第11話 冷たい風
冷たい風、いつの間にかどこからか入って来ていた。素足を冷やして、寒さに眼を開ける。私はソファに寝転がっていた。玄関扉の方を見ると、頭に雪を積もらせた河南、息を切らせて私を睨む。片手に持つのはスマートフォン。そういえば私のポケットが震えている。取り出したスマートフォン、河南からの着信、切ると、彼女からの着信履歴がずらりと並んでいた。
「心配するじゃん!」
河南は、頭に乗った雪もそのままに怒鳴る。
「ごめん、ちょっと寝てて」わけも分からぬうちに言い訳すると、「いや、電話してるんだから出ろよ!」確かに履歴を遡れば、バーで飲んでいた時間にも何件かあった。騒がしかったし、泥酔していたから気が付かなかったのだ。「ほんと、信じられないわ……」片手で目許を押さえて、その場にへたり込んでしまった。
「本当に気が付かなかったんだ……」
「いや、ありえないでしょ。誰といたんですか? 木元さんでしょ、どうせ。仲良いですもんね」言い当てられて、少しの間黙ってしまって。「ほらやっぱり」得意気な割に痛々しい声、「当て付けのつもりですか。昼間私が沙織さんを知らん顔したから」一息に言って、少し足を崩す。ついでのように乾いて笑って、「急に来るなんて聞いてないし。あの大学生の子が私にタメ語使ってるの聞いて、内心ほくそ笑んでいたんでしょ」
「いや、そんな、あの店員が河南にタメ語使ってるのなんて聞こえなかったよ」これはありのまま、だけど自分で言ってて白々しい。私には、店員がオーダーを通している様子しか見えていなかった。
とうとう河南は泣き出して、頭の雪も溶け始め、彼女の体を上から濡らし始めた。
「最初の晩のことは、謝ったのに。たった一度の知らん顔くらい、そんなちょっとした復讐すら許されないんですか? 生理が辛くたって、私、一生懸命家事しましたよ。これで駄目なら、もう、沙織さんとは一緒にいられない。辛すぎますよ、こんなの」
私はもう、河南が哀れに思えて仕方が無かった。彼女の言うこと、事実を追えば、全て誇張も無く私が彼女に行ったことだった。部屋に掛けていたバスタオルを取って、彼女の頭の水滴を拭ってやった。彼女は強い力でタオルを引っ張り、自分の顔に押し当て嗚咽をくぐもらせた。
「河南、ちょっと私の話聞いて」私にはもう、一切合切を白状する他術も無く、「一緒にいられない」という彼女の言葉に、眠気の飛ぶような危機感を今更覚えるのだった。「私、河南が羨ましかったんだよ。今日、なんの予定も無かったから……。職場にも、禄に友達が居ないんだ。それで寂しくて、せめて働いている河南に会いに行こうと思って、あの喫茶店に行ったんだよ」
羨ましい? そんなもんじゃない。多分私は河南になりたかった。中途半端なところにいるくらいなら世間に見向きもしない、そんな孤独の持つ強さに、一方的に恋をしていた。
彼女は丸められたタオルの隙間から私を見ていた。化粧が溶けた彼女の目許、黒い塗料は頬、タオルまで流れて、月に生じた影の様だった。
「あの店員が河南にタメ語使ってたなんて、本当に分からなかったんだよ。ただ、河南に無視されて、イブに浮かれて、限定のケーキなんか頼んじゃってる自分が、物凄く馬鹿に思えてきて……。街を歩いていても、自分が独りぼっちなんだって、思い知らされて、……」
「木元さんは?」
「木元には、パーティーに誘われたんだよ。サクラさん……この間言ってた、木元のスポンサーの働いてるお店で、私は喫茶店の件があったから、ちょっと飲み過ぎてたんだよ」
本当は、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。
河南はまたタオルに顔を押しつけて、「ちょっと、信じられない……」呟いた。
「生理の日は、いつも悪いと思ってた。でも、河南との距離感が上手く掴めなかった」
声掠れ、この言葉だって彼女には届かない、そんな絶望感が内に満ち、もうどうすればいいのか分からない。白状することが、今の私の全身全霊で、なのに、河南の顔はまだ私に向かない。言葉だけでは駄目なんだ。幾ら脚本を書いていても、演出する能は私に無い。せいぜいト書きで、伝わることを祈るくらい。それから私を睨む彼女の目付き、哀れで、卑しく、罪悪感を覚まさせる虹彩、毒々しさを感じるのに、私を吸い寄せ、「今までのことは、償うから」口を付けた。
こちらを向いていないから、唇の端にするのが精一杯、息を吸い込むように顔を離せば、呆然とした顔がこちらを向いた。急に顔が熱くなって、汗、猛烈な動悸、私はどうかしてしまったんだろうか。タオルには、溶け落ちた化粧、脂ぎったような黒い滲み、「今のが……」聞き取れるかどうかの声で呟き、名残惜しそうに中指で唇の端を触った。失敗を責め立てられた気がして、心が逸り、彼女の顎を手で支えて、もう一度した。それでも変な位置に着いた気がしたが、河南が唇を滑らせて、正常となった。そのまま離すと、恥ずかしいくらい生な音が鳴る。不意にまた鳴った。
「確かに、お酒の匂いがする」
勝ち誇ったような囁き声が耳元、皮膚を伝わり、触れ合った所からは、冷え切った体温。暖房に当たって火照った私の体温と、それが中和し始め、それが眠くなるほど心地良い。河南は口を薄く開いて、舌を私の唇に這わせている。それを軽く挟み込めば、じんわりと熱さが、頭の奥の方に這い寄ってきた。
花の匂いが、何処からか漂ってきた。窓が青暗く変色している、十二月二十五日の朝。
河南の後にシャワーを浴びて出ると、彼女はベッドルームで陽を浴びていた。膝を少し曲げて、私の方を見ている。少しだけ怖じ気が出た。けれど、河南も大概緊張しているように見えた。ベッドに腰掛けて彼女の膝を撫でると、ゆるく股を開いた。言葉無く、私が触れて、彼女が反応することがコミュニケーションだった。彼女の肌は、日の光を受ける、誰も居ない砂浜のようだった。表面はさらりとしていて、その割に少し掘ると暖かく濡れた砂が出てくる。その中に裸の体を埋めたかった。私はその暖かくて大きなものの一部になりたかった。なのに、そのための過程が分からない。困惑して、彼女の顔を見ても、眩しそうに腕で眼を覆っている。私一人の力で、何とかせねばならない。そこで思い出したのが、何度か再生した河南の動画、それでしていたように乳首を弄り始めると、彼女の体は理想以上に喜び、興奮よりも安堵が勝った。単調な動きでも、しっかりと濡れた砂地が表面から出てくる。あっちを撫でて、こっちを撫でてを繰り返すうちに、濡れている部分を触っていた私の手を、河南が掴んだ。そういうことかと思って動きを激しくしていくと、どんどん握る力が強くなる。痛いくらいになる。急に力がふっと抜けて、河南は口の端に出掛かった涎を啜った。
河南は名残惜しそうに、彼女の中に指を入れている。
「良かった?」
「もう……最高」
それから彼女は身を起こした。軽いキスをしてから、腰掛けた状態の私の中に指を入れてきた。驚いて腰が少し浮いた。私はちっとも濡れていない。河南は一瞬残念そうな顔をした。それでも愛撫は私の数倍複雑で、恥も無くて、あっという間に二回くらい腰が抜けそうになった。
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