『手配された男』WANTED

N(えぬ)

偶然はどんなことにでも起きる。それが凶悪だとしても

 停留所のバス待ちの列は例の病気の影響で以前より人同士の空間が空いて長めになっている。その列には10人ほど並んでいたが、真ん中辺りに少し引き締まった顔の男が並んでいた。彼は鞄も何も持っていなくて、仕事で移動するセールスマンには見えないし、かといって家庭人として買い物に行くような雰囲気も持っていない。見るからに自分の意思で仕事動かし、仕事を家庭に持ち込まないルールを強く自分に課しているタイプだった。そんな彼が、効率が悪そうなバスでの移動を選択しているのは、何か理由があったのは間違いない。


 この路線バスは、朝の通勤時間を過ぎ昼との中間地点の今は混み合っていなかった。よく晴れた穏やかな、いつもの午後で、バス運転手が仕事の規律を守って少し緊張している以外は、乗客は大方ゆったりとバスの揺れに身を任せられる余裕のある人たちだった。それは本当なら今日も変わらず同じようになるはずだった。


 バスが停留所に止まり乗車用の前ドアが開いた。比較的年齢の高い行列の中に20代後半の男がバス待ちの人々の最後に並んでいた。この若い男がバスに乗ったときには空いていた席も先客が座りちょうど満席になっていた。男は乗車口のステップのところで止まり、普通の客ならここで乗車料金を払うなり定期券を読み取り機にかざすなりするところだが、この男は足を止めたままバスの乗客を手前から奥まで探るように目を這わせていた。男は短めに刈った髪にジャンパーにジーンズ、左肩にリュックを背負って右手をジャンパーのポケットに深く入れていた。見た限りではどこにでもいそうな青年の顔は少し青ざめて、うっすらと汗を掻き、体全体がわずかに震えているようだった。でもそれは、別に、乗客の中に自分と同世代の人間が一人も見いだせないことに困惑して生じているわけではなさそうだった。


「どうしましたか?」

 バスの運転士が、こもった聞き取りにくい声でこの不本意な挙動の男に声を掛けた。運転士は若い男をバスに乗り慣れない人と思ったかもしれないが、その見当は今回はハズレていた。声を掛けられた若い男はバスの奥に向けていた顔を運転士に向けた。そしてジャンパーのポケットから右手をサッと抜き、運転士の方へ差し出した。男の右手には回転式の拳銃が握られていた。その銃口は今、運転士の顔に向いている。


「騒ぐな。バスを出せ」

 拳銃の男はやはり震えていて、それが声にも伝わっていた。

「あんた……」本物の拳銃かどうかの見分けなど付くはずもなく、どうしたらいいかわからない運転士が拳銃の男に弱く呼びかけた。

「黙ってバスを出せ」拳銃の男は運転士に銃を更に突き出して促した。バスはドアを閉めてゆっくりと発進した。

 二人のこのやりとりの詳細に気づいていたバスの乗客は運転士の周りの席の何人かだけだった。ほかの乗客は、乗車口で何かちょっとしたトラブルが起きているのだろう程度の認識で、興味があるような無いような、とにかく早く出発して欲しい、そんな程度の目で見ていた。


 拳銃の男は運転士に「俺の言うとおりに走れ」と命じ、自分は肩のリュックを足下に降ろし運転士のすぐ後ろの手すりに掴まって、運転士の行動に不審な動きがないように見ながら、乗客の動静にもチラチラと目を配っていた。運転士は出来れば逃げ出したかっただろうが、彼は今一番、逃げるには困難な場所と状況に合った。


 バスが進むうち、乗客はこのバスが、乗客の降車の合図を無視し、客が並ぶバス停留所を見向きもせずに通過するのを見て異常を感じ取り、声を上げた。そこで拳銃の男が運転士の左の肩に手をやって掴み何か言うと、運転士は目を見たまま車内マイクで話し始めた。

