習作集

東風虎

「あこがれ」

 あくる晩、今では違う町に暮らす遙と悠里はほとんど同時にふたりの人生最良の時期、あるいはそうなりえた日々のこと、お互いがお互いの最大の関心事であったあの頃を思った。ほとんど決意に近い明確な意志を持って歩みを止め、疎らな夜空を見上げた遙からすれば忘れてしまうことなどまだずいぶん先の話だったが、定期的に通りすぎていく街灯の明るさに助手席で目を開けた、悠里のほうではそれが最後になる。

 シートに縛りつけられて自由の利かない肩や背中が知らないうちにひどく強ばっていて、肩胛骨を動かすだけで声が漏れる。運転席の母はそれを聞きつけたらしい。起きたん、もうすぐサービスエリアやしちょうどよかった。母親の声ほど感傷との食い合わせの悪いものもなくてそのせいもあってか朦朧としたままの意識で曖昧に、うん、うん、とだけこたえた。シートベルトの食い込む左肩のかすかな痛みばかりがありありと感じられる。もはや問題は空腹のみだった。サービスエリアならうどんとかあるかな、肉うどんがいいけど。

 とはいえ悠里も、遙の存在そのものを思い出すことがまるきりなくなったわけではない、記憶とはそういう風に消えるものではない。むしろただ不用意に相手の存在を思いだす回数でいえば悠里のほうが多いくらいだった。しかし何度思い出そうとも悠里は遙との日々に対して以前のような焦がれをおぼえず、そのことに悲しみや後ろめたさを感じさえしたが、既に失われていた何かが戻ってくることはもはやありえなかった。

 それだけ反芻する記憶は薄れない。むしろたしかな輪郭をともない、誰にも語られないにせよ語りうるだけの強度を帯びていく。しかし悠里の場合には少し妙で、遙の記憶は薄れないくせにいつまでたっても脈絡のない断片でしかなかった。悠里は遙について、遙との関係についてその全体を言い表しうる言葉を持ち合わせない。遙は遙だと開きなおることをやめ詳細さをもとめても、記憶は全体像を結ばないでばらばらな細部へと解けていった。遙との時間を記憶するのはいろんな物や写真が請け負ってくれていて、どれも捨ててしまったいま悠里のなかの遙はもうただふれる肌やさぐりあう温度の記憶、後ろから抱きすくめて胸を満たす、短い猫っ毛から広がるシャンプーの香りだった。それも既に変わっていることを悠里はもうずっと知らないままでいる。

 シャンプーを変えたのはあてつけだったがどちらかといえば自分自身へのあてつけに近かった。そういうことをしよう、しなきゃという衝動がいつまでたっても訪れない自分自身が遙にとっては何より腹立たしかった。あれだけ唐突で一方的な破局を言い渡されておきながら、なぜか悠里への怒りや恨みは湧いてこず、悠里がくれたイヤリングもネックレスも口紅も変わらず使う気でいた。かといって悠里に執着する気にもならない。別れはただ不思議だった。それでも遙には、その不思議がいつか、時間の作用によって単なる事実として受け入れざるを得ないものになることも理解できていた。だからまずはあの子の好きだって言ってたシャンプーだけ、とりあえずね。あの子って──うんそうそう、前言ってた。

 残念でしたねけっこう昔からだったでしょ、とイヤホンから聞こえる声の主とは会ったことがない。冷たい色彩のTwitterアイコンと声から受ける印象は高校時代の同級生のひとり、剣道部だった気がするあの男子と妙によく重なって、話すたび懐かしくなった。あんまり親しくはなかったから声も覚えてないけど、あの子とはもしかすると好き合うこともできた気がする。それが通話の相手へのなんとなくの好感につながっているのは、申し訳ないからできるだけ意識しないようにしていた。

 ──不思議ってどういう感じなんですか。

 どういうって?

 具体的にいつ思うとか。

 うーんなんだろ。青信号を待つ集団のなか小さな相づちを打ちながら、最初に思いあたったのはそれこそもう昨日のことだ。仕事を終えて戻ってきたリビング、ソファに横たわって自分の身体から屋外の空気のにおいが抜けるのを待つうち、ふと自分がここに誰とも触れあわず何も言わずにひとり居ることがひどく不自然に思われるようになっていた。

 でも遙が悠里の部屋にいた時間なんて一回一回が思い出になる程度だ。だからもう場所とか関係ないくらい、あの子と一緒にいることに慣れすぎちゃったのかなって、言ってて気づいたけどこれじゃただ寂しいだけなのかな、わかんないけど。

 そうかも、と電話の向こうの声はすこし綻んでいた。そもそも寂しいって感覚が分かってないんじゃないですか、だって元々ひとり平気なタイプっぽい。──それはそうかも。

 でしょう? だってだから、好きとかいうのだって、最初はよく分かんなかったりするじゃないですかと、言われて思い出すのもほかの誰でもない悠里と出会って間もない頃のことで、悠里とは違ってわたしは親しみが愛しさへ変わるのにも、それを自覚するのにも随分時間がかかってつきあってからも随分面倒なことになってしまった。もし別れたとしても苦しいのは相手の方だけで、自分はただ元のひとりに戻るだけだと思っていたのがひどく滑稽に感じられる。そうかもねと、極力重たくならないように笑う。

 寂しいだけなら誰だっていいし、誰だっていいような人ならひとりでいるのも変わらない。そんなようなことをずっと考えいて、ずっと考えているようなことなら悠里にもどこかで話したと思う。

 でもあたしは、遙といないと、周りに何人いても寂しいよ。

 ちがう、あたしが言ってるのはそういうその場その場の寂しさじゃなくて。恋人がいるからって紛れるような、でも埋まらないみたいなね、心にずっとある寂しさのことを言ってる。それがわたしである必要は、悠里にだって、本当はないんじゃないの。

 どういうこと?

