滂沱の涙

AKIRA

第1話


 その視線には気が付いていた。


 清水沙耶加しみずさやかは急いでご飯を口の中へと運ぶ。

 ふりかけご飯とソーセージが入っているだけの小さなお弁当。激甘の厚焼き玉子が足されるのは時間に余裕がある時だけ。



 高校入学から始まったお弁当ではおかずの好みや量が多い、少ない、という些細な事で母親との喧嘩が増えていた。それならば自分で作る方が早いという結論に至った沙耶加にとって、必ず入っていたプチトマトの様な野菜の彩りは必要なくなっていった。


 毎日ほぼ同じメニューでよく飽きないね、と友達は呆れているけど食べ慣れていて間違いなく美味しい味の方が良かった。



 沙耶加は目線を合わせないようにチラリと視線だけを動かし、前方に座る女性の様子を伺った。


 やっぱり見られてるっぽい。


 薄いブルーのブラウスと黒パンツのシンプルなコーデの女性。


 あの女性、いくつだろう?


ママよりは年下に見えるけど…40代と50代の区別はできそうにもなかった。


 もしかしたら店員に言うかもしれない。あの女子高生がゴミ箱からドリンクカップを取り出しているの見たんです、って。



 全部で30席程あるファーストフード店。店内の中央には小さな手洗い場があり、カップにはその水がたっぷり入っている。それを一口飲むと、沙耶加はゆっくりと周りを見渡した。

 カウンター席には数人がまばらに座り、沙耶加は左端のテーブル席にいる。反対側の右端には初老の男性がスポーツ新聞を広げていた。

 その女性は沙耶加とは真正面に近い通路を挟んだテーブル席にいて、食事は終わっているようだった。



 駅ビルの一階にあるこの店舗は他のファーストフード店に比べれば比較的空いている方で、すぐ隣にあるカフェは常に混雑していて沙耶加はまだ一度しか入ったことがない。


 店の正面とは反対側にもある出入口から入ってきた沙耶加はゴミ箱からドリンクのカップを取り出した後、手洗い場の水を入れて席に座った。

 何も注文せずに。あたかもドリンクだけ買いました、というふりをして。


 無断で席に座るのは今日で…3回目だったかな?


 そもそも、この一連の行為が犯罪にならないことは知っていた。ただ店員に気づかれた場合は追い出される可能性も高い。

 とはいえ、こんな暑い日に公園とか土手でお弁当を食べるのは無理な話。9月ももうすぐ終わるというのに、昼間はまだ30℃近い気温が続いている。


 素早くお弁当を食べ、汗が完全に渇き、身体が冷えきるぐらいになるまで涼んでから帰る。もちろん、一番の理由はお金に余裕が無いこと。水筒は持っているけどさっき飲み干したばかり。

 家でお弁当を食べるとなると、そのうちママが帰ってきてしまう。仕事から帰ったばかりだと大抵、機嫌が悪い。必ず何か言われるに決まっている。それよりはここで時間を潰していた方が楽。


 とその時、女性が徐に立ち上がりトレーを持ってゴミ箱へ近づくのを見て沙耶加は内心ホッとした。


 良かった。別に私を見ていた訳じゃなかったのかも。


 読んでもいない教科書とノートに視線を戻す。お弁当箱はその隙間に隠してあった。

 小さなプラスチック製の箸を使いご飯を頬張る。それから生温い水道水を口に含んでカップをテーブルに置いたと同時に、頭上から影が伸びてきたのに気付いて沙耶加は咄嗟に顔を上げた。

 目の前にはあの女性、沙耶加を見ていると思っていたその人が立っていた。肩にかけたカバンの中から折り畳まれた紙片を取り出すと女性は静かにそれをテーブルに置いた。それは千円札だった。



「これで飲み物買って。それはもう飲まない方がいい」



 沙耶加はまだ口の中にあった水をゴクリと喉を鳴らして飲んだ。女性はドリンクカップをじっと見下ろしている。

 硬直したかのように動きが止まった沙耶加を気にする様子もなく、女性は少し前屈みになり小声ながらも厳しい口調で続けた。



「私、歯科医師なの。そのカップだけど、他人が口をつけた物ってあなたが思っているより危険な細菌が沢山ついているから」



 それだけ言うと女性は去っていった。


 数十秒後、弾かれたように席を立った沙耶加は無造作に千円札を掴むと女性の後を追って店を出た。


 外に通じる自動ドアが開いた途端、沙耶加の顔には雑踏のざわめきと共に蒸し暑い空気が熱波のように押し寄せてきた。駅前の人混みの多さに一度立ち止まり、女性の姿を探していく。


 ブルーのブラウスに黒パンツ。髪型は…どんな感じだったかな?…。


 少し先にいる大柄な男性の近くにあの

女性らしき後ろ姿を見つけると、沙耶加は一気に走りだした。その勢いのまま女性を追い越し目の前に立ちはだかる。



「あの! これ返します。お金なんて要りません」



 くしゃくしゃになったお札を女性の面前に突き付ける。

 そんな沙耶加の様子を見ながら女性はゆっくり首を傾けながら言った。



「ああ……そう。なら、そのお金はどこかに寄付でもしてくれる?」

「え? それは……こ、困ります」

「困る? 何が?」

「何がって……だって……私のお金じゃないし」



 戸惑いながらも何とか答える沙耶加の心臓と頭は共鳴するかのようにドクドクと音を立てて響き、お札を握る右手がかすかに震えていた。その事を女性に悟られたくなかった。何故かは分からない。ただ動揺している事に気付かれたら駄目な気がした。


