聖人大作戦
ハユキマコト
聖人大作戦
『総員、状況の報告を』
レトロブームを超えてもはや文明に逆行していると友人連中からさんざんバカにされた古式ワイヤードイヤホンから、その音は聞こえる。
この世界で一番みみざわりのよい声。培養電気羊から精製された生体コットンのような……そんな高級品触ったこともないが、比喩表現だ。とにかくやわらかで穏やかで凛々しい声が、耳孔へとたしかに届く。
届いた音はたしかに鼓膜を震わせ、心へと染みていく。世界でいちばんうつくしい音。
『チーム・アメツチ、準備完了しましたわ』
『チーム・タイニー、決戦兵器設置完了!』
大きく息を吸い込んで、その決意を言葉にする。誰のためでもなく、私のために。
「チーム・イロハ、総員配置完了。いつでもいけます」
地球帝国歴2021年。
私たちは、一世一代の大勝負にうって出ようとしていた。
※※※
超統合政府・地球帝国による世界完全統一から、はや2021年。
それはつまり、私たちから『無償の愛』が奪われて、2021年の時が過ぎたことを意味する。
『あらゆる愛とは、有償で行われるべきである。何故なら、対価こそが責任を産むからだ』……地球帝国の誇る一級大星雲交通技師、かの有名なトーマス・ウェリントンが残した言葉だ。同一級名誉次元間通信技師であるサミー・ブライトマンの言葉だという説もあるが、彼の子孫であるブライトマン3世が実際目の前で否定していたんだから、トーマスの言葉で間違いない。そもそもサミーは『無償派』だったという。おそらく、帝国名誉技師が『無償派』であったという事実を隠蔽するために、このような説が生まれたのだと思う。
話が逸れた。
地球帝国は、世界完全統一後に子細な地球法の発布並びに施行へと至った。その中でも特に重要とされたのが『無償の愛の禁止』だ。ありとあらゆる愛は有償、つまり正当な対価に基づき行われることが求められ、これに伴いありとあらゆる無償奉仕や無償頒布物が禁止された。今世で『ボランティア』等という言葉を発せば、思想警察に囲まれても仕方がないし、幼い子どもであれば大人から強い叱責と罰を受け、一生分のトラウマが生じることだろう。
愛なき者は愛されずに能わず。この世のすべては正当な取引により成立し、それこそが人類の究極到達点、真の平和と平等。愛情の差こそがあらゆる不幸と苦しみを生じさせる以上、それが無償であるなど言語道断、百害あって一利なし。……そのような薄っぺらい言葉はもう聞き飽きた。実際は、当時禁止されていた人材の惑星間流通派遣と聖遺骸の商取引を正当化するためのタテマエにすぎない。
皆、そんなこと当たり前に知っているはずなのに、この国を治める皇帝はこの数千年間、ずうっと『愛』を『取引』として扱うことを強いてきた。
だからこそ、私たちは立ち上がった。
作戦コード『聖人大作戦』。
失われた愛を取り戻すために。誰のためでもなく、私のために。
※※※
「キャロルせんぱい、今日もイカしてますね!」
「あなたも素敵だよ、クリケット」
ミニシルクハットに少し古びたシャツと、サスペンダーに吊られたショートパンツ、燕尾のジャケット。いつもの彼のスタイルだ。
かくいう私も、真っ赤なゴシック・ロリィタの裾をなびかせて、まっしろなフリルで彩られたヘッドドレスが頭から離れていかないよう、しっかりとリボンを結ぶ。メイクはすべて、マレット・ラ・フラミンゴ社の『デパコス』ブランドシリーズを使った。デパコスシリーズは光学迷彩でさえ通り抜ける光子レベルの高発色や、ディスコミュニケーション防止政策における号泣訓練にも耐える耐水性がウリで、本来であればこのような状況には見合わない。しかし、それでも私はこのアイシャドウの赤が一番好きだ。砂糖をたっぷり使ったストロベリータルトと同じ色をしている。