「このバスは、乗っ取られました。そのためどこにも止まりません。すっ、すみません」

 運転士は緊張が喉を締め上げて、うまく声が出ず途切れながらそう言った。


 話を聞いた乗客の一人が座席を立って奥から前に出てこうよとしたが、それを見た拳銃の男は、席を立った男に即座に銃を向け、「座ってろ。言うことを聞かないと撃つぞ!」といい。その直後にバスの天井に向けて拳銃を一発だけ撃った。パンッという乾いた音がして、銃弾はバスの屋根を貫通はしなかったがバスの天井に小さく丸く深いへこみを作った。席を立った男はよろけながら後ずさりして元の席に座り直した。


 乗客に緊張が走り声が上がった。隣同士、顔を見合わせる者もいた。中には、立ち上がって、走行中のバスの後部降車口から降りようとする者さえいた。そんな乗客の挙動に煽られて拳銃の男も興奮した。

「おとなしく座ってろ。いいな?座ってるんだ!」そう言いながら乗客全体に拳銃を振り回すように向けて叫び、銃口が自分の前を通過した乗客はワッと頭を下げた。

 拳銃の男がバスに乗ってまだ1分もたっていなかった。


 バスは直進していたが、目的地はどこかと言うことは拳銃の男はまだ何も言ってはいなかった。そうして走っているうちにバスの後方に警察のパトロールカーが現れた。そして、遠く前方にも赤い回転灯が見て取れた。バスは周囲から警察車両に追われて5分も走らないうちに電車の駅前の広いロータリーに追い込まれた。

「と、止まるよ。パトカーがあって、走れないよ」運転士が泣き声で拳銃の男に告げた。そのことは拳銃の男にも見ればわかることだった。前も後ろも右も左も、一定の距離を置いて車がバスを取り巻いた。

「なんだこりゃ。こんなに早く警察が来るなんて、どうなってんだ?」

 拳銃の男は呻りそして、

「乗ってるヤツの誰かが警察に電話したんだな!」と客達を振り向いて叫び、「誰が電話した。出てこい!」と息巻いて拳銃を向けた。


 拳銃の男の呼びかけには誰も応えなかったが、バスの前寄り、右側の席に座っていた40がらみの男が、「待ってくれ。誰も警察には連絡なんてしないと思う。いくら何でも警察が来るのが早すぎる。そうは思わないか?」そう冷静にゆっくりと拳銃の男を落ち着かせるように話した。

「じゃあ、何が原因でこうなったんだ?説明して見ろ」

「わたしにはわからない。何か他の理由で近くに警察が集まっていたのかもしれないな……。いずれにしても、こうなってしまうと、警察がなぜ来たかなんてことは問題じゃないだろう?これからどうするかってことだろう?」

「てめえ、落ち着き払ってべらべらしゃべりやがって。頭に来るぜ」拳銃の男は進み出てきて40がらみの男の頬を拳銃の先で強く突き飛ばした。突かれた男は、ウッと声を出して座席の背もたれに押しつけられた。


 事態がこうなって、拳銃の男は極度の興奮状態になっていた。おそらく、最初からそれほど綿密な計画を立ててこのバスジャックを実行したわけでは無いのだろう。事態が性急に進みすぎて、男は途方に暮れた顔でバスを取り巻く警察車両と、その影にうごめく多数の警官の姿に怖じ気づきそうな自分を自分でやっと鼓舞して立っていた。


 警察はバスを駅前広場に追い込んで止めさせただけで、それ以上の動きを見せなかった。犯人を落ち着かせた上で要求、目的を聞くこともしなかった。ただただにらみ合っている状態が数分続いた。そこでまた、さっき拳銃の男に話しかけた40がらみの男が話しかけた。

「あんた、何をしようと思ってバスを乗っ取ったんだい?」。40がらみの男の口調は、公園のベンチで偶然隣に座った者同士の特に意味の無い挨拶代わりの会話のような調子だった。拳銃の男はバス前方を向いたまま顔だけを振り返った。

