伍
待っている間、ハヤテはコンクリートの海辺に腰かけて、脚をプラプラさせた。全身濡れているのに、あまり寒くなかった。
「もうすぐ、夏か……」
いろいろなことがあった一年だった。エリカが見つかってから、ユキマサの表情はずっと明るくなった。でもシオンがそのまま見つかると思っていたばかりに、悶えたときもあった。とにかくいろいろな感情を経て、彼はまた一歳、大人になった。
「あと何年かな」
ハヤテは空を見上げた。入道雲が遠くに見える。きっともうすぐ、雨が降る。どんなにひどい雨でも、いつかは晴れる。一生晴れないんじゃないかと傘を持って立ち尽くしているのが、人生というものだ。
風が吹いていた。ハヤテは、波が細かく立つ濁った水面を見ながら、去年の夏のことを思い返していた。
「……私は私のやりたいことだけやってればいい、か」
ハヤテは軽く伸びをしながら、次にやりたいことを考えていた。
菓子はユキマサが欲しいと言わなかったので、あまり作ったことがなかった。今度作ってみようか。伏龍街の海に泳ぎに行こうか。サラと遠くに遊びに行ってみようか。やりたいことはまだまだいっぱいあった。
自分がユキマサの障害になっていないか、この人生における意味は何か、考えていた自分がアホらしく思えてきた。ハヤテは好きな詩を口ずさみながら、ユキマサの帰りを待った。
「風の力をこの身に受けて、私はどこかへ向かいたい。
雲の向こうは風が吹き荒れ、誰も私を邪魔しない。……あー、次はどこに行くかね」
鮮烈なまでの青をまぶたに焼きつけながら、ハヤテは笑った。
「……何してるんだおまえ」
ハヤテは慌てて振り向いた。そこには帰ってきたユキマサとエリカがいた。
ハヤテは気恥ずかしくなって、笑いながら海岸から立ち上がる。
「ははは、それより、服買ってきてくれたか?」
「ああ。……エリカ、そっちの服を……」
どこかふたりの距離がぎこちないと思ったら、手をつないでいた。これは成功したらしい。
ハヤテはエリカから服を受け取って、着替える。胸元にフリルのついた白いブラウスに紺のフレアスカートという、エリカの趣味らしい服だ。
「ありがとう。じゃ、帰るか!」
ハヤテはふたりの背中を押して、駅のほうまで歩いた。
時は経って、ユキマサは五丁目のウォルコット邸にやってきていた。
チョーク・パレスにも負けず劣らずの豪華な建物で、規模を小さくした宮殿のようだ。
「……どうしよう」
ユキマサはスーツのネクタイを執拗に直しながら、ハヤテのほうを伺った。
「どうしようもなにも。どうしようもないだろ。ほらいけ! 両家顔合わせだ!」
ハヤテが先陣を切ってウォルコット邸に入っていこうとすると、ユキマサが急いで追い越していった。
迎えられた執事にダイニングまで案内される。ユキマサは執事が開けたドアを窮屈そうにくぐり、ウォルコット家に対面した。
「ごきげんよう、ニシナさん」
マーガレットが冷たくそう言う。
視線が一斉にユキマサに集まる。そこにはシオンの父母と、三人の兄弟がいた。
「……こんにちは、本日はシオンさんとの結婚のご挨拶に伺いました」
執事はいちばんの下座にハヤテとユキマサを誘導する。ユキマサは静かに話しはじめる。
「まず、去年の夏ごろ、シオンさんが教団から解放されました。私は彼女に会いましたが、記憶を失っていました。そのため、本日は彼女とともに来るのは断念しました」
ユキマサが何かを言っても、返事が来ることはない。テーブルの下に置いたユキマサの手が震えていた。
「……八年前にも、こうしてご挨拶に伺ったことがありますが、シオンさんが失踪したことで婚約が決裂してしまいました」
ユキマサは頭を下げる。
「お願いします。シオンさんと結婚する許可をいただきたいのです」
しばらく静寂が続いた。ハヤテは恐ろしくて、ウォルコット家のほうを見ることができなかった。
口を開いたのは、兄のフェリシアだった。
「誘拐されたのは誰のせいだと思っているんだ」
罵倒だった。それを皮切りにしたように、大きな憎悪が二人を包んでいく。
「お前と関わらなかったら」「死者蘇生なんてするからだ」「だいいち、庶民のお前がいうことじゃないんだ」「あなたと結婚なんてしたら、私たちの家名にも傷がつくでしょう」
ハヤテはウォルコット家の表情を伺った。父親と
「でも、お前のおかげでアスターがいなくなってくれて清々したな」
フェリシアが、笑いながらそう言った。ユキマサが下げていた頭をとっさに上げる。口を開いて、反駁を口にしようとするが、フェリシアに睨みつけられてまた下を向いてしまう。
そんなフェリシアのほうを向いて、父親が言った。
「アスターって、今何してるの?」
アスターの話によると、父親は伏龍街の外で画家をやっているらしい。フェリシアが記者だと答えると、父親は嬉しそうに笑った。
「シオンにしか心を開かなかったあの子が、記者ねえ! お父さん嬉しいよ」
純粋な父親の反応に、フェリシアはひるんだ。この家のヒエラルキーが崩壊した。父親はユキマサのほうを向いて、にこりと笑いかけた。
「ニシナ君。シオンの記憶がなくなったのなら、もうあの子はこの家と関係がなくなったんだ」
それだけ聞けば冷たい言葉だったが、それはウォルコット家からの解放を現していた。
「そもそもウォルコット家が何かする必要はない。他人なんだから。幸せになってくれよ」
罵声がやんだ。ハヤテが妹のほうを見ると、静かに微笑みかけていた。
ユキマサはフェリシアや母親からの反論がないのに気づくと、顔を上げた。
「……わかりました。ありがとうございます」
ユキマサがそう言うと、早く出て行け、というフェリシアの声が浴びせられた。ユキマサは慌てて椅子から立ち上がり、お辞儀をしてその場から立ち去る。
結婚の許可が出たとみていいだろう。ユキマサはウォルコット家から出ると、ため息を漏らしてネクタイを緩めた。
「緊張した……」
ハヤテは疲弊した表情の中に、嬉しそうな感情が宿っているのを見た。ハヤテは彼の姿を見て、人知れず笑った。
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