2021年12月6日、今日は特別な日だ。これからもっと特別な日になる。だから、もっと高級で特別な服装をしようとも思ったけれど、特別ならば特別であるほど、身にまとうのは赤と白。やはりあの人と同じ色がいい。
ニコラウス。聖なるサンタクロースの末裔にして、『無償派』のリーダーだ。あの忌々しき
私の初恋の人だ。それ以降誰にも恋はしていない。最初で最後の初恋だ。最初は随分とまあ胡散臭さと怪しさに属性を極振りした男だと思ったが、気づけばいつのまにか、この世界にはこんなにもかなしく澄み切った人間がまだ残っていたんだと驚くようになっていた。
彼のためなら命も、世界もかけられる。死ぬより辛い目にあってもかまわない。きっと少女の恋はいつだってそういうものだ、成層圏の彼方までひとりたどり着けるほどの熱量を秘め、星にさえも手が届くような勇気と、それを悔やまない覚悟をくれる。
それに、私が彼を愛するためには、絶対に『無償の愛』を取り戻さなければならないのだ。
この愛は、取引であってはならない。
そもそも、そんな取引は、最初から成り立たない。
私はこれからチーム・イロハを離れ、単独行動を行うニコラウスと合流する。その間はイージーオーダーのファンネルで凌ぐ……ところで今更ながらこれは、何故ファンネルと呼ばれているのだろうか。旧時代からそうだったらしい、ニコラウス曰くファンネルというのは『漏斗』を意味するらしいが、正100面体のこれはとてもじゃないが漏斗には見えないと思う。
「キャロルせんぱい」
「何?クリケット」
「ぜったい、死なないでくださいね。今だから言いますけど、僕、キャロルせんぱいのこと、ずっと好きだったんです」
「薄々感づいてはいたわ。でも、ごめんね。私には……」
「はい。僕もちょっとだけごめんなさい、こういうシチュエーションで告白するの、あこがれてたんです」
「そうだったの。なら、WIN-WINの関係ということね」
「その通りです」
そういって笑ってから、クリケットは一瞬目を伏せ、何かを決意するようにじっと私を見た。
炎のように青い瞳が疑似天球の夕焼けを反射して、見知らぬ世界のマジックアワーのようだ。
「僕は心の底から、体の髄まで無償派ですが、愛の取引を否定するつもりはありません」
「ええ」
「だから、キャロルせんぱい。もし、あなたの恋が実っても、僕と友達でいてくれますか」
「当たり前じゃない!それに、取引なんかなくても、私たちずっと友達よ」
「ずっと、ってどれぐらい?」
「私があなたを嫌いになって、あなたが私を嫌いになるまで。永遠って意味よ」
クリケットは、私がチーム・イロハに配属された当初から、ずっと仲良くしてくれている。何故、恋なんかのためにその友情をあきらめなければならないのか。何故、私に好意を持ってくれている相手を無下にする必要があろうか。
コンクリート迷彩保全のために設定された強烈なビル風が吹き抜ける中、私たちは握手をした。今時、ドラマのワンシーンにも事足らない陳腐なシチュエーションは、それでも私たちの愛と友情を確かめ合うには十分だった。
それにもう一つ当たり前のことがある。私の恋は、絶対に実らない。
※※※
その数分後。出撃アラームの鳴動とともに、私はファンネルを伴い移動を開始した。
クリケットは私を抱きしめ、無事を祈ってくれた。
迷彩の機能を最大限発揮するため、疑似天球の高度限界スレスレを飛行する。徐々に湾曲する視界の気持ち悪さに耐えるため、できるだけ町を見下ろすことにした。
この高度だと、下層側まで綺麗に見渡せる。事細かで、丁寧で、整った私たちの町。しかし、その片隅では今日も若者たちが非合法片思いの苦痛にあえいでいるのだ。片思い自体は精神の成長プロセスのうち極めて重要なものとして例外保護を受けているが、それはあくまで宣言上のみでの話。その実態は、医療機関による恋煩い証明書の提出と片思い相手からの許諾を必要とする、実質八百長も甚だしいお役所仕様だ。結果として、若者たちは非合法な片思いに手を染めることになっている。
