002 逃走劇の果てには

「ヤーダ、ヤーダーッ!」


 うわっぷ、なんておてんばなんだ!


 レナは自分に掛けられていた白いシーツを俺めがけて投げてきたのだ。

 シーツは俺の目の前で広がり、ぶわっと俺に覆いかぶさってきた。


 ちょっと、前が、前が見えない!

 俺には目玉は無いけどちゃんと視覚はある。今はそれが白一色に染まってしまっている。


 絡みつく白い布から脱出しようと悪戦苦闘している俺の聴覚に、幼子が走る音と扉が開かれる音が入ってきた。


 あ、待つんだレナ! どこに行くんだ!


 俺は急いでシーツから脱出すると、ぽよぽよと体を跳ねさせながら彼女の後を追いかける。

 今レナは周りが見えていないに違いない。小さな子供にはありがちな事なのだが、そんな状態で駆け出すのは危険だ。


 俺は部屋の入口扉の隙間をくぐり部屋の外に出る。

 扉が完全にしまっていたらアウトだったが、開けっ放しでよかった。


 扉の先、左右に伸びている廊下が俺を出迎えた。

 右か左か、レナはどっちに行ったんだろうか。


「びえぇぇぇぇぇ!」


 姿は見失ったが彼女の行き先が分からなくなったわけでは無い。

 相当大きな声で泣きながら駆けているらしく、そちらの方向を目指せばいいわけだ。


 俺は必死に走る。

 走るという言葉を使ったが、先ほどと同じように体をぽよぽよ跳ねさせて進んでいる。

 バスケットボール大の不定形球体がひとりでに跳ねているようなものなので、はたから見れば必死に走っているとは見えないだろう。


 それでも必死に追いかけて行き、階段を降りて階下へ。また廊下をひた走り、今度は建物の外へ。


 それにしても、あのおてんばさんは一体どこまで行く気なんだ。

 声はすれども一向にその音源には近づけている気がしない。

 子供なので素早いのだ。


 建物の外へと出てからしばらくすると、あの大きかった泣き声が急に悲鳴に変わった。


「ヤダヤダヤダーッ! 来ないでっ!」


 直感的にこれはヤバイ事が起こっていると感じる。

 俺は追跡のギアをさらに上げ、音源の元へと急ぐ。


 建物の角を曲がった所で、ようやくレナの姿を視認することが出来た。


 尻もちをついて怯えているレナ。

 そしてその前には彼女の倍の大きさがあろうかという一匹の狼の姿があった。


 口に生えた何本もの鋭い牙からは唾液がしたたり落ちており、ぐるぐると喉を鳴らしている。

 目の前の小さな獲物を今まさに襲い噛み千切らんとしているそれは、Eランクのグロリア、グレイウルフだ!


「ヤダヤダヤダーッ!」


 パニックに陥っているレナ。

 ヤダヤダと泣き叫ぶばかりで逃げようとしない。

 このままではすぐにでもグレイウルフの餌食になってしまう。

 俺が行くまでなんとか!


 ……あれは契約者マスターのいない、はぐれグロリアなんだろうか、とか、そもそもはぐれグロリアが街中に顕現することなんて稀だろとか、そんなことは頭の片隅でうごめく些細なことだ。


 問題は、EランクのグレイウルフにFランクであるスライムが勝てるのかという事だ。

 EランクとFランク。たった一つランクが違うだけでその強さは桁違いとなるからだ。


 ええい、考えていても仕方ない!

 なるようになりやがれ!


 怯えるレナに向かって飛び掛かるグレイウルフ。

 俺はその鼻っ柱に体当たりをぶちかました。


 グレイウルフとレナの間にうまく着地する俺。

 何とかレナの元に間に合った形だ。


 さあ、俺が来たからにはレナには指一本触れさせないからな!


 俺は体を震わせて威嚇する。

 

「……ぷにぷに?」


 悲鳴を上げて目をつむっていたレナだったが、何も起こらないことに疑問をもって目を開けたのだろう。そして俺の姿を見た、というわけだ。


 とにかくレナにはここから逃げてもらわなければ。

 グレイウルフとスライムでは相手にならない。先ほどの一撃もほとんどダメージは与えていない。

 俺にできる事と言えば、時間を稼ぐのが関の山だ。


 俺は早く逃げろと体を振ってレナに逃走を促す。

 だがレナはその意図には気づいてくれない。

 そりゃそうだ。ただスライムが体を揺らしているだけなんだ。

 言葉が通じないのがこんなに辛いなんて。


 後ろを気にしている俺にグレイウルフの爪が迫る。

 向こうはこちらの都合などお構いなしだ。


 俺は体の振りの反動を利用してその一撃を回避する。


 が……


 くっそ、当たっちまった!

