第2話 金魚屋の金魚
そうして、どこへ向かえば良いのかも分からない累は依都の世話になる事になったのだ。
依都は「跡取り様の兄上様なら良いお部屋を用意しないと!」と金魚屋で一番広い客間を空けると言ってくれたのだが、金魚屋には従業員が二十人ほどいて、長屋になっている。それはお世辞にも綺麗とは言い難く、襖も黄ばんで穴が至る所に開いている。我慢を強いられる生活をしているのが分かる。そんな中でぽっと現れた人間が優遇されたら間違いなく累もそれをした依都も反感を買うだろう。
長い交渉の末、累は長屋に部屋を貰える事になったのだった。
「長屋にはすぐ慣れたのに着物は慣れないんですね」
「基本洋服だったしな。こっちとは全然違うんだよ」
「そういえば変な物いっぱい持ってましたよね」
累がこちらへ来た時、楽しく遊んできたと言い張るためにやったくじ引きの景品だった玩具の拳銃とスーパーボール、帯に挟んだままだった扇子を持っていた。もちろん、結と約束した金魚の入ったビニール袋はしっかりと手首に巻き付けていたので無事連れてこれた。
今は依都が用意してくれた金魚鉢で暮らしているけれど、本当なら結と二人で飼うはずだったのだ。
「なあ、鯉屋からまだ連絡無いのか?」
「まだ五日しか経ってないですよ」
「もう五日だ!やっぱり具合が悪いんだよ!」
「そりゃあ悪いですよ。魂の回復は早くても十日かかりますし」
あれから五日が経った。
その間結に関する連絡は一度もなく、そわそわと昼夜問わず外をうろつく累を依都が連れ戻し、けれどまた外に出てしまい依都が連れ戻し――この繰り返しだ。依都も三日目には諦めて「金魚屋が見える範囲にいて下さいね」と言って放置するようになった。
結の脳死を告げられていた累は気が気じゃないのだが、この世界では体調を崩したら五日寝たきりは珍しくないらしい。こっちでの体調不良は現代で言う発熱や腹痛のような物理的なものではなく、魂が弱る事だという。
数日動かずにいれば元に戻るらしく、肉体なんて有って無いようなものらしいが累にはその感覚が全く分からない。いくらこの世界の人間にその説明をされても安心する要素には全くならなかった。
「なあ、俺みたいのは他にもいるのか?」
「現世の人ですか?たまーにいるみたいですよ。僕は会った事ないですけど」
「じゃあ現世に戻った人間は?」
「いないと思いますよ。現世に行く事ができるのは鯉屋様だけですし」
「そうか……」
累は同じ状況の人間がいれば味方になってくれるかもしれないが、やはりそう簡単にはいかない。
「よし、っと。ズボン履いていいですよ」
「お。ありがと」
この世界は基本的に着物で、そもそも洋装を見る事が無い。
けれど累があまりにも豪快に動くせいで帯はズレて前ははだけてとても見られたものではない。見かねた依都がズボンとベルト、足元も草履ではなくロングブーツを用意してくれた。どこかの店からもらって来てくれたらしい。さらには長くて絡まる袖も丈を詰めて洋装のような仕上げにしてくれた。よく出来た子だ。
「身支度も整ったし、今日は旦那様にご挨拶しましょう。久しぶりに店にいらっしゃるんです」
「旦那?お前が当主なんじゃないのか?」
「旦那様は経営者ですよ。僕は単なる管理人です」
これだけしっかりしているのなら管理人というのも頷ける。
しかし久しぶりという事はいつもいるわけではないのだろうか。経営者がこんな小さな子供に店を一任するのか、と累は首を傾げた。
依都に連れられて行った先は小さな部屋だった。
部屋というよりも塗籠のようで、音のしない空間は何だか重苦しい。ただ唯一小さな窓が一つだけあるのだが、そこも黒いカーテンがかかっていて向こうが見えない。
何のための部屋かイメージもつかないが、依都はその小窓に駆け寄った。
「旦那様。累さんを連れて来ましたよ」
「え?そこにいんの?」
「そうですよ。ここは旦那様のお部屋なんです」
うげえ、と累は思わず嫌悪感に満ちた声を漏らした。とても人が生活するような空間には思えないからだ。
依都は「挨拶して下さい」と累の背をぐいぐいと押したが、ちらりともカーテンは開かない。これではいるかどうかも分からない。