 その場では突っぱねてしまったその話を、でも悠里はずっと覚えていた。つきあうより前のことだ。ずっと覚えていてずっと考えて、付き合いはじめてから答えを思いついたのに言わずじまいになった。

 ──誰でもいいならやっぱり、それが他の誰でもなくて、遙になったのはすごくよかったってあたしは思う。

 サービスエリアは少し混んでいた。最近は人ごみを見るだけで少し嫌な感じがする、あたしはもともと敏感なほうじゃないけど、とか考えても、隣で一緒に列に並ぶ母親にこんなこと言ったって仕方ない。こういう広がらなくてもいい話をしたいと思える相手が今のあたしにはいない、とはっきり言葉にしてみてやっと少し寂しいような気がして、カメラロールの奥の方の写真が恋しくなった。

 見るでもなく見ていたインスタを閉じる。二年前に行った海の写真が残っていた。別れた直後、遙が映ってる写真は衝動的に全部消したけど、風景だけのは迷ってちょっと残したのだ。こういう時間を一緒にする相手ももういない。もう一度言葉にしてみたがそっちはなんとも思わない。だって海なんか行っても仕方ないような気がする。どうしてしたかったのかすらもうわからないかも、──考えはそこで途切れる。ひとつ前の背中がレジへ向かったからだ。悠里たちの番はもうすぐで、レジの上に大きく掲げられた写真付きのメニューをもう一度たしかめる。問題はやはり空腹だ。

 ──引っ越すんだって。

 話を切りだしたのは打ち明けたかったからではなくて、ただ沈黙を嫌がってのことだった。

 引っ越すって? あのぉ元カノ、実家が引っ越すから、それにあわせてって。仕事も変えるんだってさ気楽でいいよねと、話の流れに合わせただけの思ってもいない皮肉に胸が少し痛んだが、今はとにかく通話を切るのが怖かった。家に戻れば話がとぎれるから、回り道さえしたいような気がした。どういうのが寂しいって、悠里ならもっとはっきり分かるんだろうな。できれば寂しくあってほしいと思ったから、やっぱり恨んでるのかもね。


   ✳︎✳︎✳︎


 トイレに行った母親を助手席で待っていた。向かいのトラックはヘッドライトを光らせ、ゆっくり動き出す。それを眺めながら悠里は、へいき、と口にしてみた。

 ひとりでも、もうへいき。

 自分を誇らしく思った。誇ろう、とも思った。誇らしい自分のイメージは飄々としていて、頼りないけれど、とにかくさっぱりしていてそこがよかった。

 それと全く同じ印象を、ふたりで海へ行った日の遙にも抱いたことを悠里はすっかり忘れている。荷物をおいたブルーシートのそば、脱いだサンダルをふたり並べて、素足にからまる波と砂の感触をひとしきり楽しんだ後、遙はすぐにふらふらとどこかへ歩いて行ってしまったのだ。すぐ戻ってくるだろうとそこでじっとしているとどんどん離れて行ってしまう。追いかけなくてもいい距離が、いつの間に追いかけられないほどの距離になってしまったのか分からない。遠くに駐めてある白い軽トラと、同じくらいの小ささになってしまった遙の背中から目を離したら、この海と砂ばかりのだだっ広い空間に、悠里はやたらひとりだった。

 脚も疲れて荷物のところへ戻り、スマホで適当に自撮りとか風景とか撮っていた悠里のもとへ、遙が戻ってきたのは二十分もしてからだった。わざとらしくふくれてみせた悠里に、遙は軽く謝りながら何か差し出した。

 なにこれ? 緑の透明なかけら。悠里の手のひらに握り込むのも頼りないくらいの小さなそれを指さして、シーグラス、とつぶやいた。

 緑だから、もとはビール瓶かな。

 いっこだけ? と尋ねたら、欲張りな子どもみたいで笑えた。──見つけたのはこれだけだよ。もっと細かいのは、砂に混じってたぶんわかんない。

 そこで言葉を切って、自然と同時に、ふたりとも海を見る。平たいなあ。こんなに平たいとこは海以外ないかも。遥がどう感じているのか、わからない、と気づいて、ということは気づくまでは分かっていると思っていたのかもしれない。そうしてただぼんやり黙っていたら、さっきと同じひとりの感じが、隣に遙がいるのに襲ってきた。なにか怖いようで遙の横顔をじっと見た。振り向いてくれないから、さっきの背中と同じ感じがしてしまった。

 その印象だった。

 それはそのときおぼえたものなのか、それとも以前から悠里が抱いていたあこがれのようなものに遙が合致したのか。今となっては分からない。

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