先月も数名の逮捕者が発生し、思想矯正機関へと送られたと聞く。実は私も友人の非合法片思いを幇助したとの事由で一度経験したことがあるが、アレは本当に、生理2日目の体育の授業より最悪だった。有償の愛、その取引がいかに素晴らしいものか、そして無償の愛がいかに危険なものかを説明するビデオを延々見せられるのだ。
いわく無償の愛の禁止によって、ストーカー被害・児童虐待等が激減し、夫婦間のすれ違いによる離婚もほぼゼロに、由緒正しく愛の取引を象徴する婚姻手段である『お見合い』が国家により執り行われ、日本の出生率は激増したと。
だからなんだというのだ。それが私に、何の関係があるんだろう。私は国のために生きているわけじゃないし、世界のために生きているわけじゃない。私のために生きている。誰のためでもなく、私のために。
その時だ。リトル・キャンディの雨が降る。地球帝国軍の汎用精神汚染兵器だ。防衛機構の発動エリアに突入したということは、あと数分で目的地にたどり着く。
あれは本当に甘くとろけるような味で、普通の少女なら一瞬で虜になってしまうだろうけれど、私は違う。私の恋より甘いものなど、この世に存在しないのだ。
『キャロル! 聞こえていますか?』
「ラブ、聞こえてるわ、チーム・アメツチの調子はどう?」
ワイヤードイヤホンから、チーム・アメツチのリーダーであるラブリー=シャンソン、通称ラブの生真面目な声が聞こえた。ラブは元々第八贖罪聖道院に所属する管理栄養士であったが、離反して『無償派』へと加わった。
『チーム・タイニーとの合流が完了しましたわ。市街戦は回避可能と判断、このまま突入を支援いたします!』
「ありがとう! こっちももうすぐ到着よ!」
会話しながら、私は糖度100%のべたつく飛沫を潜り抜け、稀に叩き落し、あ、まずい、喋りながらだったせいで。やっちゃった、地上で中学生ぐらいの女の子の口に流れ弾が! でも、その後隣にいた女の子に何か喋って、二人で抱き合ってる。そっとしておこう。きっと初恋だったのだろう、あの恐ろしい甘さを恋と取り違えるなんて、これから毎日物足りないかもしれないけれど、まあそれはそれで燃え上がるかもしれないし。
そうしている間にも、目的地、地球帝国現皇帝クライストの本拠地である純白のパレスが見えてきた。踏みしだかれる前の新雪のように白く、透明で……ニコラウスの持つ美しさの種類とほんの少し似ている。だから、本来忌むべきであると理解してはいるが、こんな状況じゃなければSNSとかに自撮りを上げたかった。ちょっと残念。
そして、パレス中央の通称『ツリー』、圧倒的な存在感を放つ緑色の塔。国民へのアラートの役割も果たす電飾に彩られたそれは、現在『緊急事態』を示す赤にピカピカ染まっていた。しかし、それはそれとして、アレはただ赤く光るだけだ。国民たちもどうせ「ああ、またなんかトラブルでもあったのかなあ、自分には関係ないけど」ぐらいにしか思わない。こればっかりはビジネスライクな愛情に侵されたことによる弊害……とも言い切れない。古来より、政なんてそんなもんだ。
疑似天球から放たれる明かりと熱エネルギーを取り入れるため、ツリーの頂上には『スター』と呼ばれる星形の空間がある。これは、パレスの中心部へつながる煙突に接続されている。私はそこから突入するというわけだ。
というか、今まさに突入した。
ヒールの底が煙突の内壁に擦れて煙突ギャリギャリ鳴っているが、心配ご無用、少女の足裏はこの程度では傷つかないし、バサバサ埃を増幅させるふわふわのパニエも、この程度の煤は余裕で跳ね返す。
