第1章 凶暴な美女、記憶喪失の女

プロローグ1


 遠くで喧騒が聞こえ、差し込む光がとても平和に思える穏やかな午後だった。差し込む光の中、ほこりがちらちらと舞うのが見える。しかしその光が差し込むのは部屋の一部だけだ。細長い小さな窓は天井近くにあり、鉄格子がはめられている。そこから差し込む光は部屋の一部だけを照らし、大部分が照らされないその部屋は、薄暗く寂しいものであった。冷たい鉄格子がはめられた小部屋がいくつも並ぶその部屋は、どうやら牢屋のようだ。

 薄暗い牢屋の中、何人もの女性がすすり泣く声だけが響いていた。牢には女ばかりが詰め込まれていて、どの女性も薄汚れた服装で中には酷く衣服の乱れた者もいた。牢屋と通路を遮る鉄格子の向こうで、大きな体の男が牢の中をにたつきながら眺めている。

 その廊下には男が一人しかいないようで、男は何個もある牢屋を一つ一つじっくりと眺めながらゆっくりと歩き回っていた。しばらくは品定めするように何人もの女をじろじろと見回していたが、やがて一人の女に視点を落ち着かせると、にたついた口を更に歪めてその大口の唇を長い舌で舐め回した。その視線から逃れるように、牢の女は誰ひとりその男の方を向こうとしない。小さく肩を寄せ合い震えているばかりだ。

 しかしそんな女達の様子に構わず、男はその太い腕を牢屋の中に勢いよく突っ込んだ。

 その腕に掴まれた一人の女性が、発狂したかのように大声で喚き出す。その声に他の女たちも一斉に泣き叫び出した。捕まった女は必死にその腕から逃れようと、腕も首も気が狂ったように動かしていた。恐怖で顔を真っ青にし必死に抵抗するその様子は、当の本人ではない他の女達にも恐怖を伝染していた。

 しかしどんな抵抗をしてみたところで、体格のいい男に敵う筈もない。腕に引かれるままに女がその体を鉄の格子に激突させると、男はそのか弱い体に腕を回し腰を押さえ、そのまま鉄の柵越しに女を抱きしめてその首を押さえ込む。

「へへへ……こいつはいい女だ」

 呟くとその泣きじゃくる女の胴体を無理やり押さえつけ、男は自分の顔をその柔らかそうな胸に寄せようとするのだが――

「そのへんにしておけ」

 思いがけず男の暴行を止めたのは、牢の中にいた一人の女だった。

 肩にかろうじてつく長さの茶色の髪、その隙間から見えるその顔立ちは彫刻のように整っており、白い肌が光を受けて柔らかく光っていた。見ればその女は男の腕を一回り小さい手で掴んでいる。力こそは入っていないが、不思議なことに男が動きを止めるには十分な程の威圧感があった。

 男は怪訝な表情で動きを止め、自分を止める女を見た。細い腕の先に見える胴体は、やはり薄着で、その胸元と腰周りをわずかに隠す布を巻いてあるだけだ。首を傾けるとサラリと溢れる茶色の髪、髪の隙間から垣間見える整った顔立ち、細身ではあったが美しい曲線の体のラインは男の気を惹くのに十分だった。

 男はにやりと笑うと、自分が掴んでいた女を離した。たちまち離された女はその場から逃げるように、後ろに崩れ落ちる。

「別にお前でもいいんだぜぇ」

 欲望に口元を歪めて、男は今自分の腕を掴んでいる女の手を逆に掴みとり強く引いた。抱き寄せられれば、あの細い体はあっというまに男の餌食だろう。しかしその場に足をついて踏みとどまる茶髪の女は、思ったよりも力があった。引いても微動だにしない女に、男が思わず躍起になって腕を強く引こうとしたその時だった。俯いていた女が薄っすらと顔を上げた。

 目があった瞬間だった。女の顔を見た途端、男の背筋に悪寒が走った。美しく整ったその顔は、普通にしていたならどれだけ男の気を惹くものだっただろう。しかし今は冷笑を浮かべ、男を睨む女の瞳は尋常ならぬものがあった。

 大きく見開かれ睨みつけてくるその瞳は、ゆらゆらと怪しい紫色に燃えていた。その瞳には一点の曇りもない。そこにあるのは、睨んだものに対する激しい憎悪と殺意だけだ。

「俺に手を出そうなど……高くつくぞ」

 冷たく声を響かせ女は何かを唱えた。その次の瞬間、女の手から閃光が走っていた。




 老人はその時、一人の男と商談の最中だった。繊細な刺繍の織り込まれた豪華な椅子に腰掛け、目の前の机に並べられたいくつもの食材、それだけでこの老人の財力を垣間見ることが出来る。老人が一つの果実をかじっていたその時だった。屋敷の下の階がやたらと騒がしい。老人は屋敷の豪華さに負けないくらい豪華な服で身を飾っており、そのでっぷりと太った首であろう場所をぼりぼりとかくと、不機嫌そうに眉を寄せた。

「折角のお話の最中ですが、すいませんな。どうやら使用人たちが騒がしいようで」

 老人が呆れるようにため息をつくと、その老人の前に腰掛けた男が首を上げ深く息を吸う音がした。

商談の相手である男は全身真っ黒な服装で、いやに辛気臭いものだった。その顔ですら黒いフードの下に隠れて見えない。その上その肌の色も浅黒く、それが余計に男を茶色の空間の影のように見せていた。その身なりから、男が何かの術者であろうことが窺えた。

「時折使用人が騒ぐんですよ。何しろうちの奴隷はどれもこれも上玉ぞろいなもんで。売りに出す前に手を出しそうになるから困りますわい」

 そう言って老人は、身なりの割に品のない下卑た笑いを響かせる。しかし黒服の男はそれには反応せず、じっとレンガ造りの茶色の廊下を見つめているようだった。

「折角女の奴隷にもご興味持って頂けるようになったっていうのに、騒がしくしてすみませんなぁ。なあに、すぐ収まりますよ。使用人も上官に怒られれば静かになりますんでな」

「……果たして、ただの使用人の騒ぎですかな……」

 男が意味深な発言をするものだから、老人が訝しげに目を細めたまさにその時だった。廊下を勢いよく駆けてくる足音が響いたかと思うと、一人の使用人が老人の部屋に転がり込んできた。

「なんじゃ、騒々しい!」

 思わず大声で叱り飛ばす老人だが、それに構わず転がり込んできた使用人は真っ青になって叫んだ。

「そ、それが、大変なんです! ど、奴隷達が……!」

 使用人の表情が並々ならぬことに今更ながら気がついて、老人は思わず息を飲んだ。

「な、何? ど、奴隷たちがどうしたのじゃ?」

 問いかける老人の声がかすれていたが、それに負けないほど使用人の声も恐怖にかすれていた。唇を震わせながら使用人は大声で答えた。

「ど、奴隷達が全員逃げました……! ろ、牢の中に反逆者が……!」

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