 女性は一切表情を変えないまま沙耶加にキッパリと告げる。



「あなたに渡した以上、もう私のお金でもないから。好きに使って」



 女性はそのまま歩きだすと一度も振り返ることもなく人混みに消えた。


 強い日差しを避ける為にビルの日陰を歩く人達が沙耶加の横を足早に通りすぎていく。足元のコンクリートは熱を発して容赦ない照り返しを放ち、首筋から流れる汗が制服の襟元を濡らしていく。

 掴んでいた千円札が湿り気を帯び、沙耶加は手の平の中で次第に柔らかくなるのを感じていた。



*********




 住宅街の裏通りにある小さな公園は長方形の敷地にブランコとすべり台しかなく、近所の子供が遊ぶ姿ですら滅多に見ない。花壇にはまばらに花が咲いてはいるものの、乾いた茶色の土の方が圧倒的に面積が多く、それが余計に寂しげな印象を与えている。


家路の途中にあるその公園へ辿り着いた沙耶加は木陰の下にある花壇の縁に腰掛けていた。暫くはただぼんやりと座っていたが、バッグから弁当箱を取り出すと膝の上に乗せて蓋を開けた。


 ファーストフード店から逃げるように店を出た為にまだ食べ残しがあったからだ。

 少し固くなったご飯を口にする。


 冷たいな。


 暑い日に冷蔵庫に入っているおにぎりを冷たいまま食べるのは好きなはずなのに、今食べている白米は味のしないグミを食べているかのようで不味い。

 それでも食べ続けていると、弁当箱にポタポタと水滴が落ちていくのが分かった。沙耶加は泣いていた。


泣くつもりなんてなかったのに。

そんなに酷いことを言われた訳でも、そんなに辛い出来事でもないのに。


 今、スカートのポケットには千円札が入っている。店に置いていこうかとも思った。誰かがラッキー、って思って拾ってくれれば。


 むしろ自分がそう思えれば良かった。何もしないで千円貰えたって喜ぶことだってできたはず。でもそうは思えなかった。

 お金を貰う事に対しての罪悪感を持ちながら、それでも置いていく事が出来なかった。

 千円あれば買える物をあれこれと考えてしまったから。


 それを恥ずかしいと思った。


 ゴミ箱からカップを取り出す行為を恥ずかしいと思った事はない。むしろそれを思い付いた自分は凄いと感心したぐらい。


 なのに、今は酷く自分が恥ずかしい。


 食べ終えたお弁当をカバンに入れると代わりにタオルを引っ張り出した。小さいとはいえ、公園の周りは住宅が広がる。大きな声を出す訳にはいかない。


 タオルにグッと顔を押し当てる。すると徐々に呼吸が浅くなり、それまで抑えていたかのように嗚咽が漏れていく。溢れ出る涙にはもう逆らわなかった。


 不思議と頭は冷静になっているのに様々な感情、それは悔しさ、悲しさ、戸惑い、怒り、そのどれもが当てはまらないまま混ざり合う渦となって猛烈に駆け巡り、心の中で引いては押し寄せてくる。その波をどうやって止めればいいのかが分からない。

 幼い子供のようにしゃくりあげるような泣き方ではなく、タオルから漏れ出る、ヴーという声が断続的に続いていく。


こんなに泣くのはいつ以来だろう?

中学の卒業式?かもしれない。

でも感情が違う。全然違う。


 幸いな事に近くを歩く人の気配は感じなかった。少なくとも、誰かに心配されて声をかけられるような面倒な事にはならずに時間だけが沙耶加の平穏を待ってくれていた。



 どれぐらいの時間そうしていたのか、時計を見て確認することはしなかった。やっと呼吸だけは落ち着いて来たのが分かると沙耶加は埋もれていたタオルからゆっくりと顔を上げる。


 家に帰ろう。


 ママと顔を会わせる前に急いでシャワーを浴びて泣き腫らした顔を隠そう。それからご飯を沢山食べる。

 確か、今日の夕飯は五目寿司を作るって言ってた。甘くしてくれるって。

 だから家に帰ろう。



 沙耶加は深呼吸を繰り返してから勢い良く立ち上がるとバッグにタオルを押し込みながら足早に公園を出た。


 まだ涙は止まりそうになく、ハラハラと眼からこぼれてくるのを軽く手で拭う。周りからは汗を拭いているように見えるはず。ただその目が赤く腫れているのは鏡を見なくても分かる。それでも、いつもより力強い靴音を鳴らしながら沙耶加は歩き続けた。


 大通りの広い交差点に出ると青信号が点滅し始めたのを見て沙耶加は早歩きで歩道を渡る。その頭上には交差点を横切るように鉄橋と高速道路が並走しながら空を覆う。巨大な鋼鉄とコンクリートの塊によって押し潰されそうな程の隙間からは、薄桃色の夕焼け空が僅かに見えた。




 了

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