滑り台を滑るみたいに、ジャングルジムから飛び降りるみたいに、あるいは恋に落ちるみたいに、速度計が示す速度は光速にほぼ等しい。光になった私に、煙突の終わりが待ち受ける。暗闇のようにも、星空のようにも見えた。
勇気を出して膝に力を籠め、壁を蹴り、甲型オートクチュール無間式パラソルのスイッチを押した。少女は強いので、そうすれば宙に浮くこともできる。
「やはり来たか、『無償派』」
ダサめ……いや、旧時代的なデザインの、ひびの入った仮面を身に着け、皇帝はそこに鎮座していた。おとぎ話の悪役のような立ちポーズ。空気の流れに乗り、舞い降りる私と対峙する。
皇帝は思ったより小柄だった。そして、勝手に男性だと思い込んでいたのだが、その声からどうやら女性であるらしい。
「こんにちは、はじめまして。皇帝様」
「先ほど、見回りをしていた衛兵が飲食物で懐柔されたと聞いたよ。貴様らの分隊だろう?」
「ふふん。この寒くなる時期、ホットココアやカレーの誘惑に勝てる人間はそう多くなくてよ。辛いのが苦手な方にはちゃんとラッシーも用意しているのだから!」
どうやら、各チームはそれぞれうまく働いているらしい。
チーム・タイニーは、地球帝国時代以前の兵器を入手している。『野外炊具1号』。この国が保有していた軍事兵器の中でも最強の威力を誇る、移動式調理機材だ。そこに、管理栄養士や調理師、保育士等で構成されたチーム・アメツチが、一年ほど前に遺跡より発掘し修理を重ねてきた『キッチン・カー』を率いて合流しているはず。
あたたかい飲食物は、愛を増進させる。あたたかなものを、あたたかなまま食べさせてあげたいという気持ちは、まごうことなき愛の形だからだ。
「ボランティア、炊き出し、無料配布……なんと忌々しい。タダより高いものは無いというのに、そんなことも理解できない国民など、もう必要ない」
「そう。あなた、この国を裏切るのね」
「私に従わないものを、何故私の庇護下に置かねばならない?愛とは取引だ。私を愛さないものを、愛する必要などないのだよ」
皇帝は、腰に携えた剣を抜き、その切っ先を私に向けた。
私もまた、甲型オートクチュール無間式パラソルの代わりに、背中から超小型折り畳み式機関銃を取りだす。
古来より、少女と言えば機関銃と相場が決まっているのだ。
「まあ、待て。お前も同じだろう、血の気の多い少女よ。私は取引をしたいのだ。クソ男の毒牙にかかった者同士、同盟を組まないか」
「クソ男?まさか、あなた……」
「そうだ。私は、かつてあのクソ男、ニコラウスを愛した……しかし、どれほど時間を割いても、どれほど心を尽くしても、あいつが私に応えることは、一度たりともなかった」
薄々、感づいてはいた。皇帝もまた、ニコラウスと同じように数千年の時を過ごす、旧世代を知る者だと聞いていた。この世界に残された不死なるものはただふたり。叙事詩とかなんかそういうやつのセオリーに従えば、それはお互いが『運命の人』であることをフワっと示す伏線なのだろう。
でも。
「あのような苦痛を、絶望を、他の誰かが味わってはならない。だから私は、この国の皇となった時、決めたのだ。愛とは取引であり、有償であるべきだと。互いに決められた分だけ、必要な愛情をやり取りすれば、何不自由ない!だれも苦しまない!」
「あなたと私は違うわ。私、彼の愛なんていらない。でもあの人を愛せなければ、私の世界が終わってしまうの」
私は、改めて『彼女』に銃口を向ける。
「この祈りと痛みがなければ、私は成り立つことができない」
「目を覚ませ!今ならまだ間に合う!」
「報いなんていらない。そんなことよりも、あの人にただ、幸福であって欲しいの……あの人が、私を許してくれる限り!」
そうだ。罪深いのは、ただ私たちのほうなのだ。
