雷鳴と泳ぐ暗雲の捕鯨師

雨籠もり

暗雲と泳ぐ雷鳴の捕鯨師

 飛行機の通過音を聞いた。と、意識が覚醒すると同時に思考した。心臓を中心にして、徐々に全身に感覚が蘇る。皮膚に触れる芝生の感触。濡れたアスファルトの匂い。まつ毛に付着した露の色。そのすべてを把握できるほどに五感が戻ったとき、僕は、その思考が間違っているのだ、ということを認識した。

 雨は降っていない。

 その代わり――黒い雲が、夜の闇の中を通り過ぎていた。

 あれは飛行機の通過音じゃない。雷鳴だ――と気付いたころには、僕はすでに立ち上がっていた。身体が無意識のうちに反応している。久しぶりの感覚に、全身が殺気立っていた。ゆっくりと呼吸を繰り返し、心拍の波長を整える。


 世界に雨が降らなくなったのは、随分と昔の話だ。

 文明が到達点に触れたとき、第三次世界大戦が勃発し、あらゆる最先端の能力が結果的に失われた。科学知識は戦争知識へと結びつき、五百年に近い戦争は人類を衰退へと誘った。文明はずるずると頽廃の道を辿り、世界は前時代的な様相に回帰しつつある。

 その副反応として――或いは唯一、世界の進路がただねじ曲がり、元の軌道に戻っただけではないことの証明として――世界に、雨は降らなくなった。科学技術を失ってしまった時代の住人たちにとって、農作のキーポイントでもある雨天を望めないのは、致命的な出来事だった。

 僕が生まれたのは、そんな時代のとある静かな夜のことだった。


 僕は傍に置いていた銛を手に取ると、片手で一回転させて持ちやすい位置に移動させ、直後、風を切ってまっすぐに走り始める。視界、暗闇の地平線には、幾つかの真っ赤な炎が揺れていた。その炎を辿るようにして疾駆する。草原を踏み馴らし、岩石を飛び越えて、炎の連なるレーンの上を、ただ足を交差させることに集中する。

 炎、正しくは松明を持つ彼らは、戦闘の為の孤児ではなかった。彼らは僕に対して、『奴』の移動経路を伝える役割を担っている。『奴』の動く方向、速度に合わせて移動し、『奴』の進む道のりを僕に通達して、順序よく狩り――『捕鯨』を完遂させようとする。言わば彼らは道標であり、弾丸を通す銃身であり、飛行機を飛ばす滑走路でもあった。

 そして僕は、弾丸そのもの。

 飛行機そのものだ――飛び出して、鯨を狩る。


 シュタイナー・オコナーズという生物学者が昔、いた。

 シュタイナーは世界各地を巡って雨の降らない理由を探っていた。アラスカから始まり、アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジア、オーストラリアと渡り続けて、南アメリカに戻ってきてようやく、彼はその原因を、或いは片鱗を発見した。シュタイナーはその時の様子を、彼の遺した手記にこう記している。

『南アメリカ上方の国、ベネズエラには、ロライマ山と言われる巨大な岩山がある。普通の山のような三角錐型ではなくて、美しい四角形、立方体の形をした特殊な山だ。

 私はその日、部下と共にロライマ山を登っていた。ロライマ山は雲よりも高い。もしかしたら、雨の降らない理由となっているものが見つかるかもしれない、という興味からの登山だった。しかし、次第に天候は荒れ始め、雲が集積し、雷が鳴り始めた。

 雷は高い位置にあるものにほど落ちやすい。しかし今更、引き返すことが可能な位置にいるわけでもないので、仕方なく、死に物狂いで登頂した。幸いにも、雲の上はやはり晴れていて、私と部下はそこでようやく一休みすることができた。

 足下では雷鳴が轟いている。私は、悲鳴じみたその音を聞きながら、大きな溜息をついた。部下が水筒を取り出して、私に向かって一杯どうか、と尋ねてきた。私は喜んで頷き、彼の手渡すカップを手に取る――と、その時だった。

