第6話 木元のスポンサー、サクラさん
河南は、アルバイトを始めた。木元の劇団員の、ガタイの良い男の紹介らしい。名実ともにフリーターになったわけだが、晴れ晴れとした顔で朝出かけていく。職場は大通り公園のすぐ近くにある純喫茶。たまたま私の職場にも近く、「じゃあ、行ってみようかな」言うと、彼女は結構本気で嫌がった。同じシフトに入るのが、若い大学生ばかりで少し浮いているのが恥ずかしいと言う。私からすれば、彼女なんて大学生に毛が生えた程度、何を気にしているのかしらないが、彼女にもコンプレックスみたいなものがあるかもしれない。就職活動は細々と続けていたのだが、一月に入れたという公演のスケジュールに向けて、バイトと稽古が彼女の一週間の半分と半分を埋めてしまった。
公演までの時間はかなり短い。大晦日を考慮すると、実質的な稽古期間は一月あるかどうかというところだ。年末の繁忙もあり、私もいつまでだって構ってられない。どうせ脚本を有り物で済ますのなら、木元が書いたものでやればいいと思う。そういうことを深夜、電話で彼に話してみれば、「それは駄目だろ」と断固として嫌がった。「今の俺なんてろくなもん書けねえよ。界隈の人に白い目で見られちゃうだろ」
「この間だって、似たようなことをしていたじゃない」
「あれは、ほぼ新作だろ。相羽、殆ど書き直したじゃん」
それは確かにそうで、結局タイトルまで変わったのだ。
「木元には、舞台で表現したいものは無いの?」尋ねると、弱々しく、「スランプなんだ」と零した。どうも切羽詰まっている雰囲気だったので、その日のうちに木元を居酒屋に誘うと、逆にすすきのにあるバーに呼び出された。彼のスポンサー氏が働いているバーだ。
十一月だった。もう雪は降りしきって、街路樹のイルミネーションが雪の街を演出している。装飾は大通り公園だけでなく、すすきのまでの通りを暖色、寒色、散りばめて、灯りに照らされた雪は、ちぎれて落ちたスパンコールのように輝く。札幌は、冬の方が視覚的に暖かい。それに近づくクリスマスと年末の忙しさ、楽しさが、正月へ向かって色気付いてくる。街を歩く人々も、氷が張っているというのに足早で、一人一人が他人の温度を感じている。子供の頃はこの時期に出歩く大人の、一人一人がサンタクロースに見えた。彼らは白い息を吐いて、一生懸命になって札幌の街、世間というものを動かしているのだった。
指定されたバーは、イルミネーションで輝いている通りからは少し離れた場所にある。照らされた通りから顔を背けるように、細い通り、入り口は階段で地下を降りたところにある。外観からは中の様子が見えず、今日は職場からそのままここへ来たのだ。店の割に寄せ付けない雰囲気、分厚い木製の扉で、店の看板も大っぴらには掲げていないから随分気圧された。それでも、木元がいると信じて私は中に入った。
果たして、店内に木元はいた。薄暗い店内、彼の他に店にいるのは、入って右手のカウンターに立つショートカットの女性、黒いTシャツの胸元は豊かに盛り上がっている。奥のテーブルには、明らかに男なのに素振りが女という気色の悪い人間が三人、木元はカウンターの女性と向かいあって座っていて、カウンターの他の席には普通のサラリーマンとOLがいる。中に入ったとき、扉にくっ付いていたベルが派手に鳴り出して、彼ら全員が私を見た。木元が「おう!」と元気よく挨拶してくると、皆安心したように、各々の話し相手に向き合うのだった。
カウンターに立っている女性は「この人が信一の相方さんか」興味深そうに私を眺めた。木元は、木元信一という。
軽く会釈しながら木元の隣に座ると、彼は立ち上がって、「相羽、この人、サクラさん。この間話したろ」
「え?」
紹介を受けたサクラさんはグラスを拭きながら、「いらっしゃい」と私に言う。「話したって、いつ?」「話したろ。バーで働く男に面倒みて貰ってるって」「男って……」言われてみれば、仕種、話し方は少々「らしい」。なのに、声の高さ、顔つき、髪質、胸、肌質、シルエット、要素一つ一つは完全に女性のそれなのだ。本当に女性だと思い込んでいたから、仰天した。そんな私の様子を見てかサクラさん、困惑したように「何、ちょっと、私のこと説明してないの」「したよ俺。変わったやつだって……」
変わったやつ?……思い返せば、確かに彼はそう言っていた。それにしても言葉足らずだろう。まさか、トランスジェンダーだったとは聞かなかった。
「サクラさん。こいつ、相羽ね」
「どうも」
「この間の舞台、すっごく面白かったですよ」彼女は笑って、「でも、何も聞かないでここに来たんなら、ビックリしたでしょ」本当は「彼」なのだが、彼女に「彼」は似合わなかった。
