第22話 シリコン
あるとき、四人の集団が店を訪れた。奥から漏れ聞こえてくる会話を聞くに、彼らもそういう男たちであるようだった。その日、私はカウンターに座っていた。入り口に近い方の隣に木元、サクラさんの他に一人店員はいたのだが、怖がっているのか、別のテーブル席に座っている常連の相手をして、離れようとしない。結局彼らの呼び声に応えて、酒を持っていくのはサクラさんだった。彼女がカウンターを離れる度、私はハラハラしてその様子を見ていた。三回ほど見守っていたのだが、彼らの態度はそれなりに理性的であるようだった。それ以降は、体の力を抜いて木元と会話した。
「相羽、ちょっとこの脚本読んで欲しいんだけど」
彼が鞄から取り出して、私の方に滑らせてきたのは一冊の脚本。木元の顔を見ると、恥ずかしそうにして「新しいの書いてみたんだ。ちょっと相羽の意見欲しくてさ」と呟いた。
私は複雑な気分だった。木元はスランプというやつを脱したのか。けれど、彼の書いた脚本が、以前の彼のように極めて抽象的な内容だったことには、正直救われる気持ちだった。テーマは分かりにくく、登場人物一人一人の思考、行動のロジックが今ひとつ掴みきれない。一言で言えば意味不明。ただ、そこには純粋な熱量だけがある。自分の考えたことを表現したい、これこそが自分の喜び、その気持ちだけが文字として現れているようだった。
それは暗い喜びだった。笑うというよりは、にやけるような。顔を隠すようにグラスを煽って、それ以降は集中して最後まで読んだ。やはり難解の一言、この脚本を木元が演出したらどうなるんだろうかと、脚本とは関係ないところに価値を求めてしまい、脚本の中では抽象的な部分を、演出と化学反応が起こすかもしれないじゃないか。出来ることなら、その舞台を観に行きたいと。けれど、それは身内びいきでしかない。ここにあるのは一つの脚本、判断基準はこれだけなのだ。
「どうかな」タイミングを見計らっていた木元が尋ねる。
少し言葉を迷ってから、「これは、受けないよ」正直に言うことにした。以前から彼の脚本をけなすことが出来れば、最近の鬱屈が晴れるんじゃないか? そんなことを思っていたけれど、全く違った。不安定な自分の評価を、不安定と知りながら他人に受け渡す。それは物凄く罪深いことをする気分なのだった。
「テーマが難しいかな」
「テーマというよりは、伝え方だと思うよ。こんな書き方じゃ、何にも伝わらないよ」
言葉を選べば、子供に言い聞かせるような言い方になる。木元は辛抱強く脚本の問題点を質問してきて、私は一々それに答えた。どうやら、彼は脚本のどこかに病巣があって、それを取り除きさえすれば、物語の流れが明解になって、素晴らしいものになると考えているようだった。渡された脚本を読み返しながら、本当にそうだったら良いな、と思った。本当にそうだったら、誰だって傷つかないで済む。
現実には、彼を理解させるのに優しい以外の語彙が必要だった。
「直しようがないよ」
「そうかな」
彼はまだ平然としていた。もう少しキツい言葉が必要だと思った。
「お話にならないよ。木元は一体、私の脚本の何を読んできたの? 没に決まってんじゃん、こんなの」
突然、爆発が起きたような音を目の前の男が発した。「おう! ごるぁ、てめえ!」と言ったらしかった。店どころか、扉と階段、突き抜けて、地上へ届く位の大音量だった。驚きのあまり、横隔膜まで引きつって、しゃっくりのような悲鳴が出た。
そのときの木元と言ったら、演技でも見たことがないような怒りようだった。目は四白眼になるほど大きく見開かれ、口は醜く踏ん張るように横に開いて、顎を震わせていた。私は初めて木元の男性的な怖さを見た。けれど、彼の怒りの矛先は私では無かった。胸を怒らせて、歩いて行った先は奥のテーブルだった。テーブルの近くには、奇妙な格好で右の胸を手で押さえているサクラさん、私のように驚いたのか、呆然とした顔で近づいてくる木元を見ている。木元はテーブル席で泥酔していた一人に詰め寄った。テーブルにいた男は他に三人いたが、酔いも浅く、怒り狂った木元にすっかり気圧されて青ざめていた。ただ一人、泥酔した男は興奮と恐怖が入り交じった顔でいて、自分よりも背の高い木元を必死ににらみ返していた。
それからの彼らの問答を聞く限り、泥酔していた男が突然サクラさんの胸を指で突いたらしいことが伝わってきた。だから、サクラさんは妙な格好で胸を押さえていたのだ。彼女は、私が駆け寄ってもまだ呆然と二人の男のやり取りを眺めていた。「大丈夫ですか?」小声で尋ねると我に返ったように、「いや、大丈夫。平気平気」いつものように明るい返答、木元と泥酔した男の間に割って入っていった。私も、今にも殴りかかりそうな木元を取り押さえようとした。それでも、木元は全身全霊で男の存在を否定しながら、軽々と後ろ手に私を突き飛ばした。手の着けようが無かった。
「なんだよ必死になりやがって。てめーもホモかよ」
「俺がどうだろうと関係ねえ。今すぐ店出てけっつってんだよ!」
「るせーな! んだよこの店、客の質わりーなあ! なあ!」
泥酔した男は、味方を呼ぶようにテーブルで青ざめている三人に呼びかけた。しかし、彼らは口を噤んでいた。よく見ると彼ら、泥酔した男より若い。上司と部下というところだろうか。
サクラさんが落ち着いた声色で「信一、もう良いよ。どうせシリコンなんだから」宥めるけれど、「んなこた関係ねえだろーが!」怒り狂った木元は彼女にまで怒鳴り声を上げる。彼の顔、縁を赤くした眼を私に向けて、「関係ないよな?」優しい声で言う。メンズの香水、彼の周りを漂って無性に悲しい、出た涎を拭って、「作りものだからって、こんなこと許されるわけねえんだよ!」
サクラさんは、喉が詰まった様に、無様に口を開いていた。
不意に店の従業員口から静々と、襟の付いたシャツ、セーターを着て痩せ細った初老の男が出てきた。頬には目立つ、縦長の傷跡がある。あっという間に怒り狂った木元を取り押さえ、テーブルの三人に「出てってくれるかな」と言った。彼はこの店の店長だった。私はクリスマスパーティーと、年始に店を訪れた時しか会ったことがない。羽交い締めにされて暴れている木元を見て調子付いたか泥酔した男、「愛想のわりい店員だ」未だ立ち尽くすサクラさんを笑った。けれど、店長が「警察呼ぶよ」と言うと、口を結んで大人しくなった。
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