俺と課長、そして緑のたぬき

草笛あつお

 緑のたぬき


 大阪市のとあるオフィスの中。

 雑務に忙殺された人々がザワザワと忙しなく動いていた。

「おい! この計画書どうなってるんだ!」

「七山工業さんへの宅配手配は誰がやっているの?」

「ここ数字おかしくないか? もう一度最初から見直したほうがいいと思うんだけど」

 壁に掛けてある時計は直に十二時をさそうとしているが、そんなことを気にしている者は誰もいない。皆は各々に全力で職務を全うしていた。

 そんな人いきれに包まれた中、その喧騒を破るように、一人の男が声を張り上げた。

「お~い本郷君。ちょっと来て〜」

 俺はパソコンから目を逸らして顔を上げると、課長の福安が俺に向かって手をふっていた。

 横でパソコンのキーを叩いていた猿島が、

「またお前何かしたのか?」と俺に誰にも聞こえないように囁きかけた。

「本郷君~」

「うわ…あの声は絶対怒ってるぞ」

「はあ…」

 と俺は深いため息を吐くと、福安のもとまでゆっくり歩いて行く。

「本郷君…君ね…何度言ったらわかるの?」

 福安は机の上のコピー用紙を拾い上げ、ひらひらと見せつけた。

「すいません…」

「すいませんじゃないよ。これで何度目だい? 君はまともにデータの入力もできないのかい? 上から言われるのは私なんだから、こういうところは気を付けてもらわないと困るよ!」

「すいません…」

「またすいませんか。それは君の口癖かい?」

「いえ…そうではなくて」

「なんだい? 言いたい事があるならはっきり言えばいいじゃないか? え?」

 机をドンっと叩いて、下から睨み上げた。

「君はまだ入社して一年目だったかな?」

「はい…」

「こんなことは言いたくないがね、私が君ぐらいの時は、周りに迷惑がかからないように何度も確認してミスのないように努めたもんだよ。それが君ときたら、なんだい? この有様は? ふざけてるのか?」

「すいません…」今の俺にはそれしかいうことができなった。

 それから頭をさげて何度も謝るも、福安の怒りはなかなか治まらない。

 課長の叱責に水を差すように昼の鐘がなると、腕時計を見て、「君、これから付き合いたまえ」と眉間に皺をよせ、俺を鋭く睨んだ。

 溜息を吐いて、俺は福安の後をついて行く。 


 社を出ると、すぐ近くに牛丼屋があったが、福安はそこに足を向けなかった。

 俺達の間にはあれから会話という会話はなく、ただ気まずい時間が流れる一方。

 時折、福安の顔を盗み見るも、終始眉間に皺が寄っている。

 どこに行くのかと、思いながら福安の後ろを歩くと、彼は正面に見えた、コンビニに入っていった。

「いらっしゃいませ!」

 店員の元気のいい声が店の中に響くと、福安はカップ麺が陳列されている場所に足を向けた。

 昼飯を食べるために立ち寄ったコンビニで福安は【緑のたぬき】を二つ掴み、鮭おにぎりとお茶を二つずつレジに持って行った。

「あの…」

 俺が困ったように福安にそう言うと、福安は手で制して、「今日は私が奢るよ」とだけ言って、会計を勝手に済ませた。


 コンビニの裏の公園に向かった俺達は、空いていたベンチに座り、二人で湯を入れた【緑のたぬき】を手に公園の景色に目を走らせる。

「そろそろかな」

 福安はそう言って蓋をはがすと、ズルズルと食べ始めた。

「ああ…。やっぱりおいしいな。どうした? 君も、早く食べないと伸びてしまうぞ」

「あ。…ではいただきます」

 割り箸を二つに割って、自分も福安と同様に蓋をはがして、食べ始めた。

 おいしい。ほんわりとした味が体に染みわたっていく。

 鰹節のダシに、うまく醤油を使ってバランスよく仕上げている。

 なんとも素朴な味で、なんだかとても懐かしいような味がした。

「おいしいだろ?」

「はい!」

「その小エビ天ぷらもどうだね?」

 福安に言われるまま天ぷらを齧ると、小エビと玉ねぎの合わさったなんとも香ばしい旨味が口の中に広がった。

「おいしいです」

「そうだろ。去年、味がリニューアルされたからね」

「課長は【緑のたぬき】が好きなんですか?」

「まあね。私はずっと昔からカップ麺は【緑のたぬき】しか食べないからね」

 男二人して【緑のたぬき】をすすりながら食べるのを余所に、遠くの方で家族連れの幼稚園ぐらいの子供達が元気にかくれんぼをして楽しそうに遊んでいた。

「ここは昔と変わらないな」

「え?」

「実は、さっきは偉そうに君にはああは言ったが、正直に言うと私も入社して一年目に君とは違うが大きなミスを一度犯してしまってね。周りに大変大きな迷惑をかけてしまったんだ」