『あれ』が、雲の合間から顔を出したのは、その時のことだった。

 白色の――まるで、爆弾。

 巨大な、巨大な――神の御手。

 形容するならば――ノアの方舟。

 部下は絶叫し、私は絶句した。


 それは、鯨だった。


 大きなひれを、まるで翼のようにはためかせて、彼は雲の合間をのっそりと行き来すると、時折、思い出したかのように口を開いては、集積している雲を一飲みに捕食していた。

 全長は、何メートルあるのだろう――十メートル? 二十メートル? いいや、もっとあるだろう。ひょっとしたら、並のシロナガスクジラより、大きいかもしれない。戦前は飛行船というものがあったらしい。あれがもし、今も存在するならば、いい勝負ができるだろうか……いいや、不可能だろう。

 私はその時、確信してしまった。

 納得してしまったのだ。

 あれは――神なのだ。まるで神そのもの。

 神の意識が、愚かな人類への鉄槌として具現化したものなのだ。

 大きな口が、入道雲を丸ごと飲み込む。

 部下が私の袖を引っ張って、大声で叫んでいた。

 だがしかし、彼の言葉はすでに私には聞こえなかった。

 鯨は大きく、まるで異界に通ずる亜空間のような、その口を開く。

 ほどなくして、咆哮が放たれる。』


「ピィ――ッ」と、汽笛が鳴った。

 僕はその方向を見て、合図が正確に通じたことを認識する。僕は疾走のスピードを汽車の速度よりも少し速いくらいに調整してそれから、飛び乗るためにわざと低く作られた荷台のうえに向かって跳んだ。慣性の法則を、荷台そのものを掴むことによって相殺する。ゆっくりと立ち上がり、先頭車両に向かって歩いた。

 客室にはまだ人が残っていた。

 乗客たちが、突如現れた僕のことを、好奇心の溢れた瞳で覗き見る。彼らの瞳に、僕はどんなふうに映っているのだろう。ボロ切れを身にまとった浮浪児か、巨大な銛を担いでいる不可解な戦士か。どちらにせよ、いいものに映ることはないだろう。だがしかし、構わない。国の矛先として生きる僕たちに、人間としての欲求など、すでに微塵も残ってはいなかった。

 前方の扉が開く。黒衣に身を包んだ男が現れると、僕に向かって敬礼をした。白色の手袋が素早く移動する。ポケットに縫い付けてあるバッヂを確認した。どうやらこの汽車の車掌であるらしい。

「お初にお目に掛かります、捕鯨師殿。」

「車掌さん――機槍甲砲の準備は?」

「すでに終了しています。貴方様を待つのみでした。」

「そう。それじゃあ、始めましょうか。」

 車掌は無言で頷いて、振り返って元来た道を戻っていく。僕はその背中を追って歩く。乗客たちの視線がそれに合わせて移動する。素足の裏に、木製特有の冷たさがじんわりと刺さった。


 雨が降らないという異常気象の原因は、シュタイナーの発見した、空を泳ぐ巨大な鯨だった。彼らは空を徘徊して世界中の雲を喰らい、番を探して子を作り、産み育て、そうして数を増やしていく。今や世界中の上空にその鯨はいた。戦後、文明が衰退し、飛行機など、空を飛ぶ機械が完全に廃滅してしまったことが原因だった。あの美しい空は、幾年も昔から、すでに人の手の及ばないところにまで離れてしまっていたのだ。

 残された世界の住民たちは思考する。

 どうすれば喰われた雲を解放できる?

 どうすれば鯨に雲を食われないようにできる?

 アンサーは二秒で解答権を得た。

 鯨を殺せばいい。

 そうして発足した――それが、初期の捕鯨師団だった。

 捕鯨師団はあらゆる技術を駆使して鯨を狩ろうとした。

 捕鯨方法にはありとあらゆる歴史がある。その中から、効果的なものを選び取る必要があった。まず、試されたのが銃殺捕鯨だった。初期の捕鯨師団は十人一チームが二十個の、全員がもと兵士という構成だった。捕鯨師たちは炸裂弾を用意し、鯨に対し地上から砲撃を行った。

 しかしその結果は悲惨なものだった。着弾はするものの、鯨に明確な傷を与えるには至らなかった。ただ弾を無駄に消費するだけの毎日を繰り返すうち、とうとうある日不発弾にあたり、団の全員が死亡した。

