第24話 定番

 酒の習慣が付いたら、朝起きるのが遅くなった。リビングのソファで寝ていて、河南が起き出す気配、カーテンを開く気配、料理を作る気配を感じても、眠り続けるようになった。ようやく起きて、シャワーを浴びて、出社の支度をする時間しか無くなった。しばらくの間、河南は二人分の朝食を作り続けた。一人で食べた後は、私の分にラップを掛けて冷蔵庫にしまっていた。食材の無駄だから止めろと言えば、大人しく止めた。


 会社へ向かうまでの時間は本当に苦痛で、いつも欠勤する理由を探していた。実際に行動に移すことは無いけれど、それで少しは気分が紛れるのだった。責任というものが私にとっては一番の負担であって、同時に、それが生活を支えていた。私が職務を放棄すれば、一番困るのは私だった。貯金は少しくらいならあるけれど、私の収入が無くなれば河南も困る。恐らく、次に困るのが同僚たちだった。私の抱えている業務は、どう考えても他の人間より多かったのだ。加えて前から担当している部署は、向こうの担当者との取り計らいで効率化された代わり、はっきりと属人化が進んでいた。そして、それは新しく引き継がれた担当についても同じ事が起こりつつある。部署を任されて驚いたが、先輩は担当者と、殆ど書面上のやり取り以外行っていないらしかった。実際に対面してこちらの業務の流れを説明すれば、いとも簡単に効率化は実施することができた。


 ようやく増えた業務を熟せるようになった頃、この頃張り詰めきりの精神に余裕が出てきた。稽古を終えた後の河南と、家に帰ることすら出来る。帰り道、大通り駅近くのレストランに寄った。金銭的な余裕は十分ある。精神をすり減らすほど、何故か支出も浪費も減る。お金は貯まる一方だった。挨拶代わりにバーで飲んでも、結局明日の朝が気がかりで早々に帰っていた。


 チーズフォンデュを食べられるダイニングレストランで、河南に最近の劇団の様子を尋ねた。以前木元が私に読ませた脚本が気がかりでもあった。あの後、彼と数回のやり取りを経て、何とかテーマはそのままに客受けしそうな内容にした。とは言っても、私は今回書き直しはしないで、最後まで木元にやらせた。その結果、一番初めの脚本にあったテーマの神秘性は全く損なわれて、どこかで見たことのあるような男女の恋愛コメディになった。

 河南は溶けたチーズの入った鍋にパンを入れながら、「なんか、木元さんだけ演技のノリが悪いっていうか」と言う。

「河南は、あのホンどう思ってる?」

 直接的な聞き方をしたが、彼女は特段気にした風も無い。

「今回は木元さんのアイディアなんでしたっけ。まあ、良いんじゃ無いですか? 定番な感じで」

「定番か」

 これは褒め言葉では無いな、ただ、今の木元には作品をコンスタントに出す、新たな客層を獲得する、利益を上げるという実利的な到達目標がある。だから、定番でも新しいものであれば、彼はそれで良いのかもしれない。

 コンテンツとしては消費物になるかもしれない。そういう舞台は何度も見てきた。舞台だけではない、映画でも、小説でも、漫画でも、消費される運命のものは世に溢れている。しかし、消費的なコンテンツはその外れにくさから、一定の集客が見込める。尖ったものは人の心に深く刺さる。痛みを伴うが、時には人生を変える経験を提供できる。多分、創作をしている人間は、最初はそういうものを生み出すことを夢見ていた。だからといって、大衆受けするコンテンツ作りが楽なのかというと、そうでもない。定番というものを愚直に踏襲するのは、色々な意味で猛烈に精神を消耗するものだ。

 予定では、それがサクラさんが手術前、最後に観る舞台だった。七月の上旬には、彼女はタイへ行く。これが最後というわけでもないが、木元としては歯がゆい気分なんだろう。

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