♡ レストラン『祈り』♡

x頭金x

第1話

 人間の知覚の範囲の限界は産まれ持ったものである。それは拡がるものでも狭まるものでもなく、産まれて死ぬまで、一定の大きさを保っている。


 見えないものが見える様になったり、聴こえなかった音が聴こえる様になったり、あらわせなかった事を言葉にできる様になったとしても、それは元々の範囲の中を一つずつ拾い集めていったのに過ぎず、それはまるで写真を現像して徐々に像が顕になっていく様な感じで、そこにはもともとあったものが露見していく過程にすぎず、フレーム外にある街や人を知覚することは決してできないという事。そんな事を考えているうちに、心の裡にあった愛しさがどんどん込み上げてきて、それを食事にして提供することにした。それが小高い丘の上にあるレストラン『祈り』のはじまりだった。


 『祈り』に通うお客さんは様々だ。いずれの客も個性的で、面白くて、気高く、澄み渡っている。


 『祈り』へと続く道の両脇には花壇があり、春の花たちが威風堂々と咲き誇っている。


「私が一番でしょ」、とチューリップ。


「何言ってんの、私に決まってるでしょ」、とヒヤシンス。


「(私なのに)」、と勿忘草。


 花々は穏やかな風に揺られながら踊る。香りと矜恃が空間に艶を出し、今日の春を彩る。この日一番目のお客さんは、ソプラノとアルトの仲を取り持つ“協和局の長官“だ。足音でわかる。右足はミの音を、左足はソの音を鳴らしながら歩く“長官“は、丘の麓に着いた時点でみんなにバレバレなのだ。


「あ、ミソ来たよ」、とゼラニウム。


「そんな事言わないの」、とフリージア。


「ミとソの間の音は決してファなんかではない」というのが彼の口癖で、その言葉を笑顔で言う時は仲を取り持てた時、しかめっ面で言う時は取り持てなかった時だ。わかりやすい。エントランスの鐘がなる。“カノン“は小走りでエントランスへと向かった。“長官“は笑顔でお決まりの文句を発した。


 丘の上のレストラン『祈り』にはメニューはない。客がテーブルに着くと、“想い出うさぎ“たちによって水が運ばれ、しばらくすると同じく“想い出うさぎ“たちが“その日のメニュー“を運んでくる。


 “その日のメニュー“は本当にその日だけのメニューで、その日にしか食べることが出来ない。季節、温度、風向き、心模様、そんな諸々が関係し合って刹那を紡いで調理するので、メニューなんて存在し得ないのだ。


「今日は、今日を食べる。明日は明日を食べるのだ」、と“カノン“は日々思って生きている。


 春の陽光が窓から覗いている。“あたたかな目“たちがより一層あたたかさを膨らませている。窓の外には大きな“好きの木“が聳えている。


 人は様々な事を、様々な時代において好きになる。その好きを養分として育つのが“好きの木“だ。小高い丘に住むみんなは、好きな事が多いのだろう。みんなそれぞれ違うが、みんなの顔が生き生きとしているのは、そう言う事なのである。


 どこからか音楽が流れてきた。それに沿って花や鳥や虫たちが歌う。時々猫が迷い込んでくる。ゴロンと草の上に寝転び、ノビをして、大きなあくびをした後、すやすやと寝た。無人駅の駅長をしているその猫は、電車が到着しない間は、そうして過ごしている。


 2時間に一度到着する電車からは、“傷だらけの明日“や、“高揚した常“や、“判然としない講釈“達が降りてきた。顔見知りの客ばかりだ。皆片道切符を猫に渡す。猫は寝転んだままそれを受け取り、ピンスポットを彼らに当てる。そして照らされた彼らは影の形を地面に写し取られた後、改札をくぐり、各々の目的地へと向かった。

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