イシュタルの微笑

中田もな

アッカーの処刑

 「王」とは本来、戦や冒険に明け暮れるものだ。誰よりも早く武器を取り、誰よりも多く敵を討つ。その点において、彼は全く王らしかった。

「陛下、捕虜どもの処刑の準備が整いました」

 見物席に座った王は、小さく首を動かし、部下の言葉に答えた。白装束を着た罪人たちを前に、苛立たしげに視線を送る。

「いいか、一人残らず切り殺せ。内臓までをも八つ裂いて、大勢の前で見せしめろ」

「御意。ではこれより、捕虜どもの処刑を開始いたします」

 少し癖の付いた髪の王は、随分と気が立っていた。彼はキリスト教を左手に、磨かれた剣を右手に、そしてただならぬ願望を胸に、他の偉大な王とともに三度目の十字軍遠征に参加した。しかし、強大な権力ゆえの衝突か、彼らは戦中激しく対立し、中には国に帰る者まで現れた。イスラム教徒からの聖地奪回はおろか、そもそも敵を討ち倒せるかどうか、それすらも怪しくなっていた。

「……全く、忌々しい鮮血だ」

 アラブ人の首が、赤色とともにごろりと転がる。王はそれを見つめながら、吐き捨てるように言葉を零した。腹立たしげな様子を抑えることなく、右手を強く握りしめる。

「サラディヌスの奴め、いつまでも私を弄べると思うな。貴様がその気なら、私とて容赦はせぬ」

 王はイェルサレムのアッコンを攻め堕とし、次いでイスラム側の敵将・サラディヌスと停戦協定を結ぶことになった。しかし両者の交渉は長引き、彼の心境は徐々に悪化した。度重なる出費と、進まぬ協議。ついに彼は我慢に耐えかね、捕虜であったイスラム教徒を斬殺し、経済事情を緩和させるという、短気な手段に出たのであった。

「おい、処刑の者に伝えろ。奴らは我々に奪われまいと、金目の物を飲み込んでいるかもしれぬ。殺した奴の内臓は、ぬかることなく確認しろ」

「御意!」

 金を工面する手っ取り早い方法は、他人の懐から奪い去ることだ。彼はそれをよく理解した上で、死者の臓腑を無残に暴き、赤の海から金を探し出すことを命じた。彼を咎める者は、誰もいない。この場を支配する絶対的な権力は、全て彼の手中にあった。


「ああ、ああ! なんと血生臭い惨状だ! まるで烏の舞い降りし、見るも無残な戦場のようだ!」

 ……王は刹那に顔を上げ、きっと背後を睨む。この鮮やかな見物台に、いつの間にか、知らない女が紛れ込んでいた。彼女は嘆くような台詞とは裏腹に、随分と事を楽しんでいるように見える。

「……誰だ、貴様は」

 王がそう尋ねると、女はにやりと口角を上げ、艶やかな黒髪をなびかせた。黄金の散りばめられた装束は、何とも形容しがたいもので、それでいて美しい。彼女は大きな瞳を細めると、王に何の敬意も払わず、尊大に挨拶をした。

「我が名はイシュタル。数多の戦を駆け巡る、愛と豊穣の神だ」

 ……王は煩わしそうに鼻を鳴らし、処刑台の方を向いた。最早誰がどう殺されたのか、数が多すぎて分からない。

「愚か者が。私の前で神を名乗るとは、恥晒しもいいところだ」

「馬鹿め。おまえこそ、我の名を聞いて慄かぬとは、下劣で無礼な恥晒しだ」

 高みの見物席には、王と女の他には誰もいない。もう少し、頭のおかしい奴を摘まみ出す兵士を置くべきだったと、彼は内心ため息をついた。

「仮に貴様が神であったとしても、私の信じる神ではない。即刻、この場から消え失せろ」

「確かに、我はおまえが信じる神ではない。だが、それが何だと言うのだ? 神はただ存在するだけで、神であることを証明できる。おまえらの信仰心など、我には何の関係もない上に、存在の否定にすらならない」

 女はきっぱりと言い切ると、黄金の神座に腰を下ろした。いつの間に、神の椅子など用意されたのであろうか。それは神にしか分からない。

「さて、『Coeur de Lion』。我がわざわざ、この場に顕現してやったのだ。酒の一杯でも振る舞うのが、神に対する礼儀だと思うが?」

「何だ、その呼び名は。『獅子心王』だと?」

「シチリア島の連中が、おまえに付けた異名だ。『残虐な王』という意味らしいが、まさか神にまで敬意を払わぬつもりではあるまいな?」

 偉そうにふんぞり返る女を前に、王は思わず顔をしかめる。しかし「彼女が女神ではない」と証明することはできず、結局は側近を呼びつけて、なけなしの美酒を振る舞うのであった。

「……貴様はいつまで、この場に留まるつもりだ。貴様を神ではないと否定することはできないが、神であると肯定する気もない」

「いつまで留まるも何も、我は随分と前から、おまえらの戦いを見守ってきた。それこそ、第一次の十字軍が、戦意のなかったイェルサレムを陥落させた辺りからな」

 ……果たしてこれは、女神の語る真実か、それとも狂人の吐く戯言か。王は複雑な表情で、褐色の女の話を聞いた。

「我は愛と豊穣の他に、戦を司る神でもあるからな。血に汚れた戦場をこよなく愛している。気に入った王には力を貸し、時には自ら武器を取り、軍の指揮も行う。ゆえにおまえら人間どもの戦いは、我にとって心地が良い。少なくとも、退屈のしのぎにはなる」

 女は杯に口をつけ、にごり酒を一気に飲み干した。眼前で行われている殺戮など、全く気にも留めない様子で。

「そこでだ、獅子心王。我がおまえに言いたいのは、一刻も早く、この戦況を打破せよということだ。我がせっかく鑑賞してやっているというのに、おまえは軍の仕切りが甘い、サラディヌスは寛容すぎるで、全く我の期待通りにならぬ」

 王は女の言い草に、少なからず腹を立てた。我々の戦いは、面白い見世物とは訳が違うと。だがしかし、彼はその悪態を決して口にすることなく、黙って女の顔を睨んだ。彼女の独特な雰囲気が、それを阻んだのかもしれない。

「いいか、ここ一帯は我の盤上。つまりおまえらの戦いは、我に見捨てられた時点でおしまいなのだ。そのことを、しっかりと覚えておけ」

 ……背後から聞こえる、激しい断末魔。女は首を傾けると、王の携えし剣を指差した。彼女の手首を飾る腕輪が、鋭い輝きとともに光る。

「おまえのその剣……、『エクスカリバー』にかけて誓え。我の遊び場に相応しい戦果を、我に献上するとな」

 女は何故、この剣の名を知っているのか。王は内心面食らったが、彼女がさっさとしろと急かすので、思わず剣をもって十字を切った。騎士道の成す、洗練された純粋な所作で。

「……それが、おまえの示す敬意か。ふん、まあ良い」

 女は王の剣を眺め、すっと黒い瞳を細める。古の祖国の王が使いし剣は、巡り巡って獅子心王の下に渡されたのだった。

「では王よ、我は再び観客席へ戻る。次はもっと美味い酒と、上等な食べ物を用意することだ」

 妖しげに笑った女は、ふっと体を浮かせると、そのまま虚空に姿を隠した。後に残されたのは、天界にて咲く鮮やかな花弁と、処刑台に響く痛々しい悲鳴だけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

イシュタルの微笑 中田もな @Nakata-Mona

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