 その事件をきっかけに、戦争の陰惨さを思い出した住民たちは、銃殺捕鯨を極端に避けるようになった。戦争の歴史は住民たちにとって、とても深い傷として遺っているようだった。そんなこともあって、捕鯨師に立候補する人間がとうとういなくなってしまった。

 そこで政府はとある決断を下す。

 それはある意味で最良で、ある意味で最悪な手段だった。

 戦争孤児を――捕鯨師団に適用する。

 いなくなっても誰も悲しまない、むしろ、いなくなってくれた方が国としては有難い、そんな子供たちが集められて、捕鯨師団として次々に死んでいった。人間を鯨の居場所へと発射する実験、飛行機のテスト飛行、新しい炸裂弾の威力テスト――実験者にとって、被験者の命は安いほうが遥かに良かった。

 そうやって、おびただしいほどの犠牲が重ねられた末に。

 ようやく――たったひとつの、捕鯨方法が見出された。

 世界に雨を降らせる方法だ。


「それでは、行きますよ」

 汽車の最前列――『機槍甲砲』のある車両だった。

 機槍甲砲とは、巨大な槍と共に捕鯨師を発射するための装置だった。樹齢五百年以上の木を伐採し、その中心部分を抜き出して、鋭く鋭利に、滑らかに平滑に、美しく美麗な、大きな槍そのものを彫り出す。その槍を、捕鯨師と共に発射する。そこからこの捕鯨方法、『紫電捕鯨』の手順は始まる。

 キィ、と小さな音を漏らして、機槍甲砲が短く振動を開始する。

 まるで人間が、冷たい冬の大気に触れて、その鋭さに凍えているみたいだ。

 文明は衰退して、人間に近づいた。けれどもやはり、完全であることは非現実じみていて、欠けていることこそが唯一、人間に残った人間らしさであると、僕は心の何処か、その白い部分に向かって考える。僕よりも先に死んでいった捕鯨師たちの叫びが、まるでその場に滞留しているかのような、そんな冷たい息苦しさが、僕の心臓を強く縛り付ける。

 僕は強く、強く目を閉じる。

 そして、もう一度だけ、深く息を吸った。

「――行きましょう」

 僕が言う。

 直後、無理矢理世界を引き裂いたような、絶叫じみた音が鳴った。

 一瞬の無重力。

 直後、僕と機槍甲砲は、あまりにも深い夜の暗闇に放り出される。左手に握る機槍甲砲の窪みだけが、僕を此岸に結びつけている。唸るような風とまるで競い合うかのように、夜の背景が高速で過ぎ去っていく。不意に、壊れた映写機の取り残された劇場で、始まらない映画を永遠に待ち続けているかのような、そんな焦燥と寂寥が溢れ出した。

 目を見開く。

 身体中に血液の流動を感じる。

 心拍は加速し、呼吸は徐々にそのピッチを上げていた。

 はるか上空に、鯨のその大きな腹が現れる。その背景に紫と青と黒の混ざった星の色が見える。僕は銛に被せてある布を、風の勢いに晒して一気に剥ぎ取った。隠れていた銀色のボディが月光を跳ね返して光る。純粋な刺突のみを目的とした荒々しいその姿は、野獣の牙や、巨獣の骨を思わせた。

 鯨ののっぺりとした目が、不意に開き、その眼球が僕を捉える。

 月光の白色。

 暗闇の黒色。

 手中の銀色。

 天翔る紫色。

 くう、と空気を吸った。そしてそれきり、口を閉ざした。

 覚醒。

 直後――機槍甲砲は鯨の腹部に深々と、突き刺さった。

 鯨は巨大な咆哮をあげて、大きく身体を逸らした。急停止した機槍甲砲の反動をそのまま利用して、僕は全身を回転させながらさらに上方へと身体を飛躍させる。銀色の銛を夜空に向かって高々と掲げた。眼下には鯨の白色が見えている。

