年の男性だった。個人的な会話をした機会は殆ど無い。無機質な眼鏡の奥、黒い虹彩、どんな叱責を受けるのか見当が付かない。彼が人を呼び出すとき、大抵人気の無い方の廊下に出た。戻ってくる人間は、大抵俯いていた。私が扉へ向かう道中、にやけた面の先輩二人、小声で囁き合っていた。

 廊下は日当たりが悪く、靴の底が鳴る、湿気があった。部長はつまらなそうに、窓から真下の通りを眺めていた。脇の下に汗が滲んでいた。

「評判良いんだよ、相羽さん。新しく担当してる部署からさ」

「はあ」

「君、ぼき持ってたかな」

 一瞬遅れて、頭の中で「ぼき」が「簿記」に変換された。簿記資格の有無を尋ねられているらしい。正直に「持っていません」と答えた。

 彼は何も言わない。奇妙な沈黙がある。

 何かミスったか、「あ」声を出す。「あの、でも、そろそろ二級当たり取ろうかと」

 すると、上司は満足そうに頷いて、「うん。取ると良いよ。何かと先立つものだから。もう少し上の仕事するにもね、格好が付かないから。そのつもりでね」と言った。

「はい。分かりました」


 自分のデスクに戻ってから、さっきの会話は内示というやつなのか、一人納得した。

 同時に不安にもなった。自分でも驚く程、評価されたという喜びは無かった。ただ、これから先、私はどうなる、そういう不安だけが、心の中で領域を拡大していった。資格の勉強をしなければいけないのだろうか? 恐らく、立場が上になれば課内のプレゼン、月次決算の報告などを私がしなければいけない。無口な同僚は言わずもがな、一部の先輩よりも私は偉くなるのだ。喜ぶべきことなのに、怖くて怖くて仕方が無かった。何が怖いんだろう? 新しい仕事、資格勉強、人間関係の変化、どれを数えても違う気がしたし、部分的にそうである気がした。

 恐怖の正体も分からないまま、夜も眠れずにいる。酒を飲んでも、心臓が変に高鳴る。今まで知らない顔をしていたものが、急に近づいてきた。

 その日から体がどんどん重くなった。以前感じたよりも、深い、深い気分の落ち込みようだった。何かを捨てなければ、この深みからは抜け出せないと思った。以前サクラさんが語った、「捨てる恐怖」というもの、切ない顔で喉を擦る彼女、「腐ってるんだけど、それでも自分の体に付け直したくなる」言葉は過る。ノートを捨てたあと、何度もあのページを捲りたいと考えた。ゴミ箱を漁れば、まだあのノートが入っているような気がする。あの中に書いていたものと、書いたときの記憶が風穴のように私の心に空いている。風通しは良くなったが、風が吹く度痛みを伴う。あれは、はっきりと体の一部だった。それでも、心は軽くなった。軽くせざるを得なかった。私の生活には無駄が多い。けれど、整理も付かずに必要なものと不要なものの区別が付かない。

 

 それから間もなく、SNSアカウントを消した。やはり自重が減った心地、多分、知り合い以上友人未満の人間関係が、これで一挙に消失した。消す間際に木元のアカウントを見ると、今度の舞台告知をしていた。

 私が本当に捨てようとしているのは、可能性かもしれない。それは、今まで自分の側にあって、これからも自分の側にあるはずだった。そこにあるだけではなく、自分の心のように成長したり、衰えたりする。ただし、捨てない限り腐ることはない。思えば、河南と再会したのもSNSで細々と交流し続けていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る