第14話 ベッドの上の天使

 夜もけ、ただいま深夜十一時。

 場所は界斗かいとの自室。

「界斗はこっちで寝ないのか」

 昨日まで界斗が寝ていたベッドに、天使が横になっていた。

 それだけ聞くと彼の脳が見せる幻想のように思えてしまうかもしれないが、彼にとっては誠に遺憾いかんなことに、天使が彼のベッドで寝ているのはまぎれもない現実だった。

 ちなみに、界斗は押し入れに眠っていた敷布団しきぶとんを床に敷いて、その上で横になっていた。

「いいから寝ろ。明日は朝から服を買いに行くんだろ」

 明日は土曜日。いつもであれば午前か午後にバド部の練習が入るのだが、明日はバスケ部が練習試合で体育館を使用するらしく、バド部の練習は日曜日の午前中の予定になっていた。

 手荷物ゼロでこの世界に降り立った天使は当然ながら着替えの服など持っておらず、純白のローブ一着でこの三日間を過ごしていたらしい。本人曰く「このローブには清浄の祝福がかけられており、大抵の汚れは自然に浄化されるため、これ一着で十分。着替える必要はない」とのことで、「何だよ、そのトンデモローブは」と驚き半分呆れ半分の界斗だったが、日本でローブを着て歩く人間などまれだし、色も純白と目立つ。衣食住の「食」と「住」は手に入れたし、あとは早々に「衣」を確保しようと思い、天使の服を買いに行くことにした。しかし、女の子の服なんて界斗にはさっぱりだったため、背に腹は代えられぬと伊予いよに相談したところ「りょーかい」と二つ返事でオーケーをもらえた。……そのときに伊予が見せた、意地の悪い笑みは見なかったことにした。

「それにしても、界斗の家族はいい人ばかりだな」

 それは何も衣食住を快く提供してくれることだけに対して放たれた言葉ではないのだろう。

 界斗自身も驚いていた。

 ――まさか、三人ともが天使側の人間だったとは。

 しかも全員が天使度80%を超えていた。普段は界斗に対して意地悪なことばかり言っている伊予でさえもだ。

 彼女の言った「いい人」というのは、そういったことも含めて言っているのに違いない。

「天使度が八割を超えているのって、中々に珍しいんだろ」

「そうだな。私のいた世界での話にはなるが、私が率いていた天使軍のなかで天使度が八割を超えていた者は全体の一割にも満たなかった。この世界で過ごした三日間を振り返ってみても、天使度が八割を超えていた人間を一人、二人見かけたといったくらいだ」

「そういえば、天使度や悪魔度ってどうやって決まるんだ。何も生まれたときから決まっていて以後一切変化しないってことはないんだろ、これから悪魔と数を競うって言ってるくらいだし」

 もし生涯にわたって天使度や悪魔度が変わらないのであれば、戦う前から勝負はついていることになる。そんな馬鹿げたものは勝負とは呼べないだろう。

「そのあたりのことを話していなかったな。《》を貸したときにかれると思っていたのだが」

 彼女にはそんなつもりは全くないのだろうが、先ほどまで伊予にいじられまくっていたせいもあってか、どうにも彼女の言葉にあらぬとげを感じてしまう界斗であった。

「天使度や悪魔度はもちろん変わる。何に影響を受けて変わるのかと言えば、それはひとえに、日頃の行いだ」

「日頃の行い? ……聞いてもあんまりピンとこないな」

「そうだな、何と説明したらいいのか……。すごく簡単に言えば、善行で天使度が上がり、悪行で悪魔度が上がるということなのだけれど……。例えば川でおぼれている子猫を見かけたとしよう。その子猫を助けようとするのが善行で、見てみなかった振りをしてその場から立ち去るのが悪行ということになる。私のような天使や馬鹿悪魔から見れば、そこまで分かりやすいものだけでなく全ての行動を善行か悪行かに分けてることができるのだけれど、普段からそういう見方をしていない者にとっては多くの行いがグレーゾーンに映るのかもしれない」