ニコラウスは、誰にも恋をしないし、愛さない。いいとか、わるいとかじゃなく、ただそういう風に生まれついただけだ。彼にとって、すべてはただそこにあるだけのもので、別にそれはなんら異常なことじゃなく、普通のことだ。
だから彼に恋をしてしまったと気づいた時、あの寒くて苦しかった冬の日。あざだらけの体で、ずたずたのセーラー服をまとった私は聞いた。あなたに恋をしても許されるかと。
『わしの中に、君の欲しがるものは無い。みな、気づかないだけで、ほんとうのところ最初からすべて、違う形をしておるのだ』
『絶望し、悔やんできた。この世界は地獄だし、ずっと消えてなくなりたい、どれほど君がわしを必要としたとしても』
『君のその恋は、何一つ成しはしないだろう。それでもいいならおいで。家に戻れば、あたたかいスープがある』
ただ、あの言葉と許容だけが、私にいのちをくれたのだ。
だから取り戻さなきゃいけない。無償の愛を。
私を愛さない彼を、愛すための力を。
白銀の切っ先が、機関銃に迫る。
瞬間、一陣の風が吹き抜けた。
花と樹と、柑橘のようなさわやかな香りがした。
「待たせたのう。古来より、サンタクロースは遅れてやってくるものじゃ」
私と皇帝の間に入り込んだのは、
そして砂糖をたっぷり使ったストロベリータルト色の、真っ赤な血に染まった服と、『プレゼント』の詰まった真っ白な袋。
「ニコラウス!」
ああ、名前を呼ぶだけで、こんなにも幸せな気持ちになる。感じうる世界が第六感まですべてよろこびに満ちて、なんだってできちゃうような気がする。どこにもないはずのものがそこにあるように感じる
「貴様、やはり生きていたか!人類の敵め……!」
「こんなまっかっかになっても死ねない体にしたのはどこのどいつじゃ、小娘」
どうやら、外の排除しきれなかった衛兵と一線……いや、数戦交えてきたらしい。
ところどころに傷跡があったであろう跡が見えるが、すでに傷はない。彼の肉体の9割は光速修復が可能な形状記憶細胞に置き換わっている。血は出るし痛いと話してはいたが、それはそれとして実質、難儀なことに、不死身みたいなものだ。古来、聖人は赤い服を着て、プレゼントの詰まった白く大きな袋を背負っていたらしいから、実質それに倣っている。
「クッ……この、聖人め……!」
「貴様らが勝手にそう呼んだだけじゃろう。わしはただ死ななくて、ちょっと強くて、あとサンタクロースの末裔なだけじゃ」
「最後だよ最後!それを古来から聖人っつーんだよボケてんのか!」
「言われてみるとそろそろボケてるかもしれんが。不安になってきた。同い年だよね?お前もそろそろボケてきてない?」
「茶化すな……こういう、なんか……こういうのは、シリアスにいくところだろうが……!」
そうやって目の前で急になかよしコントみたいなことをされるとちょっと嫉妬するし傷つくからやめてほしい、という感情をこめて、ニコラウスの背中をパラソルで強めにどついた。伝わったかはわからないが、彼はこちらを振り向き頷く。
「というわけでな。いい加減、もうやめよう、クライスト。恨むならわしだけにせい、取引たる愛など、最早時代にそぐわぬものとなっておるのだよ」
「……お前に何がわかる、この……」
「何もわからん。誰かに恋をすることなど」
ニコラウスは、私にも後をついてくるよう促しながら、皇帝へと一歩一歩近づく。踏み出すたびに、黒いブーツがカツン、カツン、と音を鳴らす。
皇帝には、もう聞こえないのだろうか、この甘美な響きが。きっと私たち、一度は同じ少女であったはずなのに。
吐息の体温が、ゆらめいた指先が、すべてこんなにも、世界をバラ色に変えるのに。あなたがそこにいて、生きているだけで、私の日々は輝かしいものになる。
「でもなあ、恋をしないというのは、なにひとつ気に入らないというのとは違う。ふと何かを気にかけた時、常に理由や、価値や、かたちを求められるなどというのは、間違えていると思うのだよ」
