第34話 少女は天使とともに
駅前に到着した彼女は肩で息をしながら、次の行き先を考える。
……一旦家に帰ったとか?
可能性は低いと思うが、と心の中で前置きしつつ、伊予は駅から
――やっぱり、普段から運動していないと、体力落ちるわね。
バスケ部に入っていた中学の頃ならこれくらい走っても余裕だったのに、と内心で舌打ちし(ちなみに今の彼女の高校での部活は、映画研究部である)、それでも彼女は速度を緩めずに走り続ける。
伊予が四月生まれで、界斗が七月生まれ。
界斗が生まれたとき、伊予は三歳だった。
父の
「伊予は今日からお姉ちゃんになるんだぞ」
病院に向かう車の中で、正和がそんな風なことを言った。伊予は本当は「お姉ちゃんになる」というのがどういうことかよく分かっていなかったけど、「うん!」と元気よく答えた。
そんなかたちのはっきりとしない雲みたいなふわふわとした感じを抱きながら、正和の開けた扉を通って、母の
「弟」を初めて見たときは、何というか、「なにこれ」という気持ちだった。やたらと小さかったし、ちょっと叩いたら壊れちゃいそうだったし……。
だけど、自然と「私が守ってあげないと」という気持ちが芽生えた。「不思議と」なんて言葉を必要としないほどに、その感情の芽吹きは自然だった。高校生になった今思えば、それが
弟の界斗を守るのに「○○だから」とか、そんな理由は必要なくて、だけどそんなことを中学生や高校生にもなって周りに話したら、「ブラコン」とか馬鹿にする奴が出てくるだろう。自分がそういう白い目で見られるだけならまだ我慢できるけれど、弟の界斗まで「お前の姉ちゃん、ブラコンなんだろ」とか
今でも界斗とどれくらいの距離感で接すればいいのか分からない。
ベタベタし過ぎたら、周りから距離を置かれるかもしれないし、何より界斗から「姉ちゃんベタベタし過ぎ」なんて言われた日には
かと言って距離を置き過ぎたら、界斗に「姉ちゃん、自分のこと嫌いなんじゃ……」と思われてしまうかもしれない。
結局彼女が現状選択しているのは、「ベタベタしつつイジる」というものだった。
この方法なら周りから「ブラコン」と思われることはないと彼女は考えて実行しているのだが、彼女自身「イジる」という行為が愛情の裏返しだということを分かっておらず、つまり周りから見れば伊予の努力虚しく、彼女は「ブラコン」と思われているのである。
しかし、伊予の努力が全く無駄かと言えば、そうではない。
少なくとも目に見えてベタベタはしていないので、
「……ほんと、どこで何やってるのよ、……バカ界斗」
彼女と彼の住む家――赤い屋根の二階建ての一軒家がようやく道の先に見えた。
玄関前の横のスペースに界斗の自転車は見当たらない。どうやら家にはいないようだ。
だが、一旦帰ってきてまた出かけた可能性もある。
伊予は玄関扉を開けて、家の中に入った。
扉をノックすると、女性の声で返事があった。
伊予の心臓が驚きで少し
「
その声に答えるように扉は内向きに開かれ、天使が姿を見せる。首周りがゆったりとした黒のシルクのネグリジェを身に着け、流れるような白髪は夜空に
彼女はなぜか手に丸い輪っかを持っていた。輪っかは陽の光みたいな穏やかな温かみのある光を放っている。
輪っかを握るその姿が何だかおかしくて、伊予はさっきまでの緊張感を忘れ、
「なにそれ」
と苦笑しながら尋ねる。
「……あ、」
見られたらまずいものだったのか、彼女はその輪っかをさっと背中に隠し、けれど直後、別にみられても問題ないと思い直したのか、彼女は輪っかを背中から体の前に持ってきて、そのまま頭の上にひょいと掲げ、
「天使の輪っか」
伊予は彼女の返答にどう答えたものかと思い、
「……天使のコスプレ?」
伊予の言葉を聞いた彼女はガックリと肩を落とし、目に見えて落ち込んでいた。
――と、彼女には悪いが、伊予はここに来た本来の目的を果たすため、問いを投げかける。
「界斗のこと知らない? 昼に帰ってきた?」
「いいや、私は朝から家にずっといたが、界斗は朝出掛けたきり帰ってきていない」
「そう……」
界斗が他に行きそうな場所について考えを巡らせていた伊予に、天使が問う。
「何かあったのか」
「うん、午後から私の知り合いの家で界斗と会う約束をしてたんだけど、あいつ姿を見せてなくて……。それでひょっとしたら家にいるかもと思って様子を見に来たんだけど、ここじゃなかったみたいね」
もう一度界斗に電話を掛けてみるが……やはり
「杏ちゃん、ありがとう。もし界斗が帰ってきたら連絡もらえる?」
天使に別れを告げて身を
「私も
ありがたい申し出だった。人手は多いほうがいい。
「ありがとう。……でも、まずはその恰好をどうにかしないとね」
ネグリジェのままで出掛けようとする天使にそう告げて、着替え終わった彼女とともに家を後にした伊予は、自身の母校でもある
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