記憶喪失からはじまる異世界恋愛。

友坂 悠

 

「この私、マクシミリアン・ド・オルレアンの名に於いて、君、マリアンヌ・ヴァリエラントとの婚約を解消する!」


 大広間に響き渡るその声。

 あたしが最初に聞いたのはそれ、目の前にいるどうやら王子様のそんな怒鳴り声だった。

 っていうか、最初に気がついた時というかその怒鳴り声に合わせて意識がはっきりしたと言った方が正解なのだけど。


 ちょっときついドレスたぶんこのきついのはコルセットかなそんな真紅でひらひらのお嬢様風なあたしが立ち尽くしているのはここ、天井ははるか上空、明かり取りの窓がそこかしこ開いているだだっ広い空間。

 王宮内部の大広間だっていうのは後で知った。豪華なシャンデリアがたくさん吊るされ灯りが煌々とともるそんな部屋。大ホール。

 オーケストラの楽団が隅で盛大に音を奏で、大勢のカップルが思い思いにダンスを楽しんでいるそんな場所で、それはいきなり起こったのだそうだ。


 そうだっていう伝聞みたいな書き方は変だけどあたしにはそうとしか言いようがない。

 なんと言ってもあたしの意識はその言葉の前後で完全に隔絶しているのだから。


「え、と、ごめんなさい。もう一度お伺いしてよろしいでしょうか?」

 いきなりの言葉にその言葉の意味も状況も理解できなかったあたしはついついそうお伺いしてしまった。


「ふん、ではもう一度言ってやる。この私、マクシミリアン・ド・オルレアンの名に於いて、君、マリアンヌ・ヴァリエラントとの婚約を解消すると!」


 ああ、この人はあたしの婚約者、で、あたしは婚約破棄をされた、そういうことか。


「そうですか。わかりました」


「公爵や叔母上を頼っても無駄だぞ、私は君との婚約はもうまっぴらだ……、と、やけに素直に引き下がるな?」


「いえ、婚約は解消でよろしいのですよね? わたくしにはよくわかりませんがそれならば仕方がないかと」


「ああ、まあ、そういうことだ」


 周囲から王子! とか、殿下! とか諫めるような声が聞こえてくるからこの人は王子様で間違いなさそう。

 結構俺様な感じ?


 でもって。


 さっきこのマクシミリアン王子? が話しかけた公爵っていうのはもしかしてあたしのお父様?

 有り得るな。

 こんなシチュエーションだったら。

 叔母上っていうのがあたしの母親なのかも、とか、漠然と考える。


 に、しても。


 あたしにはこういったシチュエーションの想像ができるのに、それに至る記憶が思い出せない。

 自分が誰なのかも。

 ここがどこなのかも。

 そして、今までどうしていたのかも。


 考えてみれば不思議な話。


 記憶喪失、そんな言葉が頭をよぎる。

 に、しても?

 これは、表層的な記憶だけ無くなったってことでいいの?

 この目の前の方が王子様だとしても、自分がその婚約者だったのだということも別に違和感なく受け入れられるのに、そこに至った記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。


「ところで。一つだけお伺いしてよろしいでしょうか?」


「なんだ?」


「その、婚約破棄に至った理由とかがもしおありになるのならお聞かせ願いたい、と」


 ははっと笑うマクシミリアン。


 その横に、質素ではあるが綺麗な、純白のドレスを身に纏った少女がスッと寄り添った。


 ああ、そういうことか。

 まあ普通にそう理解したあたし。


「私はこの彼女、マリアと結婚することにした」


 そうドヤ顔でいうマクシミリアン。

 周囲の重臣が「殿下! ここではおやめください!」と諫めているのを鬱陶しそうに振り払い。


「彼女こそ真の聖女。この国のために私は彼女と添い遂げることに決めたのだ。そういうわけで君との婚約はこれで解消だ。流石にこの場でこうして発表すれば父上にも覆せまいさ」


 ああ。

 そうか。

 王は反対してるんだ。


 この婚約破棄騒動は、この王子の独断なのだな。


「よろしいのです? お付きの方々が慌てておりますわよ?」


「ふん! そのすました顔が私は以前から気に入らなかったのだ。まあいい。仮にもいとこではあるからな。不敬には取らないでおいてやるよ。ではな」


 そう捨て台詞のように吐き捨ててマクシミリアン王子は少女マリアと取り巻きに囲まれたままその場を後にした。

 まだどうやらダンスパーティーは終わっていないらしい。

 王子の動向に耳を澄ましていた人々も、三々五々にふたたび歓談を交わしダンスをし、この非日常を楽しもうとしているようだった。


 さあ、どうしよう。


 あたしの記憶はまだ戻らない。


 ここがどういう場なのかも理解できたし先程の王子のおかげで自分の名前も分かったけれど。


「ふう」


 ため息を一つつくと、そのまま壁に向かって歩く。


 どうして記憶が飛んでしまったのか。

 どうしてこんなタイミングで?