「俺は……俺は」

「俺は?」

「父親と母親に、これくらい出来るっていうのを見せてやろうと思って」最後は消えるような声だった。拳銃の男のその話を聞いて40がらみの男は小さく頷いた。

「つまり。自分だってデカいことが出来るんだって言うのを親御さんに見せたかったんだな?じゃあ、家はこの近くなのか?」

「あぁ」

「そいつぁ、残念だったな」



 乗っ取られたバスを取り巻く警察車両の一番外側にある車に市警本部の大河原警部と相方の吉田刑事が乗っていた。だが彼らにこの現場の指揮権は無かった。市警の突入班が仕切る形になっていた。

「警部。どういうことなんですかね?バス乗っ取りって」吉田刑事がバスの方を見やりながら警部に言った。

「ううん。わからんなぁ。あの若い男も何も言ってこないし。どうなってるのか想像が付かない」

 大河原警部も乗っ取られたバスの中を注視していたが、そのうちに、「このままだと、訳のわからないまま強行突入っていうのもありそうだな」といって首を振った。



 バスの周囲には見える範囲にも黒ずくめの男達が増えた。それらがただの警察官でないことは一目瞭然だ。

「警察は俺を殺す気になったか?」拳銃の男は、そばの座席に座っていた中年の女性に向くと拳銃を向けて立つように言った。

「こっち来い。早く来い」

 呼ばれた中年女性は、その前から泣いていたが、拳銃の男に呼ばれてもはや卒倒しそうな顔で大泣きになった。

「それから、おまえとおまえと、おまえ。こっち来い」

 男の乗客を三人を拳銃で指して指名した。指名された男達もみるみる青ざめる顔でゆっくりと立ち上がった。指名された三人の中に、さっきから話をしていた40がらみの男もいた。この男だけは顔色も変えなかったが、ふぅっと一つ立ち上がって深呼吸をした。


「女は俺の前に来い。他の、おまえとおまえが左右。おまえが俺の後ろに立て。皆俺の周りで壁になれ」

 興奮してよだれを垂らさんばかりの話しぶりでそういった。中年女性は拳銃の男が自分で首に腕を回して体を引きつけ、拳銃を彼女の右のこめかみに押しつけた。そして自分の周りには指名した男達を自分に背を向けて立たせた。この状態では、外から直接狙撃するのは難しくなった。

 この状態になってから拳銃の男は、バスの運転士に、外の警察に自分の両親を連れてくるようマイクで言わせた。拳銃の男は運転士に話をさせながら親への不満をいくつか口にした。これによって、このバス乗っ取り行為が、拳銃を持った若い男による親への意趣返しらしいことがわかってきた。これで、若い男の親が到着するまでの間は犯人の過剰な動きはないと判断された。


 程なくしてバス乗っ取りの男の親が警察官に伴われて薄暮の駅前広場に現れた。

 拳銃の男の父親は表情をこわばらせてうつむくばかりだった。母親は泣いて周囲の警察官に頭を下げていた。これまでの所、拳銃の男の思うように親が彼を「たいしたものだ」などと感じることは無かった。


 拳銃の男の親は警察の盾の内側から息子に呼びかけを始めた。それは、「バカだよおまえは……」という身も蓋もないことばだった。警察側は母親に息子さんを穏やかに説得してくださいと、想定した例文まで示したが、母親はいざ話し出すと自身の素直なことばで息子に話しかけてしまった。それを警察は無理に遮ったりはしなかった。息子がこれで改心して投降する可能性は見るからに薄くなった。拳銃の男はバスの中で更に激高している姿が周囲の人質の隙間から警察のスコープに見え隠れしていた。


「結局、何をやっても、おまえはバカだって言いやがって」

 拳銃の男は、悔しさを滲ませて親の方を見ていた。そのとき母親が警官の構えた盾を押しのけてバスに向かって走り出した。虚を突かれた警官は母親を抑えようとしたが抜け出されてしまった。

