砂時計の王子

まこちー

序章

目の前に一つ。小さな砂時計が置かれている。

「まだだ」

低い男の声が聞こえた。華奢な手首が、色白の大きな掌に掴まれる。

「最後まで落ちないと」

ルイスの赤い瞳に男の黒髪が映る。

「正確な時間がはかれないだろう?」



「……起きたのか」

目を覚ますと、ベッドの上だった。

「くっくく……おかしいくらいに『時間通り』だ。あいつ、本当に『一年』をはかったんだな。几帳面な奴だぜ」

男の声が足音と共に近づいてくる。真っ暗な部屋。夜のようだ。ベッドの前で足音が止まる。ルイスは明かりをつけて欲しいと言おうと男を見上げた。

(……?)

「どうした?あいぼ……」

言いかけた男が、首を横に振る。

「ええと、あんたの名前……なんだっけな。呼ばなくてはと思っていたんだが」

あぁ、初対面だったのか。安堵する。どうりで名前が分からないはずだ。

「あんたの名前、俺に教えてくれよ」

「ルイス」

「ルイス……ルイス、ルイス……うん、そうだな。たしかそんな名前だった」

「あなたの名前は何?」

ルイスが聞くと、男は細い紫の瞳を見開いた。

「……まだ終わっていないのか」

男のため息。一拍置いて、ルイスの向かいでドスンと座る音が聞こえた。どうやらこの部屋にはベッドが二つあるらしい。

「いや、そんなはずはない。たしかにあれは消滅した。さっき背中も見た……」

ぶつぶつと言う男を観察する。だいぶ暗闇に目が慣れてきた。しかしまだ輪郭をぼんやりとしか把握出来ないのは彼が真っ黒な服を着ているからだろう。髪と服が真っ黒だ。爪さえも黒に塗っている。

「どうしたの?」

ルイスが聞くと、男が顔を上げる。

「ん?何でもないさ。それより俺の名前だったな。ええと、俺はア……」

「ア……?」

「おっと、もう忘れちまった。たしか一時間前にアイツから聞いたんだが。そのアイツの名前も思い出せないな」

「忘れた?自分の名前を?」

そんな人などいるのか?自分の名前など、一日書かなくても忘れないだろう。友達の名前もそうだ。友達……?ルイスの背中に悪寒が走った。私に友達はいただろうか。いや、そもそもこの男は何なのだろうか。何故自分はここで『目を覚ました』のだろうか。

「俺は人の名前と顔をすぐに忘れちまうんだ。悪いね」

名乗ろうとして失敗した男が言う。顔を見れば誰か分かるかもしれない。今は見えないから誰か分からないだけだ。自分に言い聞かせる。まさか記憶喪失なわけがない。

「自分の名前も一時間で忘れちまう。たしか三文字か四文字だった……いや、二文字だったかもな……」

男の言葉は常人には理解できないものだった。記憶を失う経験がないと、実感がないから。だが、ルイスは何故か分かる気がした。だから恐ろしくなって黙り込んでしまった。

「ぼっちゃん!」

大きな男の声がして、二人は扉の方をみる。「あぁ、鍵をかけていたねェ」

黒い髪を弄りながら扉を開ける男を見つめる。扉が開くと、廊下を照らしていた蝋燭の光で目が眩む。思わず顔を両手で覆う。ガシャガシャと金属の擦れる音が聞こえる。

「外で戦闘が起きています!どうやら賊が王宮近郊の村を襲っているようでして」

「ええと、あんた誰だっけな。顔は覚えているぜ。あ、名乗るついでに俺の名前も教えてくれよ」

「私は従者リヒターであなたはアレスト王子!」

王子?まさか目の前で扉を支えている彼が?真っ暗な部屋で真っ黒な服を着ている男が、王子?

「あ、そうだったそれそれ。アだけは覚えていたぜ」

「いいから!はやく王宮の裏に逃げてください!この部屋には見張りをつけてルイスの安全確保はしますが、あなたは万が一割れたら一大事になっ……!?ルイス!?目を覚ましたのですか!!くっ……聞きたいことは山ほどありますが、とりあえず今は逃げてください!あなたも動けるのならば王子と共に!いいですか、ルイス!あなたはシャフマ王宮騎士団の一員として王子を守るのですよ!病み上がりといえど油断は」

畳み掛けるようなリヒターの言葉の嵐に面食らっていると、アレスト王子に乱暴に腕を掴まれた。そのまま部屋から出され、さらに引っ張られる。蝋燭の灯った夜の廊下を駆ける。ルイスの視界にはアレストの後ろ姿。

「ふふふ……あんた、こいつの話は長いからこういうときは逃げながら聞くもんだぜ」

廊下に出ても、ここがどこかは分からなかった。見覚えのない道を走っていると、後ろからリヒターのよく通る声が聞こえた。

「裏口には騎士団が待機しています!ルイス!すぐに指示を出して騎士団を動かしなさい!私は表に行きます!」


(つ、疲れた)

裏口に着くと、やっと手を離された。すぐに座り込んでしまう。体力がない。まるで何ヶ月も眠っていたかのようだ。

「目を覚まして早々悪いね。いや、俺もあんたとたくさん話したいことがあったんだぜ。しかし、こうなっちまって……くくくくっ……んふふふっ、んふっ……ギャハハ!!!!!」

笑い声。大きく、加減を知らない下品な声だ。先程まで口元に手を当てて喉奥で控えめに笑っていたというのに。ルイスの肩がビクリと跳ね、アレストの顔を見る。破顔している。元の顔をしっかり見たことがないが、破顔していることは分かった。眉尻が下がり、紫の瞳が上を向き、大口を開けて笑っている。

「ギャハハ!!こんなの初めてだぜ!夜の王宮を『合法』的に走れるだなんて!もう二度とないかもしれないねェ!なんて気持ちいいんだ!ギャハハ!ギャハハ!!」

両手を広げて盛大に破顔している男。この男が、本当に王子なのか。ルイスには分からなかった。

「はあっ……はあっ……んんっ。あぁ、取り乱しちまったねェ……。リヒターが逃げろと言った辺りから面白くてたまらなかったんだが、なかなか笑えなくてなァ。あいつ、俺がギャハギャハ笑うと俺の尻を叩いて叱ってくるからさ……。ふふ、もう大丈夫だ」

アレストがルイスの手を握る。今度は優しく。蝋燭に照らされた彼の顔がよく見えた。目を細め、口角を上げて笑っている。

「軍師サン、久々の戦闘だ。腕が鳴るだろう?……行こうか」


(久々の……?)


アレストが裏口の扉を開けると


血の臭いが鼻腔をついた。

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