間章:The road of road(上編)

01. 腐熱

 書痴の酩酊を嗜みながら、ロード・マスレイは「おめでとう」と欠伸し頁をめくった。幾度も読んだ本であるけれど、彼には読書速度も重要であるそうで、今回はごくゆったりと読み進めている。


 アクラは咳払いした。


「あからさまだねぇ」

「昔話をしてください」

「するさ。それを出されたらするつもりだったとも」

「……子供の言い訳みたいですね」


 頁がまたはらりといった。


「今晩、廃教会に行こう」




 下りていくのが何より恐ろしかった。新月の日であったから、彼女の程度の高所恐怖症が問題になることはなかったけれど、ただただに深い闇と出所の分からない音が恐ろしかった。カサカサ言えば風・葉と理由付け、ジャリと言えばまた風・土と理由付け、いっぽうで足音だったらどうしようと恐れた。意味は安寧に違いなかった。


 行った先では蝋燭一本。あとは新月の暗闇だった。


「怪談でもするんですか」

「そうかもね。怪談かもしれない。怖気の立つ話さ」


 梢が風で擦り合う音。どちらかがどちらかを折り取って、その木屑がまた幾分か擦り合いながら落ちていく大音。アクラはもう怖気だっていたし、七月も近いけれど山奥の夜、肌が硝子のように冷えていた。


 鋭敏なロードは「ふむ」と言って、またいつぞやの如く外套をかけた。けれどアクラは「結構です」と、よく分からぬ意地で突き返した。


「君、寒くないの」

「寒いですよ」

「ふむ……」


 またそう言って今度は指を弾く、すると辺りはほの温かくなった。


「火の幻想ですか」

「いいや、空間を少しとっかえた」

「とっかえ?」

「ここの空中と、僕の部屋の何もないところと入れ替えたんだよ。空調を切り忘れてきたから」

「さすが先生ですね」

「そんなに褒めないでおくれ……さて、昔話をしなくては」


 それでいて、このように突如切り替わる。アクラは不覚な胸の高鳴りを聞いた。


「まずは神話からだね」

「神話ですか」

「うん。三神を言ってごらん」

「……はぁ」


 けれど、切り替えた先でまた素っ頓狂なことを言い出す男である。どこまでも読めぬ男だった。素っ頓狂、というのも、あまりにも社会的基礎知識であるから確認されることもないのだった。


「最高神、気と安寧の大神アルゴル」


 アクラが指折ると、ロードはにこやかに頷いた。ムッとしてきた。


「水と美の女神レシーラン」


 ロードは動じてくれなかった。どうでもよくなった。


「そして、土と隠者の女神……あれっ」


 そういう不意にこういうことが起こった。


「……どうして」

「出てこないかな」

「おかしいです、こんなの」

「なんと、出て来ないのかい。非国民だねえ」


 出て来ない筈がないと、繰り返し思い返したけれどやはり出て来なかった。喉元にも来ない。その御名が彼女の脳裏によぎることはなく、「知っている」感覚と「知らない」現実がかち合って怖気がした。


 怪談だった。アクラ・トルワナの今まで知らぬ体感でおかしくなりそうだった。冷や汗がほろと垂れ落ち、足と指の先が大ぶりに、背筋が小刻みに震えた。ロードがそれを愉しげに見ている。それを半ば睨み返したとき、それを安定位置にして震えが治まった。


「土と隠者の女神グレイスの御名を忘れるなんてね」


 ぞくとした。


「あの」

「君の養母はつまり、そういうことだよ……一番のヤマだったかもね、これは」


 ロードは急に蝋燭を吹き消した。


「ひ」


 アクラは面白いくらい跳ねた。


「ははは」


 異次元のロードがその背後から。

 外套を被せる。

 アクラは羽織ってしがみついた。


「ごめんよ」


 アクラはまた睨んだ。対象をもつことがその時は、意識的であれ無意識的であれ、何よりもありがたかった。


「さあアクラ、本題だ。僕の昔話をしよう。いいかな?」

「聞きますよ。聞いてみせます」

「……別に、怖がらせて気勢を削ぐ気はなかったさ。だからそんなに睨まないでおくれ」


 再度点灯した蝋燭が安寧を与えた。そのときアクラは全ては相対なのだと思った。先刻と同じ状況へかえっただけなのに安心を得られるのは、万事が相対であるからだと思った。


 ロードがまた前に座る。蝋燭の火はロードの瞳にうつって、萌葱色の気持ち悪い火色を示し、意味を揺らした。


「幼少から十五まで、僕は己の将来的な成熟を信じる一方、実際は一歩も進んでいないような感覚に囚われていたんだ」


 アクラはこのときもっとも怖気立った。同感したからである。


「何も身につけていないような、どこにも至っていないし進んでいないような感覚があった。それでもそんなわけはないと信じ込んだ。自分の十五年が、一度きりの幼少期と青春とが時間の浪費だったと思いたくなかったからね」


 彼の語り口は無感情だったけれど、無感情に努めているという点で寧ろ感情的だった。激情的とも言えるほど、彼はそう努めた。アクラは喉を渇かしながら、しかしそれをもう自覚出来ず、聞き入って膝頭を握った。その手先の冷温感がひどい。


「結論から言えば、予感はまったく当たっていたらしい。教育された内容をよく覚えてはいるけれど、世話される身を抜け出すだけの意志性について、全く幼童の如きものだった」


 喉の震えを感じた。むろんロードではなくて、アクラのものである。


「正義感で迷惑をかける鼻つまみ者がいるだろう? 他人の規則破りを口うるさく指摘して、大人になっても自分が正しいと思い続けるから勝手な道理を振り回す老害になって、最後には『幼児から一歩も成長していない人』と裏で笑われる人間。そのうえウィットに富んだ年長者に上手くあしらわれて、笑い話にされる人間……僕はそちら側なんだ」


 アクラは『腐熱』という単語を想起した。造語だった。けれど彼を表現するにあたって、間違いなくこれほど適した表現はないと思った。


「僕は成敗される側の人間だし、幼児から一歩も前進していない馬鹿だ。これからするのは、そういうお話だよ」


 そして彼は皮切る。

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