 天使がベッドの上でもぞもぞと体を動かす音がした。暗くてよく見えないが、声の聞こえ方からしておそらく彼女は今、床にいる界斗のほうへと体を向けたのだろう。

「天使度と悪魔度は一日ごと――この世界だと二十四時間ごとに更新される。ちょうど深夜零時に。……あと一時間もしないうちに、個々人がこれまで生きてきたすべての時間に行った善行と悪行を反映して、日本国民すべての天使度と悪魔度が変化するってわけ」

 まだ完全に理解できたとは思えないが、日頃の行いに応じて毎日天使度と悪魔度が変化するというのは分かった。

 だが、もしそうなら納得できないことが界斗にはあった。

「なんで姉貴の天使度が八割を超えてるんだよ。ことあるごとに僕のことディスってくるし、……まさかあれが悪行じゃないなんてことはないだろ」

 正和まさかず順子じゅんこがこれまで善行を積み重ねてきた人間であることは見ていて何となく分かる。

 だが、伊予に関してはどうだ。

 やたらと界斗のことを馬鹿にしたりからかったりしてくる。あれが善行だと言うのなら、界斗は迷わず「お前の目は節穴か!」と叫んでいただろう。

「確かにあれは悪行だ。だけれど、悪行にもレベルがあって、伊予のあれは悪行の中では一番レベルの低いものに分類される」

 天使の言うことは分かる。

 殺人、強盗、傷害などもっとひどい悪行はいくらでもある。からかって人を傷つけるなど、それらに比べたら些細ささいな悪行だろう。

「それに、」と天使は言葉を続ける。

「悪行のレベルというのは何も表面的な行いだけで決まるものではない。その行為をどんな思いで行ったのかも含めてのレベルになる。伊予の場合だと悪意はほとんど視えず、むしろ界斗に対する愛情が色濃く視えた」

 は? 愛情だって?

「それゆえに悪行のレベルは最低レベルということになる。もし明確な悪意を持って同じことをしていたら、レベルはもう二段階ほど上がっていたに違いない」

「おい待て、意味が分からん。姉貴のあれが愛情? いやいやどう考えてもおかしいだろ」

「いいや、何もおかしいことはないだろう。確かにやり方には多少の問題があるかもしれないが、どう視てもあれは愛情表現だった。伊予はお前のことを愛しく思っていたぞ」

 驚きのあまり完全に思考停止した界斗をフォローするように、しばらくしてから天使は口を開く。

「まあ、レベルが低いとは言え、悪行は悪行だ。界斗の話を聞くに、あれを毎日何度もしているとなれば、ちりも積もれば山となって天使度は中々に減るだろう」

「だ、だろ?」

「けれど、何もお前の見る伊予が彼女のすべてではないだろう? おそらく伊予はお前の見ていないところで多くの善行を積み重ねているのだと思う。そうでなければ天使度が八割を超えることなんてあり得ない」

 いつも意地悪な顔をして界斗のことを馬鹿にしてくる伊予。彼女が善行を積んでいる姿をうまく想像できない界斗だったが、天使の言うように界斗の目に映る伊予がすべてではない。むしろ時間にすれば界斗と伊予は別々でいるときのほうが長い。界斗は伊予が高校でどんな風に過ごしているのか知らないし、界斗がいないときに両親とどんな話をしているのかも見当がつかない。

 結局のところ、姉弟きょうだいの関係でさえ相手のことを全て知るのは不可能だということなのだろうか。どこかで妥協だきょうして、相手をカテゴライズして、そうして生きていくしかないのだろうか。

 それは何だかとてもさびしいことのように界斗には思えた。

「……人間が一生のうちにできることなんて、たかが知れてるってことか」

 数千年も生きている天使が界斗のつぶやきをどう受け取ったのか、正確なところは分からない。

 彼女はかすかな吐息を漏らし、身じろぎをしてから、

「そのことに今気づけただけでも上出来だ」

 と賞賛とも皮肉ともとれることを言った。

 それからしばらくして、ベッドの上から規則的な寝息が聞こえ始めた。

「おやすみ」

 界斗はぽつりと呟き、彼の意識は深い眠りの底へと沈んでいく。

 微睡まどろむ意識の外から「おやすみ」と小さな声が返ってきたような気がした。

 彼はその声に夢の中でうなづき、色とりどりの帆船はんせん揺蕩たゆたう海の上をゆったりと泳ぎ続けた。

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