その言葉が合図だったかのように、皇帝の仮面の隙間から、だばだばと液体があふれ始めた。
涙だ。そして、ボカボカと何度かニコラウスを殴りつけているのが見えるが、皇帝は想像以上に非力なようで、あのニコラウスのひょろひょろした体さえ倒すことは叶わないようだった。
「外は、『無償派』の構成員が包囲している。じゃが、それはなにもお主を捕まえに来たわけではない。国民もみな、お主を心配していた。この2021年間ずっと」
そうして、ニコラウス……最後のサンタクロースは、袋からプレゼントを取り出す。四角い箱にきらびやかなリボン、紙で作られたポインセチアをはりつけて、包装紙は雪だるま柄。
「メリークリスマス。町へ出かけよう、クライスト」
『聖人大作戦』。この作戦の主目的は、果たされた。
包囲網を突破し、衛兵をかく乱。そして、2021年間、この『パレス』での孤独な生活を貫き続けた皇帝に、クリスマスプレゼントを贈ること。
その目の前で、2021年前に失われ、それでも生活の中に息づいていた『無償の愛』を取り戻すこと。届けること。
それを一番必要としているはずのあの子へと。
※※※
その後、チーム・イロハのその他構成員が無事到着。
政治的な面は私もニコラウスもほぼサッパリなもんだから、こじらせないようにと現場を追い出された。
これから何がどうなるのかはわからないけど、少なくとも悪いことにはならなそうだ。
「だからね、私、ニコラウスに生きててほしいだけなの」
「そうか。随分と、残酷なことを言う」
「でも、できれば、一秒一秒が甘いキャンディを食べた時みたいに、毎日がショートケーキの最後のいちごみたいに、輝いていてほしいわ」
「なんと欲深いことじゃ」
そうだ。ずっと知ってる。最初からこの恋は叶わない。
外側だけがあまりに丁寧に、まるでかみさまみたいに美しくて、喋るのがやたらと上手なもんだから、みんなが彼を信じて、すべてを託したのも無理はない。しかし、ほんとうのところニコラウスは誰のことも愛してないし、すぐ死にたいとか言うし、めちゃくちゃ性格悪いし、オンボロで毛の生えた心臓で、だけど私の最初で最後の初恋の人だ。だいすきな人だ。
だからずっと決めていた、こんな味気ない戦いは、最初から他の誰でもない、全部私のため。
「それでも私、あなたが生きてゆくために、生きていたい。だからまだ、生きていて」
私の決死の告白なんて、相対的に見た時、ニコラウスの言葉を借りれば多分、理由も価値もかたちもない。
それでいい。それがいい、何ひとつ変わらなくて、時間に連なる日々がただただ続くだけ。
それでもこの一歩は大いなる一歩で、私にとっては一世一代の大勝負で、誰にも負けない美しい瞬間で、
「そうかあ。じゃあ、帰って、あったかいミルクスープでも作ろうかのう」
へら、と曖昧に笑ったその顔を見られただけで、この無為な恋には、宇宙をかけてもかなわない、一生分の価値があるの。
「どうしてミルクスープなの?あなた、コンソメスープのほうが好きでしょう」
「ミルクスープは平和の象徴なんじゃよ」
「また私の知らない話だ。教えて」
「スープが煮える間にな」
そうして歩き出す、赤に染まった私たちを、疑似天球の星座が照らす。
だから私は、私のことなんて全然気にしてないのに、私に歩幅を合わせてくれるあなたが好き。
なにひとつ返ってこなくても、いつかあなたが私を拒絶しても、この世界がどれほど深い地獄でも、ただあなたの笑顔が悲しみよりずっと多いって、保証されていてほしい。
この愛をもってして、あなたのしあわせを祈りたいのだ。
誰のためでもなく、私のために。
聖人大作戦 ハユキマコト @hayukimakoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます