40 動揺する補講クラス

 眠い。

 眠いけれど、起きたい。


(今……何時? ここは、どこ……?)


 目を覚まそうと腕を伸ばしてもがくが、何も掴むことができない。

 まぶたは重いし、目を開いても周りは黒一色なのだろうという予想が付く。


(起きないと……皆におはようって言って、送り出さないと……)


 早く、早く、と気持ちは焦るのに、体が全然追いつかない。


 そしてやがて必死な気持ちも黒い闇に押しつぶされ、何度目か分からない不快な眠りに落とされていった。










「……シャツはルッツの部屋の前に畳んだ形で置かれていて、グローブはエーリカの部屋のドアノブに引っかかっていたそうですの」


 ツェツィーリエの説明を、エルヴィンは放心状態で聞いていた。


 シャツだけでは誰のものか分からないが、グローブは見覚えがある。

 おそるおそるグローブの縁部分をひっくり返すと、細かく縫った跡があった。確かディアナが冬の初め頃にどこかで引っかけていて、「自分で縫ったのですよ」と恥ずかしそうに笑っていたことがあった。


「落ち着け、ルッツ、エーリカ! あれが先生のものだと決まったわけじゃ……」

「先生のものよ! だってあたし、あのシャツに見覚えあるもの!」


 エーリカが悲鳴を上げると、ルッツもまた真っ青な顔で頷く。


「あ、あのグローブ、先生のだよ。ちょっとほつれたところとかが同じだから、間違いない。先生が、血で……怪我して……」

「お待ちなさい! た、確かにあれは先生のものかもしれないけれど、血は別の人のかもしれないし……」

「じゃあどうして、先生は来てくれないの!? 先生の血じゃないのなら、来てくれるはずじゃない!」


 エーリカはすっかり取り乱してしまったようで、レーネに抱きついてわあわあ泣いている。レーネの方も顔が青白い。


「……レーネ、あんたは飯を食え。俺たちはともかく、あんたは飯抜きだと倒れるだろう」

「そ、そうだけど……でも、私もなんだか気持ち悪くなってきて……」

「じゃあせめて、休んでいろ。おまえまで倒れたら困る」

「リュディガー、エルヴィン。このことを先生たちに伝えてきてくださる? あなたたちの方が足が速いし……二人のことはわたくしが見ておくわ」

「……悪いな、ツェツィーリエ」


 ツェツィーリエも青白い顔ながらはっきりと言ったので、エルヴィンはリュディガーと一緒に食堂を出た。


「怪我……ならアルノルト先生を探した方がよさそうだ。エルヴィンは、校長のところに行ってくれ」

「分かった。……なあ、リュディガー。あれは……」

「分かってる」


 リュディガーは走りながらぎりっと歯を噛みしめた。


「……血の付いたシャツと、グローブ。あんな見え見えの工作だが、オレたちの動揺を誘うには十分だったってことだ」


 リュディガーも分かっていたようだ。


 血液の付着した、教員のものと思われる衣類。

 こんなものが生徒の宿舎棟にあれば大問題だが、これを置いていった者の目的は――おそらく、補講クラスの生徒六人を動揺させて、試験不合格を狙うことだ。


 ふと、朝の散歩に出かける際に宿舎棟で見かけた怪しい影のことを思い出す。

 あれは……ひょっとすると、ルッツの部屋の前にシャツを置いた帰りだったのかもしれない。


「……俺、怪しいやつを見かけたんだ。そこでちゃんと調べていれば、少なくともルッツは守れていたかもしれないのに……」

「……おまえのせいじゃないだろう。シャキッとしろ」

「……悪い。だが、こんなことをしてでも先生の邪魔をしたいやつがいたのか……」

「そういうことだろうな。オレたちの中でも特に繊細なルッツやエーリカを狙ったってところがマジで胸くそ悪ぃ」


 もしこれが落ちていたのがリュディガーの部屋の前だったら、彼は真顔でそれを回収してから何食わぬ顔で皆と合流しただろう。

 それでは、意味がない。


 担任の私物らしき血まみれのものを目にして、驚き戸惑い、そのまま食堂に行って混乱を大きくしそうな者。

 そういった生徒を確実に狙った犯行だ。


 廊下の先でリュディガーと別れ、エルヴィンはこれまで一度も訪れたことがないがサボりのときに近くを通ったことがある校長室に向かった。


 そうして、ディアナの衣服が血まみれ状態で生徒の部屋の前にあったことを、校長と副校長に報告したのだが――


「何だ、それは! ディアナ・イステルはそのようなことをしてどうするというのだ!」

「校長。これはイステル先生の仕業ではなくて、別の者の犯行でしょう」

「そ、そんなの分かっているとも!」


 明らかに分かっていなくて副校長に突っ込まれてようやく気づいた様子だが、そのやり取りを見ていたエルヴィンは眉根を寄せた。


 おそらく校長は、犯人ではない。

 なぜならこんなことをしでかしたとしても、校長には不利益しかないからだ。


 補講クラスの生徒が進級できなくなるのはともかく、生徒の宿舎棟で血まみれの衣類が発見されるというのは、校長としては嬉しくない事態だ。下手すれば信用問題として、子どもを学校に通わせる貴族たちとの間に軋轢を生みかねない。


「……お願いします、校長先生。イステル先生をすぐに探してください」

「わ、分かっていると言っているだろう!」

「しかし、妙ですな。今朝の職員用食堂で、イステル先生の姿は見られませんでした」


 副校長の言葉に、エルヴィンはひやりとした。

 せめて、ディアナ本人の無事が確認できればよかった。彼女が現れればひとまず、ルッツやエーリカも落ち着くはずだったのに。


「宿舎棟には……?」

「分からん。だが、面倒なことになっては困るからな、手の空いている者で探させよう」

「あ、ありがとうございます!」

「……全く。今日が試験の日だというのに、生徒を使い走りさせて何をやっているんだ、あの女は……」


 校長がぶつぶつ言っているのは気になるが、ひとまずディアナについて頼むことはできたのでエルヴィンは校長室を後にした。


 廊下を足早に歩いていると向かいからやって来たリュディガーと合流できたが、彼は首を横に振った。


「医務室にアルノルト先生はいなかった。他の先生に聞いたところ、試験の準備をしているんじゃないかってことだった」

「……。……そうか」

「おい、どうするんだ。一時間目の魔法実技の試験まで、もう三十分もないぞ」


 リュディガーに尋ねられ、エルヴィンはしばし考えた後に顔を上げた。


「……あんたは食堂に戻って、皆と一緒に朝食を食べてくれ。そうしないと、時間がない」

「おまえはどうするんだ」

「俺は……時間ぎりぎりまで、先生を探す」

「ならオレも――」

「だめだ。……先生がいない今、ルッツやエーリカが一番頼りにするのはあんただ。……あんたがいて皆を励ませば、なんとか立ち直れる。それは、俺にはできない」


 リュディガーは目を細めて、はっきりと言ったエルヴィンを見つめる。そうして、チッと舌打ちした。


「……分かったよ。じゃ、おまえが腹ぺこで戻ってきたときのためにパンでもちょろまかしておくぜ」

「ありがとう、頼んだ」


 頷いたエルヴィンは、すぐに駆け出した。


 自分はこれまで昼寝場所を探すために、校舎を歩き回ってきた。だから、リュディガーよりは効率よくディアナを探せるはずだ。


「先生……!」


『シュナイト君』


 優しく名前を呼んでくれるディアナのことを思い、エルヴィンは足を進めた。











 何度目かの眠りに落ちそうになったとき、ふと、耳の奥で誰かの声が聞こえた。


『先生!』


(この声は……)


『先生、どこにいるの?』

『先生、無事なんだよね……?』

『どこにいるんだ、先生!』

『早く帰ってきて、先生……』

『先生! 無事に帰ってきて、早く顔を見せてください!』


 生徒たちが、呼んでいる。


(起きないと)


 眠いし体はだるい。

 しかし、これから試験に挑む生徒たちが待っている。


 ディアナはぐっと唇を噛みしめて、無理矢理眠りに突き落とそうとしている力に抗った。


『どうして起きようとするんだ?』


 また、誰かの声が聞こえる。


 優しくて、こちらを安心させるような声。

 まるで、目覚めるのが悪だと言っているかのような声。


『もうちょっと寝ていて。そうしたら、君をあまり傷つけずに解放してあげられるから』


「っ……もう、傷つけているくせに……!」


 声を振り絞り、闇の中でもがく。


 誰かが、ため息を吐き出した。


『本当にいいの? 本当に、目を覚ますの?』


「当たり前っ! あの子たちが、待っているんだから……!」


『そっか、残念だ。……すごく残念だよ、イステル先生』


 そして、目の前が、明るくなった。

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