第8話 天使はエンゼルクリームを喰らう

「……ありがとう」

 彼女はポツリと呟き、小さな口でドーナツをかじり始めた。

 始めはゆっくりと、そして途中から激しく、彼女はドーナツを食していく。

 半分ほど食べたところで彼女は一度唇をドーナツから離すと、顔を少し上げて界斗かいとのほうを上目遣いに見る。先ほどまでとは違って少し血の気を取り戻した彼女の顔は、この世のものとは思えないほど綺麗で、同時にはかなくもあった。

「……これは?」

 彼女の言葉で我に返った彼は、彼女の顔に見惚みとれていた自分に気づき、途端に恥ずかしくなって目をらした。

「…………これは、何て言う、食べ物だ?」

 言葉足らずだったのではと勘違いした彼女がそう問い直す。

 ドーナツを知らないなんて、本当に人間じゃないみたいじゃないか――なんて思いながら、界斗は答えを口にする。

「ドーナツっていう食べ物。特にそれはエンゼルクリームって名前で呼ばれてる」

 何を思ったのか、彼女は食べかけのエンゼルクリームをじっと見つめて、

「エンゼル……天使」

 と小さな声で言った。

 かと思うと、先ほどまでよりも少し大きく口を開けて、エンゼルクリームにかじりつく。

 勢いよく食いついたことによって飛び出した白いクリームが彼女の唇の端につき、その様子は彼女を子どもっぽい風に見せていた。

 あっという間に残りを食べ終えた彼女は、ふぅと一息ついて、ピンク色の舌で口の周りについていた白いクリームをめとる。

 彼女はチラチラと界斗の手元にうかがうような視線を向けてくる。

「……いるか?」

 彼はため息交じりにそう言って、家族の分として買っておいたドーナツたちが入っている袋の中身を彼女に見えるように差し出した。彼がドーナツを買ったことは家族の誰も知らないし、目の前で物欲しそうな顔をする少女にあげても誰にも文句は言われない。

「……いいのか?」

 それに、そんな目で見つめられては断れるはずもない。

「ああ、全部食べていいぞ」

 聞くが早いか、少女は陶器のように白い手を袋に突っ込んで、全部で三つ入っていたドーナツをせっせとすべて取り出すと、自らの太ももの上に置こうとした。

「ちょっと、そんなところに置いたら、服が汚れるってば」

 界斗は慌てて彼女の行動を止めにかかる。

 箱に入っているドーナツポップはまだしも、ダブルチョコレートが彼女の太ももを覆う純白のローブを黒く汚してしまうことは火を見るよりも明らかだ。

「……すまない」

 しょんぼりする彼女に、先ほどまでドーナツの入っていた袋を預け、三つの内二つのドーナツを中に戻させる。今の彼女の手に残っているのはドーナツポップだ。

「ゆっくり食べて構わないから。僕もドーナツも、君が食べ終えるまでここにいるから」

 そう告げると、彼女は小さく頷き、ゆっくりとドーナツポップを食べ始めた。

 歳は近い印象だったけど、どうにも見ていると振る舞いがかなり幼く感じられた。いや、幼いというよりも、単に常識を知らないというか……。

 少女の頭上に浮かぶリング状の物体は依然として明滅しており、彼女がただの人間ではないことを象徴していた。けれど、界斗の胸の内ではそんな突拍子とっぴょうしもない考えを受け入れまいとする彼もいた。――いやいや、実はあのリングは最先端の科学技術が詰め込まれた代物で、単に彼がその存在を知らないだけなのだと。

 ……考えてもらちが明かないか。

 目の前の少女については、本人に直接確認すればいい。

「君の名前は? どこから来たの?」

 とりあえず目の前の少女は人間であるという風に考えて、質問を放ってみた。

「……名前?」 

 少女はコテンと首を傾げた。

「そう、名前。……覚えてない?」

 彼女は首を横に振る。どうやら覚えていないというわけではないらしい。だったらどうして不思議そうな顔をしているのだろうと界斗が思っていると、

「名前はない」

 あっさりとした調子でそんな答えが返ってきた。

 名前がない?

 嫌な想像が頭をもたげながらも、界斗は何とかして口を開く。

「えーっと、それはつまり、……親に名前をつけてもらってないってこと、か」

 彼女は再び首を横に振って、

「天使に、名前はそもそもない」

 ……天使、ね。

 薄々その単語が頭に浮かんでいた界斗だったが、実際に本人からその言葉を聞いたところで素直に「はいそうですか」と飲み込めるはずもなかった。純白に輝く髪や深紅の瞳などは、界斗が知らないだけでどこかの国の外国人はそんな見た目をしているのかもしれないし、そう考えると少女の見た目は間違いなく人間だと言える。

 そう、それだけなら、界斗も「天使とか、ふざけるのも大概にしろよ」と彼女の言葉を一蹴いっしゅうし、疑問の余地はなかっただろう。

 ただ、頭ではそう考えていても、先ほどから目について離れない、彼女の頭上に浮かぶ「それ」が、彼女の正体を裏付けていると彼の心の声は主張していた。

 俗にいう「天使の輪っか」。

 アニメやドラマで用いられる天使の象徴。

 さっきは最先端の科学技術がどうたらと言って頭の中で言い訳を探していた界斗だったが、彼の直観はそれが人工物を超越したものであると訴えていた。

 太陽を宿したみたいに、その光は穏やかでいて力強い。

 どうして彼の知っている天使の輪っかがそのまま同じような形で顕現けんげんしているのかは分からないが、その理由について今とやかく考えているひまもないし、そうそう答えが出るものでもなさそうに思えた。

 目の前の少女が本当に天使なのかどうかなど頭に浮かぶ疑問は色々あったが、一旦それらの答え合わせが困難な疑問は棚上げにして、界斗はこれからの行動を決めるための質問だけをすることにした。

「その、……天使さんは、どうしてこんなところで行き倒れていたんだ?」

「さんはいらない。天使って呼んで。もし天使っていうのが呼びにくいなら、好きに呼んでもらって構わない。――ここで行き倒れていたのは、飛ばされてから三日三晩何も食べ物にありつけずエネルギーが底をつきかけていたときに、どうしても力を使わないといけない用事があって、それでついさっき力を使って、エネルギーを使い果たしたから」

「飛ばされてって言うのは?」

 その質問に対し、天使は一呼吸置いてから答える。

「信じられないかもしれないけれど、私は別の世界からやって来た」

 さっき政也と深夜アニメについて話したばかりで、確かに異世界転生なんてジャンルは最近の流行ではあるが、それらは所詮しょせん物語で、界斗も異世界なんてものが存在するとはつゆほども考えていなかった。――そう、このときまでは。

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