第10話 境界の人

 そのうち、奥で客の相手をしていた店員が酒のグラスを取るついで、「サクラ、彼、もう家まで送ってあげたら」突っ伏している木元の頭を指差した。サクラさんが声を潜めて「店、平気?」尋ねるとその店員、男らしく「平気、平気」と頷いた。カウンターを出るとき、思い出したように振り向いて、「でも、そのまま家でしっぽりとか、止めてよ。忙しいんだから」と忠告する。サクラさんは笑って、大袈裟に手を振った。周りの人間がマイノリティばかりで感覚が麻痺していたが、そういえば、サクラさんは男なのだ。木元と彼女が素肌をくっつけ合う光景は、現実的に、世界に存在していたのだった。木元は、その光景の中では、どんな顔をして息をするのだろうか。壁に掛けていたダウンジャケット、それを着るとき、サクラさんの背筋が盛り上がった。

「ついでに一緒に駅まで行こうか。終電逃したら面倒でしょ」


 *

 

「相羽さん、さっき変な想像してたでしょ」

 階段を上がりながら彼女は言う。

「してませんよ」

「そういうことしないからね。別に。ホルモン入れてて性欲も大して無いんだから」

 種明かしされた気分で、「なんだ、そうなんですか?」しらけた声を出すと彼女は笑って、「なんだそうなんですかって、正直だよな」

「なんかすいません」

「いや、別に良いけど。なんか、私たちみたいな人間って色情狂に思われるのかな。確かに昔はちょっとやんちゃしたけど……。体弄り始めてからは、脱いでも引かれることの方が多くなったな」

 そう言って、しんどそうに階段の中腹に腰を下ろした。彼女の喉には微かに横に引いた痕、「お陰で筋肉も落ちたし」と腰を叩いて汗も一筋頬に伝った。肩で支えられていた木元も、くずおれるように階段に張り付いた。

「こんなこと聞いちゃ失礼なんですけど、どうして手術しようなんて……」

 彼女は階段から地上の通りを仰ぎ見る。丁度月が、他人の物のように向かいのビルの屋上に乗っかって見えるところ、粉雪も疎らに降っていた。白く、長い溜め息を吐いて彼女、「わかんない。いつの間にか、女になるための人生だった」と寂しく言った。それから下品に笑って、「後はここだけさ」と股間を叩く。

「やっぱり、そこも手術ですか」

「うん、来年辺りね。もうすぐお金も貯まるから」

 不意に、へいつくばっていた木元が内ポケットを手で弄った。取り出したのは煙草の箱とライター、壁に背中を寄せて、三口吸ってから意地汚く唇で挟み、「じゃあ、行くべ」ふらふら腰を上げた。「階段、上がるのは大変だな」と、今度は彼がサクラさんを助け起こす。

「だったらしっかり歩いて~」

「歩く、歩く」

 地上へ出ると、彼らは同じ歩幅で歩いて行くのだった。


 次に木元の劇団がやる公演のタイトルは「境界の人」。

 あるところに家を構えている男がいる。ある日、大国A(国の名前は思い出せない)と小国B(こっちも思い出せない)が、山の尾根を境として国境を取り決める。男の家は、丁度国境の真上にある。すると、俗世から距離を取っていた彼のもとに、それぞれの国の官吏たちが、向こうの国の様子はどうか~向こうの国の様子はどうか~と、頻りに訪ねるようになる。そのうち男自身も、家から出て、それぞれの俗世を見物するようになる。クライマックスで、男は亡命を試みる小国の女性を助ける。けれど、その場面の台詞が、さっきから思い出せない。

 何を考えてあんな話書いたんだっけ。

 思い出せない。

 飲み過ぎた、地下鉄から降りた、扉に凭れるようにして、ガチャガチャ鍵と鍵穴を擦った、靴下を脱いでソファに頭を突っ込んだ……。

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