待っている間、ハヤテはコンクリートの海辺に腰かけて、脚をプラプラさせた。全身濡れているのに、あまり寒くなかった。


「もうすぐ、夏か……」


 いろいろなことがあった一年だった。エリカが見つかってから、ユキマサの表情はずっと明るくなった。でもシオンがそのまま見つかると思っていたばかりに、悶えたときもあった。とにかくいろいろな感情を経て、彼はまた一歳、大人になった。


「あと何年かな」


 ハヤテは空を見上げた。入道雲が遠くに見える。きっともうすぐ、雨が降る。どんなにひどい雨でも、いつかは晴れる。一生晴れないんじゃないかと傘を持って立ち尽くしているのが、人生というものだ。


 風が吹いていた。ハヤテは、波が細かく立つ濁った水面を見ながら、去年の夏のことを思い返していた。


「……私は私のやりたいことだけやってればいい、か」


 ハヤテは軽く伸びをしながら、次にやりたいことを考えていた。


 菓子はユキマサが欲しいと言わなかったので、あまり作ったことがなかった。今度作ってみようか。伏龍街の海に泳ぎに行こうか。サラと遠くに遊びに行ってみようか。やりたいことはまだまだいっぱいあった。


 自分がユキマサの障害になっていないか、この人生における意味は何か、考えていた自分がアホらしく思えてきた。ハヤテは好きな詩を口ずさみながら、ユキマサの帰りを待った。


「風の力をこの身に受けて、私はどこかへ向かいたい。

 雲の向こうは風が吹き荒れ、誰も私を邪魔しない。……あー、次はどこに行くかね」


 鮮烈なまでの青をまぶたに焼きつけながら、ハヤテは笑った。


「……何してるんだおまえ」


 ハヤテは慌てて振り向いた。そこには帰ってきたユキマサとエリカがいた。

 ハヤテは気恥ずかしくなって、笑いながら海岸から立ち上がる。


「ははは、それより、服買ってきてくれたか?」

「ああ。……エリカ、そっちの服を……」


 どこかふたりの距離がぎこちないと思ったら、手をつないでいた。これは成功したらしい。


 ハヤテはエリカから服を受け取って、着替える。胸元にフリルのついた白いブラウスに紺のフレアスカートという、エリカの趣味らしい服だ。


「ありがとう。じゃ、帰るか!」


 ハヤテはふたりの背中を押して、駅のほうまで歩いた。



 時は経って、ユキマサは五丁目のウォルコット邸にやってきていた。

 チョーク・パレスにも負けず劣らずの豪華な建物で、規模を小さくした宮殿のようだ。


「……どうしよう」


 ユキマサはスーツのネクタイを執拗に直しながら、ハヤテのほうを伺った。


「どうしようもなにも。どうしようもないだろ。ほらいけ! 両家顔合わせだ!」


 ハヤテが先陣を切ってウォルコット邸に入っていこうとすると、ユキマサが急いで追い越していった。


 迎えられた執事にダイニングまで案内される。ユキマサは執事が開けたドアを窮屈そうにくぐり、ウォルコット家に対面した。


「ごきげんよう、ニシナさん」


 マーガレットが冷たくそう言う。


 視線が一斉にユキマサに集まる。そこにはシオンの父母と、三人の兄弟がいた。


「……こんにちは、本日はシオンさんとの結婚のご挨拶に伺いました」


 執事はいちばんの下座にハヤテとユキマサを誘導する。ユキマサは静かに話しはじめる。


「まず、去年の夏ごろ、シオンさんが教団から解放されました。私は彼女に会いましたが、記憶を失っていました。そのため、本日は彼女とともに来るのは断念しました」


 ユキマサが何かを言っても、返事が来ることはない。テーブルの下に置いたユキマサの手が震えていた。


「……八年前にも、こうしてご挨拶に伺ったことがありますが、シオンさんが失踪したことで婚約が決裂してしまいました」


 ユキマサは頭を下げる。


「お願いします。シオンさんと結婚する許可をいただきたいのです」


 しばらく静寂が続いた。ハヤテは恐ろしくて、ウォルコット家のほうを見ることができなかった。

 口を開いたのは、兄のフェリシアだった。


「誘拐されたのは誰のせいだと思っているんだ」


 罵倒だった。それを皮切りにしたように、大きな憎悪が二人を包んでいく。


「お前と関わらなかったら」「死者蘇生なんてするからだ」「だいいち、庶民のお前がいうことじゃないんだ」「あなたと結婚なんてしたら、私たちの家名にも傷がつくでしょう」


 ハヤテはウォルコット家の表情を伺った。父親とダリアは何も言っていない。兄と母親と中心として、この家は歪んでいるのだ。


「でも、お前のおかげでアスターがいなくなってくれて清々したな」


 フェリシアが、笑いながらそう言った。ユキマサが下げていた頭をとっさに上げる。口を開いて、反駁を口にしようとするが、フェリシアに睨みつけられてまた下を向いてしまう。


 そんなフェリシアのほうを向いて、父親が言った。


「アスターって、今何してるの?」


 アスターの話によると、父親は伏龍街の外で画家をやっているらしい。フェリシアが記者だと答えると、父親は嬉しそうに笑った。


「シオンにしか心を開かなかったあの子が、記者ねえ! お父さん嬉しいよ」


 純粋な父親の反応に、フェリシアはひるんだ。この家のヒエラルキーが崩壊した。父親はユキマサのほうを向いて、にこりと笑いかけた。


「ニシナ君。シオンの記憶がなくなったのなら、もうあの子はこの家と関係がなくなったんだ」


 それだけ聞けば冷たい言葉だったが、それはウォルコット家からの解放を現していた。


「そもそもウォルコット家が何かする必要はない。他人なんだから。幸せになってくれよ」


 罵声がやんだ。ハヤテが妹のほうを見ると、静かに微笑みかけていた。

 ユキマサはフェリシアや母親からの反論がないのに気づくと、顔を上げた。


「……わかりました。ありがとうございます」


 ユキマサがそう言うと、早く出て行け、というフェリシアの声が浴びせられた。ユキマサは慌てて椅子から立ち上がり、お辞儀をしてその場から立ち去る。


 結婚の許可が出たとみていいだろう。ユキマサはウォルコット家から出ると、ため息を漏らしてネクタイを緩めた。


「緊張した……」


 ハヤテは疲弊した表情の中に、嬉しそうな感情が宿っているのを見た。ハヤテは彼の姿を見て、人知れず笑った。

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