わたしが求める技能(スキル)は神絵師であって天才画家ではない!

紫藤市

「んー……」


 椅子に腰を下ろしたままディララ・シファーアは腕を画材の収納棚に伸ばした。

 必要とする絵の具は指先に触れそうで触れない。

 椅子から立ち上がればすぐに取れるのだが、面倒臭がりな性分の彼女はいつも横着してしまう。

 うなじでひとつに結んだ腰まで垂れる黒髪が馬の尻尾のようにゆらゆらと揺れる。


「あと、ちょっと……っと」


 ぐらりと椅子ごとディララの身体が傾く。

 指先が絵の具の容器に触れる前に、腕が乱雑に積んであった画布の山に当たった。


「あ、しまった……」


 がたがたと音を立てて木枠に貼ったいくつもの画布の山が崩れ落ちていく。

 その画布の中に突っ込むようにしてディララは椅子と一緒に倒れた。

 木枠が頭に当たって目の中で火花が散る。

 その瞬間、瞼の裏に不思議な光景が映った。


(これは――――)


 薄紅色のふわふわと癖のある長い髪をした少女が、華奢で白い手足を露出させ、丈の短い服に身を包んでいる。背中には二枚の大きな白い羽根があり、胸と腰がやたらと強調される衣装で、抜き身の剣を手に満面の笑みを浮かべている。

 空色の髪の青年が、黒い軍服のような衣を身に纏っている。ただなぜか上着の下は裸で、胸や腹の筋肉がやけに誇張されている。憂鬱そうな表情を浮かべているが、両手に銃器が握られている。

 黄金色の髪の少年は、大きな深緑色の瞳をきらきらと輝かせ、頬は林檎のように赤い。そして、自分とほぼ同じ身長のうさぎのぬいぐるみを抱いている。膝丈までしかない筒状の袴を穿いており、愛らしく微笑みながらもどこか気怠げな印象を与える。


(神絵!!)


 息を飲んだディララは、瞼の裏に現れた絵を記憶に刻みつけるように凝視しようとした。


「姉さん!? 物凄い音がしたけれど、大丈夫!?」


 ばたんと勢い良く作業部屋の扉が開き、荷物を抱えたナムーク・サフラが飛び込んでくる。

 声に反応してまばたきをしながら視線を二つ下の弟に向けたディララは「あぁ……」と思わず呻いた。瞼の裏に浮かんでいた神絵がまばたきと同時にきれいさっぱり消えてしまったからだ。神絵を見失ったことに動揺するあまり、頭を抱えて床にうずくまる。


「どうしたの!? どこか打ったの!? まさか怪我をした!?」


 画布に埋もれるようにして唸るディララを心配してナムークは駆け寄った。


「怪我はしていないと思うけど、神絵が消えてしまったわ……あの素晴らしい絵をわたしの瞼に焼き付けることができなかったわ……なんてこと」


 大仰に嘆きながら深いため息をついてディララが答えると、床に膝をついて姉の状態を確認し始めたナムークはほっと胸を撫で下ろした。


「姉さん、カミエってのが見えたの?」

「えぇ! そうなの! それはそれはとても素晴らしい絵だったわ!」


 さきほど瞼に映った絵をなんとか思い出そうと、興奮気味に答えながらディララは目を閉じて記憶を手繰り寄せる。


「あれは、この世の物ではないわ」


 ディララは神絵の世界に浸りながらうっとりと告げたが、姉の言う『カミエ』とやらを見たことがないナムークは「はいはい」と生返事をしながら手早く画布を片付けていく。

 ディララ・シファーアは現在弱冠十七歳で『カフラマーン王国の天才女流画家』の名をほしいままにしている抽象画家だ。

 彼女の才能に目を付けた画商フィクレト・シファーアは、幼なじみで五つ年下のディララ・サフラを囲い込み彼女の絵を独占して自分の画廊で販売するため、一年前にディララと結婚した。彼の父親が会頭を務めるシファーア商会は主に絵画の販売を中心にする美術商だが、画廊でディララの絵を扱うようになってからは王都ワミードでも指折りの美術商に成り上がった。

 ナムークは、絵を描くこと以外には一切頓着しない姉がシファーア商会に食い物にされないように監視するため、姉夫婦の屋敷に姉の弟子兼雑用係という名目で住み込んでいる。


「神絵はわたしには絶対に描けない、それはそれは素晴らしい絵なのよ」

「姉さんにも描けないような絵なら、きっとどんな画家でも描けないよ」

「でも、あの絵は人の手で描かれたものなの。絵師と呼ばれる人による魔法のような超絶技巧の作品よ」


 ディララはうっすらと脳裏に浮かんだ情景に思いを馳せた。

 神絵が時折彼女の瞼の裏で見えるのは、いまのように画材が頭にぶつかったときだ。二年ほど前から神絵が見えるようになり、神絵を見たいあまり自ら画材で頭を叩いたこともあるが、わざと画材とぶつかったときは目の前で星が飛ぶだけで神絵は見えない。

 その絵がなぜ神絵と呼ばれるものなのか、ディララにはわからない。ただ、なぜかその絵を見た瞬間から「これは『神絵』だ」と自分ではない自分から教えられたのだ。神絵を描く人は『神絵師』と呼ばれる。どういうわけか、その世界では絵を描く人の一部を『画家』ではなく『絵師』と呼ぶのだ。