 気にやむことは色々あるけれどそれでもとりあえず壁の花でもしていればあたしのことを知っている人がまた声をかけてくれるかもしれない。

 そのうちに記憶も戻るかもしれない。

 そんなふうに期待して。あたしは楽団から一番離れた壁際に一人立って周囲を観察することにしたのだった。


 壁の花という言葉があるけれど。

 壁には色々と趣向を凝らした花が飾ってあった。


 あたしが寄り添ったその壁には真紅の薔薇が額に入った絵画のような装いで飾られていた。


 ああ、この匂い。


 覚えがある。


 この薔薇はあの薔薇園の。

 あたしが大好きだった、あの。


 うっすらとだけれど。

 王宮の薔薇園で遊んだ、幼い頃の記憶が思い出されて。


「君は、泣いているより笑った顔の方が可愛いよ」


 母と逸れ迷子になって。


 泣いていたあたしを慰めてくれたそんな薔薇園の王子様。


 優しい声でそう、あたしに微笑んでくれたそんな。




 ああ。

 なんで忘れていたんだろう。

 あたしはそんな薔薇の王子様が好きだった。幼いあたしにとっての初恋だったのに。


 次にあった時。

 あんなにも優しかった王子は粗暴な顔に変わってしまっていた。

 あたしが可愛がっていた猫をいじめる意地悪な王子。

 だから?

 あたしはマクシミリアン王子のことを嫌いになった。

 そんな幼い時の記憶。



 そうか。

 あたしが嫌いだったから。嫌われて当然か。


 だけど。


 涙が一筋頬を伝って落ちた。


 もしかして。

 それでもあたしはマクシミリアン王子のことを好きだったのだろうか?


 まだ全てを思い出したわけじゃない。けど。


 あたしは自分の心が壊れるのを防ぐために、自らの記憶を封印してしまったのだろうか?





 きっとさっきの王子とのやりとりは大勢の人が見ていたのだろう。


 腫れ物にでも触るように。あたしに挨拶をする人はみな上部だけの挨拶にとどめていた感じ。


 そんな壁の花に徹していたあたしに、一人の令嬢がすすすっと近づいてきた。

 っていうかこの容姿このドレス高貴な雰囲気を思いっきり醸し出している彼女。

 あたしが公爵令嬢だとしたらそうそうあたしよりも上位の令嬢なんていないだろうにたぶんこの感じはあたしと同等かそれとも。

「ねえ、泣かないで、マリアンヌ様」

 そうこちらを見てそっと囁く彼女。

 あたしは。

 堪えきれずに彼女に抱きついて泣いた。

 彼女も、それが苦ではない、というよりもそれが当然のようにあたしの背に手を回し。

「うん。大丈夫、大丈夫」

 そうあやすように優しく背をさすってくれて。


 そのまま自然にあたしをホールから連れ出してくれた。


 手を引かれ、大人しく彼女についていくあたし。


 何故か不安とかそういうものは一切なく。されるがままうながされ王宮の一室に連れて行かれたあたし。


 大きなソファーにボスんと並んで腰掛けて。

 彼女は侍女に指示をして温かいミルクティーを用意してくれたのだった。




 ☆☆☆☆☆



「そっか。マリアンヌは記憶がなくなっちゃったの?」


「ええ。ごめんなさい」


「わたくしのことも覚えてない?」


「うん。ごめんなさい」


「もう、謝らなくてもいいの。よっぽどショックだったのね。でもちょっと妬けるな」


「え?」


「わたくしはアンジェリカ・ユーノ・オルレアン。どう、思い出さない?」


「はう、ごめんなさい」


 あたしは涙声でそういう。


 親しい間柄だったっていうのはわかる。肌でおぼえてる。でも。


「うーん。じゃぁ、これならどうかな」


 マクシミリアンとよく似た容姿の彼女。オルレアンということは王家の、マクシミリアンの妹姫ということなのだろうか。


 そんな彼女、いたずらっ子みたいな表情をして声色を変えた。


「君は、泣いている顔より笑った顔の方が可愛いよ」


 それまで少女の声だったアンジェリカ。ううん、今の声はまるで男の子の声?


 それに。


「薔薇の、王子様……」


 あたしは彼女の顔をマジマジと見る。


 って、どういうこと?


 アンジェリカがあの王子様なの?


「君は、僕が護るから。僕の大好きな天使」


 そういう顔はもう女の子の顔に見えなかった。あたしのほおをもう一度涙が落ちた。




 今度の涙は、悲しい涙じゃなかった。


 嬉しくっても涙って出るんだもの。


        Fin

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