 一拍――たった、一瞬きを挟んで。

 そして、轟く雷鳴が――紫電が、銀の銛に激突した。

 思考するまでもない。

 雷が銛に落ちたのだ。

 紫電捕鯨。

 その終着点は、この構造にある。

 彼らは雲の中の水分を養分とする。

 すなわち、彼らは他のどの生物よりも、水分の割合が大きいのだ。

 圧倒的に。

 だからこそ。

 彼らは尽く――感電に弱い。

 身体中に激痛が走る。

 僕は歯を食いしばり、銛を握る手をさらに強める。

 白銀の銛、その全身に、高鳴る紫電が絡みつく。

 月光を背景に、僕は大きく上半身を逸らした。

 大きく振りかぶった銛を、力の限り振り下ろす。

 重力加速度を全身に受けながら、加速する僕の身体は、一瞬にして鯨の背中に到達していた。雷を十分に保有し、その刃先に紫電を滑り這わせるその銛が、深々とその真白の身体に突き刺さる。鯨は再び、張り裂けそうなほどの絶叫をあげる。

 それが、狩りの終了。

 捕鯨の終わりの――合図だった。

 雲をたらふく飲み込んでいた鯨は、その刺突を皮切りに、突発的に大きく膨らむと、瞬間、鋭い爆発音と共に、破裂した。体内に保有されていた水が一気に解き放たれ、この地にようやく、雨が降る。

 終わった。

 そう、思った。

 きっと、役割を終えたことを理解して、安心を得たのだ。

 熱くなった頬に、冷たい水滴がぶつかる。

 銀の銛をそっと抱いて、そのまま僕は目を閉じる。

 感電した身体は、すでにまともに機能していなかった。

 意識が段々と、絶たれていく感覚があった。

 全身が、ゆっくりと下を向く。

 夜の世界は、不思議なほどに静かだった。


 ずっと、空を飛ぶのが夢だった。

 大空を駆ける銀翼の機体。映像にのみ残された人類の栄光を、僕は暇を見つけては、繰り返し繰り返し眺めていた。飛行機が空を駆けるとき、大地を、天空を、雷鳴のような音が通過する。その音に気付いた人々が、次々に空を見上げる。両翼をまっすぐに伸ばした飛行機が、大地に影を下ろしている。

 飛行機を作るには、あらゆる知識と機材が必要だ。

 孤児である自分がそれらを揃えるためには、足りないものがやまほどある。

 まだ死ねない。


 僕は肺を思い切り殴る。

 くは、と息が漏れた。振り返って地上を見る。

 意識が徐々にその形を取り戻す。

 点々と灯る光を見下ろして、僕はパラシュートを解放した。

 一瞬、引き止めるような力を感じてそれから、落下のスピードは徐々に緩やかなものへと変化していく。鯨を狩るのはこれで十一度目だった。国内外を比べても、僕以上に鯨を狩る人間はいない。大半が、感電のショックで気を失い、パラシュートを開けないからだ。

 意識が残り続ける限り、僕は鯨を狩り続ける。

 あと何匹狩ればいい?

 分からない。

 この生活がいつまで続くのか、それすらも。

 僕はまだ子供で、何も知らない。

 知っている大人が僕らの手を取り、鯨を殺せと呼びかける。

 シュタイナーは鯨のことを神だと言った。

 けれど僕にしてみれば、それは大いなる勘違いだ。

 あれは神ではなくて、人間の悲しみだ。

 鯨たちに触れる人間だけが味わう、あの形容し難い寂寥。

 人の死と、夢と、記憶の集積なのだ、あれは。

 不自由で不器用で不思議な、あれこそ本当に人間に近い。

 神は完全で、しかしそれは、人間を超越する部分ではない。

 人は欠けているからこそ、完成しているのだ。

 補完されている生命など、作り物でしかない。

 造花が本物の花を超えられないように。

 神もまた、人間の模造品でしかない。

 だから鯨は、あんなにも悲しく鳴くのだろう。

 浮遊感が全身を支配する。力が抜けて、微睡みが全身を包み込む。

 揺りかごに揺られているような、安らかな心。

 目を閉じると、世界が消える。僕は闇の中にひとり、震えている。

 世界から、隔絶されている。

 暗闇の中に、飛行機の通過音のようなものを聞いた。

 僕は、地平線の彼方へと飛ぶ飛行機の姿を想像する。


 震えるエンジン。回転するプロペラ。

 耳のすぐそばを通り過ぎていく風。

 太陽の光に吸い込まれる赤い塗装。

 意識は空に墜ち、生命は浮かび続ける。

 ただ、僕の悲しみだけが、確かな推進力を保っていた。

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