彼女は、まんざらお世辞でも無いように舞台の感想を話し始めた。本当に木元の舞台のファンらしく、彼女の喋る言葉の全て、私達作り手を肯定する言葉だった。一通り私をむず痒らせてから、「相羽さんは、いつもどんなお酒を飲むのかな」まともなバーの従業員らしいトークを始める。出てきたマティーニは、普通に美味しいマティーニだった。
この空間には、異常を正常、正常を異物とする奇妙な香りがある。木元もこの香りの中でいて落ち着いて、何故か私も、妙に心の平穏を感じているのだった。それが何故かは分からない。ただマティーニに一口付ければ、サクラさんの風貌、奥の奇妙な男たち、凪のような私の心、意識から露と消え、私は本題を切り出した。
「それで、今度の公演はどうするのよ」
「相羽、また前見たいにやってくれねえかなあ」
木元の情けない言葉を聞いても、彼のファンだというサクラさんは静々とグラスを拭いている。
「この間も同じようなこと聞いたけどさ、木元はなんで演劇やっているの。やりたいことがあるから劇団なんか作ったんでしょ」
「俺は、ただ、舞台が好きだったんだよ」そう言って、恐らくサクラさんに買って貰った煙草に火を付ける。「一番初めは、本当にそれだけだったんだ。それだけで良かったんだけど、最近は、何故か演劇を続けるための理由を求められるんだな。いい歳こいて何してるんだって、よく言われる」
店の中は、暖かすぎるくらいに暖房を効かせている。私はジャケットを脱いだ。
「なんかさ、歩いても歩いても抜け出せない、思春期の街にいる気がするんだよな」
若く見える木元は、そう言って寂しそうに笑うのだった。
「周りの人間は、地下鉄に乗ったりバスに乗ったりして、とっとと街から出て行くのに、俺だけが地べたを這いずり回って、誰も居ない街で自分の存在を主張してんだ。ほんと、稽古してる間も脚本練ってる間もずっとそんな感じだよ。相羽はそんなこと思ったことねえの?」
この間の結婚式のことを思い出す。河南が、控え室に入ってきたときのこと。あのとき、確かに世間というものが、河南一人に牙を剥けたのだった。
「私はだって、もう引退したんだから。劇団なんて辞めたきゃ辞めればいいんだよ」
「いや、好きでやってるんだよ? 舞台は、今でも大好きなんだけどな」
サクラさんが、いつの間にか木元に新しい酒を造って彼に差し出した。これもきっと彼女の奢り。木元は礼も言わずにそれに口を付ける。ついでに、私にも同じ酒を出してくれた。「多分、相羽さんの口にも合うと思うんだけど」「ありがとうございます」感謝すると、サクラさんは口の端をくいと上げて、また私達の空間から音も無く外れた。
とにかく埒が明かないので、結局彼の甘え受け入れることになってしまった。私の書いた過去の脚本を、私がリライトする。紛れもない、演出家としての怠慢。「分かったよ。脚本書き直して、また送るから」音を上げたとき、木元は露骨に安堵して、サクラさんの出す酒、出す酒をくいくい飲み干した。それで酔い潰れてしまうから救いようも無い。私が店を出るときは、きちんと彼女は勝手に出した酒の勘定は抜いていた。
「相羽さん、信一に愛想尽かさないであげてね」カクテル一杯分の頼み事を、私にする。「私はあんまり創作のことは分からないんだけど、彼、今は色々なことに疲れているだけだと思うんだ。だから見捨てないであげてね」
木元は、カウンターに突っ伏して眠りこけている。奥のテーブル席に陣取っていた三人、カウンターに座っていた二人も、もうとっくに帰って店には三人。暖かすぎる暖房に、少しの冷たい隙間風。正と負が反転するこの空気、この甘い香りは何かの花か、どこかに芳香剤でも置いているのだろうか。
「心配しなくても、こいつと私は腐れ縁ですから」
「それは、最高の関係だよ。多分ね」満更冗談でもなさそうに、彼女は溜め息を吐いた。
地下鉄に乗り込んでから、あれ、私、マウント取られたのかな? と、変な考えが頭に浮かんで、それが中々消えなかった。サクラさんの、「信一に愛想を尽かさないであげてね」なんて言う台詞。「愛想」「尽かさないで」「あげてね」なんて。まるで、自分が愛想を尽かすことはありえないことみたいな。どちらかと言えば、私のほうが彼の間合いの新参者みたいな。いや、最近心がささくれ立っているのだ。ささいなことが、妙に引っかかることが増えた。
よく考えたらどうでもいいことなのだ、そんなことに気が付いたのは地下鉄が琴似に到着したとき、駅から出れば、震える程の別にサクラさんと木元を取り合っているわけでもない。宿主の金で煙草を吸うような同居人なんて、貧乏神以外の何者でもない。ただし、貧乏神でも神は神であるから、それを信奉する人間も、世界のどこかにはいるというだけの話だ。
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