 そして、絵師が暮らす世界には様々な魔法が存在している。

 夜になっても様々な色の灯りで町を照らす光の粒。

 空に向かってまっすぐに立つ数々の高層建築。

 馬やなどが引かなくても動く車。

 次々とめまぐるしく絵が動く箱。

 様々な音楽が流れ出す円盤。

 遠く離れた場所にいる人と会話ができる板。

 筆を滑らせるだけで様々な色に塗ることができる画布。

 それらの魔法は絵師たちが暮らす世界では誰もが自由に手に入れることができて、皆が魔法の恩恵を享受できる。

 しかし、それはどれひとつとしてディララの世界にはないものばかりだ。

 彼女が暮らすこの世界に魔法はなく、日常は非常に不便極まりない。

 国教である神の教えを重んじるカフラマーン王国では物事には様々な決まりと制約があり、絵を描くにしても自由に描くことは許されていない。特に、神絵のような具象画は禁じられている物のひとつだ。


「ララ! なんか物が落ちるすごい音が聞こえたけど、大丈夫!?」


 騒々しく廊下を走る足音が響いたかと思うと、大声を上げながら青年が作業部屋に飛び込んできた。

 魔法で彩られた異世界の景色に浸っていたディララは、その声に呼び戻されるように自分の目の前の現実に意識を向ける。

 部屋に入ってきたのは彼女の夫であるフィクレト・シファーアだった。

 褐色の長髪に黒い瞳のフィクレトはすらりとした長身で、落ち着いた雰囲気は画商というよりは美術館の学芸員だ。彼は誰よりもディララの作品の良さを理解していると自負しており、女流画家ディララ・シファーアの作品について語らせたら一日でも二日でも喋っていられるくらいに彼女の作品の愛好者ファンであり後援者である。

 彼がディララと結婚したのは、彼女が絵を描くことに専念できる環境を提供するためでもあった。

 ディララの父オルハン・サフラは厳格な軍人で、「この世になくても困らない物のひとつは絵だ」と画商であるフィクレトの前で断言するほど絵を嫌っている。「画商の舌先三寸で高くも安くもなるような絵に大枚をはたくことほどくだらないことはない」と吐き捨て、「絵を描いて金を稼ぐ画家は詐欺師だ」と娘を叱りつけた。

 しかし間もなく、状況は一変した。

 オルハン・サフラが友人の借金の連帯保証人になっていたのだが、債務者であるこの友人が金を持って行方をくらませたため、借金はすべて連帯保証人であるオルハンが肩代わりしなければならなくなったのだ。その金額はオルハンの十年分の収入に相当し、返済日までに到底用意することができない金額だった。

 家族はオルハンを説得し、すぐさまディララをフィクレトと結婚させた。そして、ディララの描いた二枚の絵の代金でサフラ家は借金を全額弁済させることができた。ディララの絵はサフラ家の誰もが想像しないような高値で売れたのだ。

 フィクレトは義父となったオルハンに、今後一切ディララの画家としての活動に口出しをしないことを約束させた。「ディララの才能を理解できないのは仕方ないとしても、彼女の才能を否定したり潰すような真似だけは断じてしないでいただきたい」と珍しく怒りに満ちた目でオルハンを睨み付けて、手切れ金を渡すように小切手をオルハンに押しつけると、ディララを連れ帰った。

 普段は温厚なフィクレトが激昂する姿をディララが見たのは、後にも先にも彼女がサフラ家を去る日に迎えに来た際の一度きりだ。

 それ以降、ディララは父と会っていない。

 フィクレトは画家としてのディララをとても大切にしてくれている。それは疑いようのない事実だ。


(それで充分幸せだってことは頭ではわかっているのだけど)


 ディララが絵を制作するための作業部屋には、使い切れないほどの画材が準備されている。彼女が一日中制作に集中して打ち込めるよう、家事の一切は使用人に任せている。弟のナムークが弟子として手伝ってくれており、好きなときに好きなだけ絵を描くことができる。

 誰が見ても、画家として理想的な環境だ。


(でも、なんでわたしが天才画家って呼ばれるのか、いまだに解せないわ。わたしを天才画家として売り出しているフィクレトは、父が言うように詐欺師なんじゃないかって思ってしまうのよね)


 画架にかけてある制作中の絵と、「なにがあったんだい!?」とナムークに詰め寄っているフィクレトを交互に見遣りながら、ディララはなぜ自分の絵が高値で売れるのか首を傾げずにはいられなかった。

 画布には鈍色や紺色などいくつもの暗色が塗りたくられているが、境界線のようなものはなく、形は不明瞭だ。抽象画と呼ぶにも抽象的すぎて、描いた画家本人もなにが描かれているのか判別できないような状態だ。

 しかし、この絵がシファーア商会の金の卵と呼ばれる大傑作として扱われている。


(まったく、なんで毎回こんな支離滅裂な絵に仕上がってしまうのか……)


 希代の天才画家ディララ・シファーアは、自身のたぐいまれなる絵の技術に日々悩ませていた。

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