「課長がですか?」

「恥ずかしい話さ。君に偉そうに言える立場じゃないんだがな。当時、私は大学の時から付き合っていた人がいたんだよ」

 福安はそう言うと、過ぎ去った過去を思い出すように目を瞑った。

「何か…あったんですか?」

「大切な人が事故で亡くなってね。それから私はしばらく仕事に集中できなくなったんだ」

 俺は福安から目を逸らして俯いた。

「あの時、私の上司だった若松とういう人にね、こうやって昼飯を奢ってもらったんだ。無論、その時も【緑のたぬき】だったよ」

 誘われろように両手で抱えている容器に視線を落とす。

「その時に、その若松さんからこういわれたんだ。何か辛いことがあるなら私に打ちあけてごらんってね…」

 福安は空を見上げた。その時を偲んでいるのかわからないが、遠くを見る目に、どこか寂しさを感じた。

「当時、私は自分の心の苦しさをショックで誰にも打ち明けることができなくてね、若松さんにその時の自分の気持ちを話したところで何かが変わるというわけでもなかったけど、でもあの時彼の優しい顔を見ていると誰にも打ち明けることのできなかった私の悩みを打ち明けることができたんだ。ずっと黙って聞いてくれた彼の姿勢に私は心打たれて、情けないことだが彼の前で大泣きしてしまったよ。いや恥ずかしい話さ」

 と福安は朗らかに笑った。

「だから心が苦しくなった時はここで、こうやって【緑のたぬき】を食べると楽になった私の話を君に聞かせたかったのさ。あの時もああやって子供が元気に遊んでいたことを思い出したよ。子供の元気な姿を見ながら、これを食べていると、なんだか心が救われたような気がしたんだ。話してごらん? 何かあったんだろう?」

 俺は容器を握る手に力が入った。

「実は…」


 *****


 小学校に上がる時に、親父が事故で死んでしまい、俺の家はずっと母子家庭だった。

 下に弟と二人の妹がいて、いつも母さんは昼夜問わず、俺達子供のためにずっと働いてくれていたのだ。

 寝る間も惜しんで…。

 だが物心がついた頃になぜ俺の家はこんなに貧乏なのだと思うようになってしまった。

 友達は誕生日、クリスマスになると新しいおもちゃは当たり前のように買ってもらえるのに、自分の家は新しいおもちゃを買ってもらうどころか、お小遣いさえなかった。

「ごめんね…。いつも何もしてあげられなくて…」

 だが母さんが一度体調を崩して寝込んだ時、そんなことを言われたことがあった。

「別にいいよ…。もうあきらめてるし…。どうせ、うちは貧乏だから金がないんだろ?」

 母さんは俺の心無い発言を聞くと、顔をおもむろに俯けて、「本当にごめんね…」と何度も俺に謝ったことを覚えている。

 その晩、母さんが台所で一人で静かに泣いている姿を見た。

 今思うと、母に向かってあんなことを不意に言ってしまった自分が許せなかった。

 なぜ俺はあの時に自分のことしか考えられなかったのだろうか。

 母さんはいつも俺達のために寝る間も惜しんで働いてくれていたというのに。

 あまりにも自分が発した言葉は勝手極まりなく、我儘だと思った。

 今でも心が時々傷い。

 それから俺はどうやったら母さんの力になれるのか考えるようになった。

 手伝い? 弟・妹の面倒? 友達は学校が終わると、ランドセルを置いて近くの公園に遊んでいるころには掃除、洗濯に母さんが仕事に行っている間に晩御飯を必死に作っていたっけ。

 小学校時代はほとんど友達と遊んだ記憶がなかった。

 でも俺は別にそれでもよかった。母さんの泣く姿を見るくらいなら、そんなこと我慢できた。

 中学・高校で必死に勉強し、卒業すると大阪の国立大学に受かった俺は、大阪に引っ越してきた。

 いい企業に就職して、たくさん給料をもらって母さんを楽させてあげるためだ。

 奨学金をもらいながら俺は勉強とバイトを両立し、母さんに迷惑がかからないように努めた。

 けど母さんは定期的に段ボールにいろいろな物をつめて仕送りをしてくれていた。

 いつも段ボールの底には白い封筒があって、『少ないけど生活の足しにしてね』と少ない金を隠すように忍ばせていたのだ。

 俺に気を使うほど金に余裕なんかないくせに…。

 俺はうれしくて何度か情けなく泣いたこともあったかな。


 けど…あれだけ何かをしてあげたかった母さんが心不全で死んでしまった。


 *****


 福安はずっと目を閉じて聞いていた。

「グス…」

 何度も鼻水が流れて、何度も目を擦っても涙は止まらなかった。

「そうだったのかい…。それは残念だったね…」

「いえ…。もう割り切ったつもりだったんですけど…、母のことを考えてしまうと…」

 死んでしまった母に何も恩返しができなかった。

 それが悔しくて悔しくて…。

「母さん! 待っててくれよ。俺がガンガン稼いで母さんを楽にさせてやるからな!」

「ふふ。はいはい。私はあんたのその気持ちだけで十分うれしいわよ」

 それは入社してからの母さんとの最後の会話だった。

 最後に見た母さんの笑顔を思い出すとまた涙が止まらない。

「きっと…君のお母さんは幸せだったんじゃないのかな?」

「え?」

「こんなこと気休めにしかならないけど、君がここまでお母さんの事を思い続けてきたことに本当に幸せに思っていたんじゃないだろうか」

「そうでしょうか…」

「ああ。きっとそうだよ。今も君のことを天国から見守ってくれていると思うよ」

 そう福安に言われ、雲一つない青い空を見上げた。

「ありがとうね……」

 どこからか風に乗って母さんがそう言ったように聞こえた。 


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