「うぉぉぉ」

 バスに向かって走ってくる母親に向かって拳銃の男は2発撃った。バスのフロントガラスを貫通した銃弾は一発が地面に当たったが二発目は母親の左足に命中した。母親は前のめりにばったりと倒れた。それを見て更に絶叫した男は自分が人質の盾としていた中年女性の頭に拳銃を突きつけた。警察突入班の準備が後手になりすぐに動けず、人質女性も犯人に撃たれると思われた瞬間だった。拳銃の男の真後ろで背を向けて立っていた40がらみの男が身を翻して懐から小型の自動拳銃を抜き発砲した。女性を今まさに撃とうとしていた拳銃の男は、後頭部に2発の銃弾を受けてその場に崩れ落ちた。



 おそらく、誰も予想していない、もっとも意外な事態が起きた。

 これを切っ掛けに警察の突入班がバスになだれ込んだ。犯人の若い男に発砲した男は、眉間にしわを寄せ、自分の足下に倒れた若い男の姿を見ていたが、すぐさま拳銃を床に投げ出して手のひらを前に向けて少し肘を張った格好で両手を挙げたため、警官に撃たれること無く確保された。撃たれたバス乗っ取りの犯人は、もう手の施しようが無かっただろうが、すぐさま救急車に乗せられて、走り去った。運ばれていく乗っ取り犯人の横で、同じく救急車に運ばれようとしていた犯人の母親は、「あの子は悪くないんです。わたしは大丈夫ですから。あの子を助けてください、あの子を」そう言って息子をかばった。そのそばで父親が今度は母親に、「バカもん」と言った。



 バス乗っ取りをやった若い男を射殺した男は警官に両脇を抱えられてバスを出てきた。そこへ大河原警部がきて言った。

「俺は市警の大河原って者だが、槇原よ。おまえを追ってバスを追跡していたが、バスに乗ってこんなことになったのは、なんだ、偶然か?」

「ええ、あの若い男は見ず知らずです」

「そうか……。とんだ偶然が重なったもんだな。あの若い男を撃ち殺すとは」

「一瞬で片をつけなかったら、きっと人質の女の人を撃っていたでしょうよ、あの男。先に自分の母親を撃って、もうそれで気持ちが冷静になる可能性はゼロになった。警察の狙撃も無理だった。警察が突入すれば10秒で片付いたでしょうが、その10秒で人質が何人死ぬか……デカいことをして親に見せてやるなんて思いながら、ただ取り返しの付かない間違いをやっているだけだということがわからない息子が、あげくに知らない人間に銃を撃ちまくって殺したんじゃ、親も辛いでしょう。目の前の俺に殺されれば、人質は誰も死なない。そして愚かな息子でも、きっと親は悲しんでやれます」

「初めて、犯行の仲間以外を殺したな」

「大河原さんでしたね?確かにアイツのことは俺は何も知りませんが、世の中に填まるれない人間という意味では、俺と同じなんだという気がします」

「だから、ルールを無視したヤツは消す、か」大河原がそう言うと槇原は小さく頷いた。

「槇原。自分の逃走機会を捨ててまでこのことに関わったのは、自分のルールを守るためか?」

「へへ。酔狂なヤツがいたもんだと、思ってください」

 

 そして連行されていく槇原の姿を見て、バスで人質になっていた男性が一人、大河原警部のところへ走り寄った。

「あの人は拳銃を持っていたけど、警察官じゃ無いんですか?警察官じゃ無かったとしても命の恩人だと思うんですが」

 そう言われて大河原警部は頭を掻いた。

「この事件で元々、我々警察が追っていたのは、バス乗っ取りの若い男では無く、乗客の中の槇原という男だったんです。あの槇原って言う男は、連続強盗の指名手配犯です。仲間内のルールを守らなかったという理由で、ヤツはこれまで3人殺してます。バスが乗っ取られたときにすぐに警察がバスを包囲したのは、あの槇原を追っていたからなんです。仲間と落ち合ったのかとも考えられましたからね。そんなわけで、あの男も凶悪犯なんですよ」

 説明をされた男性は、その場にヘナヘナとへたり込むと動けなくなってしまった。



おわり

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