ムテキノヒト。

江野ふう

#01

 リュックの中には、ナタ。

 あと、ネットで買った刃渡り30センチの牛刀包丁が入っている。

 家にあった刺身包丁は、月に一回は母親が研いでいるから鋭い。けれども細くて心もとない気がした。人を二、三人刺したらすぐ折れるだろう。

 メインの武器はナタと牛刀になるはずだ。

 あとは気休め程度に、果物ナイフを三本。それから、出刃包丁を持ってきた。これらはリーチが短い武器だからあまり役に立たないんじゃないかと思う。逃げ惑う人間は殺せそうにない。

 水筒には灯油を入れて、ライターも用意した。

 このところニュースで連日報道されている犯人みたいに、まずは数人に切りつけて、それから、灯油を撒き、火をつけようと思う。


 例えば小春日和の日曜日。

 人でごった返す都心の歩行者天国に、車で突っ込むことも考えた。

 無差別に人を殺すなら、最も簡単で効果的な方法のように思える。

 父親の、嫌味なぐらいピカピカしたベンツSクラスのアクセルをベタ踏みして、行き交う人を跳ねる。無差別に轢き殺す。

 でも、自分は免許を持っていない。無免許で車の運転はできない。

 

 K大学の医学部に行くために受験勉強をしていたから免許どころではなかったのだ。


「車はK大に合格うかってからね」


と言われ、あれから五年……いや、六年か。経った今も免許を取り損ねたままでいる。


 六年前から取り損ねているのは、車の免許だけではない。

 少なくとも、医師免許は取れなかった。

 三つ年下の従弟がK大学の医学部にストレートで合格した年、自分は医学部を受験することを諦めた。

 合格の報告をうちにもしにきた叔母の勝ち誇った笑顔と、その相手をしていた母親の嫉妬に狂った般若の表情は今でも忘れられない。


つかさちゃんは、がんばってるのにねぇ。今年もダメだったの?模試だといつも上位にいたでしょう。

 うちの利晃としあきなんてろくすっぽ勉強してなかったのに、ストレートで合格できるだなんて。全然期待してなかったのよ。大学受験って本当に運ね」


 曽祖父の代から続く医者の家系で、自分は戦後最初の落伍者となった。


 いつも勝ち気で教育熱心だった母親は、僕の不合格結果にヒステリーすら起こさなくなった。

 もともと仕事熱心な父親については、家で見かけることはめっきり減ってしまった。深夜、小用をたすために自室を出て、トイレで父親と三ヶ月ぶりぐらいで鉢合わせた時は、一瞬驚いて、それから、見てはいけないものを避けるように目線を泳がせただけだった。僕も無言のまま、俯いて、父親が通り過ぎていくのを待つことしかできなかった。

 

 両親の守ってきた病院を、医師として継ぐことができない息子。


 親、親戚、ご近所さんからの視線が、僕にこの先一生消えることのない「失敗作」の烙印を押していく。

 

――生まれてきて、ごめんなさい。


 四浪することが決まったとき、僕は部屋から出られなくなった。

 両親、親類縁者、地元の友達の目線が怖かった。

 子供部屋から出て、医者ではない何かよく分からないものにならなければならない自分からも逃げたかった。


 自分はきっと、六年前に死んだ。

 車の免許や医師免許を取る以前に、生きている資格がない。




 新宿西口には思ったよりも人がいなかった。交番の前に立っている警察官と目があった。今から実行しようとしている犯罪を見透かされたような気がした。


――新宿は、よそう。


 そう思ったとき、雪がちらついてきたのに気づいた。

 雪が降ったら人の出はさらに減るだろう。天候にすら恵まれていない。


 ――失敗だ。


 思わず舌打ちをした。

 自分の思う通りに成功した試しがない。

 失敗続きの人生。

 僕の人生は、失敗作だ。

 それはきっと、僕が失敗作だからに違いない。




 自分という人間にイライラしながら歩いているうちに、住宅街に差し掛かった。


 強い風が吹いてバタバタとプラスチックが当たる乾いた音がしたから、僕は左の方を見た。

 トタンの風除けが半分外れた古いアパートのベランダの前にショッキングピンクの荷物のようなもの置かれている。灰色の雪空と黒く煤けたアパートがつくり出す無彩色の中で、蛍光のショッキングピンクが悪目立ちしていた。


 目を凝らしてみると、ショッキングピンクが動いた。

 ポニーテールに結った小さな頭が、ひょいと空を見上げたのだ。

 子どもだ。

 ショッキングピンクのトレーナーを着た子どもだ。

 はっきりした年齢は分からない。しかし、小学生ではないと思った。

 少女は小柄だった。


――子どもなら、殺すのに失敗しないかもしれない。


 そう思って少女の方に歩いていく。


「雪だねぇ。寒くない?」


 近づいて気づいた。


 少女は裸足だった。

 着用しているのはショッキングピンクのトレーナーにスウェットパンツで、しかも何日も洗濯していないのか薄汚れいている。


「さむーい!」


と彼女は言った。人見知りはしないようだ。元気で甲高い声だった。


「お母さんは?」


「おうち」


 少女は今ひとりであることを確認する。


「ここおうち?」


 少女がしゃがんでいる目の前の102号室の扉を指差すと、体に比べて大きな頭を振り子のように大きく縦に振った。ゆるく結んだポニーテールが揺れて、髪がぼさぼさになった。


「おうち、入らないの?」


「おうちに男の人がいるときはカギをかけるんだよ」


 僕は思わず扉のほうを振り返って凝視した。

 母親はこの扉の向こうで、寒空の下、子どもを外に放り出して、男と逢い引きしているのだ。


――この子を殺したら、母親は悲しむんだろうか。


「お父さんは?」


 少女は首を横に振った。


「いないの?」


 今度は縦に振った。


――この子を殺しても、悲しむ父親もいない。


 殺すのにおあつらえ向きだと思った。


「へえ。じゃあ、しばらくお兄ちゃんと遊んでようか」


 少女の顔がパッと明るくなった。小さな歯を見せて喜んでいる。乳歯が生え変わるところか。前歯が抜けていた。


――僕を疑うこともなく、彼女は死ぬ。


 少女の首は、片手で締め上げられそうなぐらい華奢だ。

 その首に両手を掛けようとしたとき、


「リサはね、死んでもいい子なんだよ」


と言ったものだから、ギョッとした。


「悪い子だから。死んでもいい子なんだって」

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