けれど依都がほらほらと急き立ててくるのに負けて、累は言われるがままに窓に向かって軽く頭を下げた。
「棗累です。お世話になってます」
うんうん、と依都が満足げに大きく頷いたが、カーテンはピクリとも動かないし何の返答も無い。
どうしたらいいんだと首を傾げたが、突如カーテンの向こう側からにゅうっと白く細長い腕が伸びてきた。
「うっわ!!」
「あれ?旦那様、それ累さんの金魚じゃないですか?」
現代のお化け屋敷にありそうな演出のそれに依都は驚きもしない。むしろその手が持っていた金魚鉢に驚いて、とたとたと駆け寄り覗き込んだ。
依都に言われて気付いた累も金魚鉢を見ると、白い腕の指先がぱっくりと切れて血がこぼれ出していた。しかしそれにも構わず金魚鉢に指を突っ込んで、あろう事か金魚にその血を啜らせた。
げえ、と気味の悪い光景に累は後ずさったが、依都は顔色一つ変えなかった。
一人でうろたえていると、白い腕は金魚を鷲掴みにして取り出して、なんとぽいっと放り投げた。累は床に叩きつけられる、と反射的に手を伸ばしたけれどそうはならなかった。
「……飛ん、だ?」
「あ、こっちの金魚にしてくれたんですね」
「こっちの金魚?」
こちらの金魚は現世で言う金魚とは違う。
金魚屋の金魚は水槽で暮らしているが、実はそこらに浮遊している金魚がいるのだ。これは金魚屋だけが特別見えるというわけではなく万人が見る事のできる物だった。これは誰も驚かず、金魚は飛んで当然の物なのだ。
こっちの金魚にしたというのは、同じく飛べるようにしたという事だろうか。
累がつんつんとつつくと金魚は嬉しそうに累の周りを元気よく泳いだ。一体どういう事なんだと混乱していると、白い腕はまた黒いカーテンの向こうへと消えていった。依都は有難う御座いましたと会釈をすると、そそくさと部屋を出てしまった。
「さ!早く行きましょう!仕事しないと!」
「仕事?って、金魚屋の?」
「そうですよ。旦那様の許可も出ましたし、今日から累さんにも働いてもらいますからね!」
許可が出たとは今の数分の間で得たのだろうか。声すら聞こえなかったが、テレパシーでも使ったのだろうか。
そして、小さな体を大きく揺らしながら依都は走り始めた。
十歳の速度に追いつくのは容易く、累は軽々とその隣を付いて行く。すると着いた先は――
「うわっ、何だこれ!」
立ち入り禁止と言われていた金魚屋の奥扉をくぐると、ふいに広い空間が現れた。
表からは見えなかったが、そこには青空と見まごうような一面の水があり、水中にはルビーのようなものが赤い光を放っている。あまりの眩さに累は目を奪われ息を呑んだ。
水槽だ。
壁も床も全て水槽だ。
天上から差し込む光が美しい水槽の中には数多の金魚が泳いでいて、それはとても数え切れる量ではない。
視界はぐるりと水の影で埋め尽くされていて、ルビー、いや、ルビーに見紛うほどに輝く金魚が光を跳ね返す様はまるでアートアクアリウムだ。
ひときわ目を引くのは中央に聳え立つ円柱だ。
柱の中には水が注がれていて、これもまた水槽のようだった。
それは街中でよく見る電柱よりもはるかに太く、半径五メートルはありそうに見える。だが高さは累の身長よりもわずかに高い程度で、二メートルにも満たないだろう。
しかし妙だ。外からはこんな物が置ける広場は無かったように思う。一体どうなっているのだろう。
まるで芸術品のような空間の中に、わいわいと賑やかな声が聞こえてきた。
よく見ると柱の裏に金魚屋の従業員が集まっていた。従業員達は金魚に向かって何か話しかけているようだったが、何を言っているのかは聴こえない。
「さ!それじゃあ今日もお仕事始めましょう!よろしくお願いしまーす!」
依都は声を上げて両手を広げると天を仰いだ。
その声に応えるように、従業員も皆よろしくお願いします、と声を上げて各々が金魚鉢を手に取った。
彼らは裾をまくって水槽に入ると、じいっと何かを探すように水中に目を凝らした。すると一人が「いた!」と声を上げて勢いよく金魚鉢で何かをすくった。それに触発されたのか、次々に何かを見つけたような声が上がる。