 

 素早い一撃は俺をかすめ、体の一部を削り取っていった。

 俺の体から分離した緑色の元俺の体は、地面に落ちると立体感を失い水たまりのようになってしまった。


 グルルルル、と喉を鳴らしながら俺をにらむグレイウルフ。


 俺が一撃与えたことでグレイウルフの注意がレナから俺に向いたのはいいけど……これはそう長く持ちこたえられそうもない。

 だけど悲観的な事ばかりでもない。

 この場所は建物からそんなに離れておらずレナの悲鳴も響き渡っていたため、じきに先生たちが探しに来てくれるだろう。


 その時間を稼ぐため、あとは俺が命を捨てる覚悟をするだけだ。

 いや、すでに覚悟はできている。


 どうせ俺はじきに消えてしまうのだ。

 そんな命で小さな子供の命を、レナの命を守ることができるのだ。

 大人の俺がここで命を賭けない理由はない!

 最後くらいは華々しく散ってやるぞ!


 俺は目の前の化け物をじっと見据える。

 防御に回っても仕方がない。ここは攻撃あるのみだ。


 俺はグレイウルフの周囲を高速で回りだす。

 俺の全力スピードだ。誰も文句は言わせない。

 グレイウルフにとってはただの揺れているねこじゃらし程度のスピードかもしれない。

 だがな、ねこじゃらしを甘く見るなよ。


 俺はグレイウルフの後方から勢いよく体当たりを繰り出す。

 

 ザクリと俺の体に爪痕が刻まれる。

 痛みは無いのだが、俺の体はまたもや大きく削られてしまった。


 とはいえ他に攻撃方法はない。

 俺はただのFランクグロリアのスライム。炎を吐けたりはしないのだ。


 死に物狂いで体当たりを続けるが、ことごとく爪で迎撃されて……今や俺の体は半分ほどの大きさになっていた。


 ダメだ。このままじゃ助けが来るまでの時間も稼げない。

 俺の動きはグレイウルフよりも遅く、唯一の攻撃方法である体当たりも爪に阻まれてしまい当たる気配もない。

 それに、もし当たったとしてもゲル状のこの体では大したダメージを与えることは出来ない。先ほど鼻っ柱への会心の一撃がそれを証明していた。


 くそっ、ぽよぽよでぷにぷにのゲル状のこの体が憎い。


 ゲル状の……この体……。

 辺りに散らばる緑色の液体を見ながら俺は閃いてしまった。

 この方法なら格上のグレイウルフにも通用するのではないかと。


 ええい、死なばもろともだ!

 

 俺が勢いをつけてグレイウルフへと飛び掛かると、これまで通り俺を迎撃しようと鋭い爪が迫ってくる。


 だが今回は俺はこれを甘んじて受け入れる。

 防御するどころか、まるで的を大きくするかのように球体だった体を平べったく大きく伸ばして無防備で……。


 爪が俺の体をえぐり取った。

 だがそれだけだ。


 俺のすべてを叩き落すことは出来なかったな!


 平べったく伸ばした体は格好の的であり、爪の一撃は俺の真ん中を的確にえぐった。だがえぐられた部分はほんの一部に過ぎない。

 表面積を増やしたおかげで犠牲になる部分を減らすことができたのだ。


 そしてそれだけじゃないぞ! 


 まるで袋をかぶせるかのように、俺は広げた体のままグレイウルフの顔におっかぶさった。


 グレイウルフは顔から俺をはがそうと首をブンブンと振ったり、顔を地面にこすりつけたり必死になる。

 それもそうだ。俺はグレイウルフの顔全体を覆ってしまっている。

 それはグレイウルフに酸素がいきわたらない事を意味していた。


 両前足の爪が俺をひっかいている。

 そのたびに俺の体は削られて体積を減らしていく。

 俺の体がなくなるのが先か、お前が窒息するのが先か。

 ガチンコ勝負だ、負けるかよ!


 俺への攻撃が激しさを増す。

 つまりそれは激しく酸素を消耗しているという事であって……。

 徐々にグレイウルフの動きが弱まっていく。


 そして……グレイウルフは力なく地面に倒れこんだ。


 なんとか、勝った、のだ……。


 俺の視界がブラックアウトしていく。

 激しい戦いを制したとはいえ、俺の体もほとんどが失われている。

 痛みは無いとはいえ、それは生命活動を続けることができることとはイコールではないのだ。


 遠目に、先生たちがこちらに向かってくる姿が見えた。


 よかった、俺はレナを守ることが出来たのだ。

 レナが何かを言っているようだが、もうすでに俺には聞き取ることが出来ない。

 そしてそこで俺の意識は途切れたのだった。

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