「お母さんと言えば……カヲリはどうした?」


 ハヤテがその名を出すと、おしゃべりだったユウコとナツコは突如閉口した。


 カヲリとは彼女たちの母親であり、セイジロウの妻だ。幸恵とは同郷だったが、地元にいたときに面識はなかった。


 しかしどのような人間かは知らされている。名家の出身で、家名に劣らず気品ある淑女だそうだ。彼女とは生前何度か会ったが、その評判の通りの女性だった。


「ハヤテちゃんは知らないのね。お母さんは何年か前に亡くなったのよ」


 現実味のない話だった。ハヤテはしばらく黙り込んだ。ユウコはその間も着付けをしていく。

 ほら、あれ見て、と言われるがまま、ユウコが指さしたほうを見る。そこには漆塗りの仏壇と、笑顔で映るカヲリの写真があった。


「……挨拶していいか」

「いいわよ。着付けが終わったらみんなでお線香を焚きましょうか」


 ユウコは笑顔で言った。彼女たちの様子を見るに、亡くなったのはだいぶ前らしい。なぜユキマサは知らせてくれなかったのだろうか。


「もう結構前なのに、お父さん、再婚する気ないみたい」


 ナツコは淡々と言った。ハヤテにとってはかなり意外だ。セイジロウはどうせ楽しいほうへずるずると向かうだろうと思っていたから、矜持や後ろめたさといった感情はないと思っていた。


「初恋の人が忘れられないそうなのよ」


 ユウコは苦笑いした。すると同時に、ナツコが後ろから抱き着いてきた。


「ねえ、姉さん。ハヤテちゃんならお父さんの初恋の人、知ってるんじゃない」

「あ! そうね! ハヤテちゃん、誰か知ってる?」


 父親の悲しみを鎮めたいからか、あるいは面白そうだからか。姉妹は父親の初恋の相手を推測しはじめた。


 初恋の相手といわれても。少なくとも、地元にいたころのセイジロウはそういうことには疎かった。


「知らんな。浮いた話は聞かなかった」


 ハヤテがそう言うと、ふたりはあからさまに落胆する。


「同郷の人なのよ。お父さんの実家に行ったときも、誰も何も知らなかったの」

「お父さんも、墓場まで持っていく、って」

「そうなのよなっちゃん! もうハヤテちゃんしか頼みの綱がないの!」


 ユウコは指を組んで、お願い、と頼んできた。


「お父さん、その人を振っちゃったこと、ずっと後悔してるらしくて」


 ハヤテはそう言われて黙り込んだ。初恋の相手が誰か、わかってしまった。


 でも、どうしても言いたくなかった。彼女を、セイジロウの初恋の相手だと認めたくなかった。


「……知らん」

「何その間」

「ええ、ハヤテちゃん絶対知ってるでしょ。誰? どんな人?」


 ユウコとナツコは一気に盛り上がるが、ハヤテは口を割る気はなかった。


「あたし、気になる」


 ナツコはハヤテにぐっと顔を近づける。


 言ってはいけない。セイジロウにとってそうであるように、ハヤテにとってもこれは秘匿しておくべきものだった。


「もうかなり昔のことだ。忘れてしまった」


 からし色の帯と帯結いを結び終えたユウコに、もう行っていいか、と訊く。ユウコが頷くや否や、ハヤテはふたりの手中から逃れる。


「パーティが長引くといけない。セイジロウもあまり待たせると悪いからな」


 もうこれ以上聞くな、と無言の微笑みで牽制する。


 ハヤテはカヲリの仏壇へ視線を向け、「線香を焚くか」と声をかけた。ユウコたちは唖然として彼女を見ていたが、ハヤテが「いいか?」と再度訊くと、また騒がしく口を開いた。


「そうしよっか。ね、なっちゃん」


 ナツコは頷いて、ユウコのあとについていく。


 ハヤテたち三人は、カヲリの仏壇に向き合った。小さいが高価そうな装飾が至る所についている。笑顔のカヲリは記憶と変わりない。


 幸恵自身も、こうなるはずだった。ただ運が良かっただけで。


 ハヤテは線香立てに線香を立て、静かに手を合わせる。


 目を開けると、ふと仏壇の奥にあった一枚の記事が目に入った。


「サナトリウム強襲事件?」


 目を凝らしてみるが、文字が小さくて読めない。


「ああ、お母さんが亡くなったときの記事だね」


 ユウコは静かに言った。


「お母さんは病気で死んだんだけど、その死体目当てに使徒が現れたの。お母さんが入ってたサナトリウムは襲われて、たくさんの人が死んだ」


 その声色に怒りや悲しみはなかった。日付を見ると、もう十年前のことだった。


「わたしの、この街が嫌いな理由のひとつ。あんな化け物と共存しようってほうがおかしいのよ」


 ユウコはそう言ったあと、「もちろん、ユキマサさんやハヤテちゃんのことを否定するわけじゃないんだけどね」と付け足した。


 この事件が起きたとき、ユキマサはどんなことを思っただろう。ハヤテはユキマサに避けられていたから、そんなことを知る由もなかった。もし、そのときに話しかけていれば。彼の抱えた行き場のない悲しみも、理解してやれたのだろうか。

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