何かを救った金魚鉢を水槽の外にいる従業員に渡すと、それを屋台のような荷車に積んでいく。この繰り返しだった。
「これ何やってるんだ?金魚すくいして遊んでるわけじゃないよな?」
「まさか。これは《
依都はきゃらきゃらと笑うと、自分も金魚鉢を持って水槽にばしゃりと入ってうろうろしながら何かを探し出す。
するとようやくお目当てを見つけたのか、いた!と叫んで勢いよく金魚鉢で何かを掬った。
依都が自慢げにそれを見せつけてくるので累は何だ何だと覗き込むと、金魚鉢の中にいたのは金魚だった。
「金魚掬いか」
「そうです。こうやって黒い子だけ取り出すんですよ。はい」
やってみて下さい、と金魚鉢を押し付けられる。累も裸足になり裾を捲り上げて水槽に入って行く。
すると金魚達はどういうわけか累の足をするすると通り抜けていった。え、と驚いて手を突っ込んでみるが、やはりどの金魚にも触れない。
何でだろう、と不思議に思っていると何かがコツンと足にぶつかった。見るとそこにいたのは黒い金魚だった。
それですよ!と依都が応援するように手を振っている。触れない金魚を捕らえることができるか不安に思ったが、今度は難なく黒い金魚をすくいあげた。どうやら金魚鉢でならすくえるようだった。
どういう仕組み何だろうかと首を傾げていると、それを見た従業員達がうわあ!と声を上げて累に寄って来た。
「へえ!お兄さん金魚掬いうまいやんなあ!」
「うちは万年人手不足だから有難い。どんどん掬ってくれ」
うまい、とは。
金魚をすくうだけの作業にうまいもくそもないだろう。現世のように破れやすいポイですくうのは難しいが、確実に捕獲できる鉢ですくうだけなのに。
だが簡単な作業であっても、ここにある水槽はあまりにも多い。まさかこの全ての水槽から黒い金魚だけを取り出していくのか。
「俺は人手不足の人員補充かよ。毎日金魚掬いやってんの?」
「ええ。ひらひらしてて可愛らしいでしょう」
可愛いが、可愛いからと言ってこの物量に対応できるようになるわけじゃない。
しかしこの金魚は一体どこからやってくるのだろう。
そこらにも浮遊してる金魚はいるが、水槽にいる金魚の方が圧倒的に多い。
「なあ。金魚って何なんだ?何で飛ぶのこいつら」
依都は一瞬きょとんとして大きな目をぱちくりとさせたけれど、ああそうか、と手を叩いた。
ふふ、と依都は笑って水槽を見上げた。依都の目には数多の金魚が映し出されている。
「金魚は未練を残して死んだ人間の魂です。この赤い輝きは命そのものなんですよ」
たましい、と累は頭の中で反芻した。
魂という単語はどこかで聞いた覚えがあった。
(あの女、結に魂の恨みを浄化させるとか言ってなかったか?)
累は依都が無邪気にじゃれてている金魚を見つめた。それはきらきらと赤く輝いていて美しいのに、何故か背筋が凍り付いた。
依都に縋りつきそうになった時、おーい、と水槽の外にいた従業員の一人が依都を呼んだ。
「よりちゃん。金魚達にご飯あげるけど、どの水槽から?」
「今日はあっち!」
はいよ、と従業員は依都の指差した水槽へ向かった。
その手には小さな巾着を持っていて、水槽の淵に座り込むと巾着から何かを取り出し金魚一匹ずつそれを与えている。
それはよくある金魚の餌ではなく飴玉だった。
「お、おい。あんなの食わせて平気なのか?」
「平気も何も、金魚は金魚飴以外に食べる物無いですよ」
「金魚も飴玉を食うのか……」
この世界の主食は飴である。
見た目は何の変哲もないただの飴玉なのだが、依都も従業員達も、この世界の人間はみんな飴を食べるのだ。現世のように野菜や肉といった食料を食べる事はない。
飴が一体どういう効果をもたらすものだか分からないのだが、累はこの飴では腹が膨れなかった。
それじゃどうするのかと言うと――
「今日は納品しなきゃですし、先に累さんの食事貰いに行きましょうか」
「行くってどこに?」
「《鯉屋の大店》ですよ」
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