第13話 サクラさんの幸福

 初めて合意の情交をしてから、時折私たちの間に存在した、よそよそしい瞬間が無くなった。丁度それに代わるように、独特な熱を感じるようになった。今まで気が付かなかったが、河南は絶妙に私の間合いから外れていたのだった。廊下で擦れ違う時、食事をしている時、それだから、今まで彼女の存在そのものを鬱陶しいと思ったことは少なかった。消滅したのは彼女のその気遣いだった。すると、不思議な程彼女の存在が生活の中で浮いてくる。テレビを見ていて、頻繁に前を横切られるような不快感。

 それでも河南は美しい。可愛い、というよりはそうなのだった。

 愛撫は習慣になったが、それが性的興奮に転換することは今のところ無い。ただ、美しいものが本性を現す瞬間が愛おしく、美しい蕾が開いて、爆発の跡のような中身を私に見せる瞬間は私を喜ばせる。だから、河南を喜ばせることは、生活に潤いをもたらした。かといって、彼女から与えられる刺激はただの快楽でしかない。心の動きに体が反応するのではなく、むしろ、体の刺激に心が乾きを訴え始める。そうして、レズビアンでないことが、私を苛み始めたのだった。

 純粋に性欲を求めた行為でないことが、却って罪深く、河南を裏切っている気がし、そのくせ心はその時間を求めている。体と心が分離し始め、その距離に肉離れのような痛みが生まれ、彼女との距離が近づく程に、心は遠くへ旅をする。


 年明けてから数日が経った。

 サクラさんが勤めている女装バーは、通えば通う程居心地が良くなった。木元に連れられて訪れていたのが、今では一人でも入るようになった。専らサクラさんが話し相手のアテ、けれど彼女が居ない日も勿論あり、別の女装した男性がカウンターに立っていると、改めてサクラさんの、女を装うことのクオリティが高いことが分かってきた。それは、主に彼女が男を捨てている部分に現れた。声帯筋力脱毛ホルモン、その証に、彼女は長いウィッグで顔の輪郭を隠さない。聞けば男の顔骨は整形で削った、スカートを穿くわけでも無い。体の角は丸く、儚く、けれど、それで他の店員が不幸せなのかと言うと、決してそうではない。彼らは彼らで、サクラさんが女になる過程で捨てていった物を、各々の考えで愛しているのだった。会話してみると、全員が女性になりたいと考えているわけでは無いらしい。ただ単純に、女性のファッションが好きだという男もいる。女であることでも、男であることでも、彼らがマウントを取り合うことは決して無かった。興味が無いというわけではない。それは知らぬ顔ではなく、きちんと個人に顔を向けて、他人の臨む女という地平線、それを認め合っているだけなのだった。

 木元がいない時、こっそりサクラさんに河南とのことを相談した。相談できる相手は彼女しかいなかった。私自身がマイノリティになりきれないこと、それを聞いた彼女は難しそうな顔で「私にアドバイスできることはないかなあ」と言う。「相羽さんはマイノリティっていう言葉をよく使うけどさ、別にLGBTだけじゃないと思うよ。そういう人間って。性的指向で大雑把に括られることはあるけど、それにどう折り合いを付けるかは個人次第なとこ、あるからね。世間というものに迎合して、きちんと幸せになる人も中にはいるんだよ。ここの主立ったお客さん、女装をしたいって言う人たちも、言っちゃえば立派なマイノリティだからね」

 つまり、人は独りということなのだった。私は自分の中の嵐に、自分一人の力で向き合うしかない。嵐を抜けた先に、何があるのかは、今もって分からない。

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