6章 -αlice in Nightmare-
31.夢のアリスは明晰の鏡
喉を焼く甘ったるい香りが漂う。
蜂蜜の、チョコレートの、生クリームの。
かすかに混ざる酸味を片っ端から食べる甘い匂いに、ゆっくりと目を開ける。
光を取り込んだ目に映るのは、淡い蜂蜜色の世界。
まるで粘性の低い蜂蜜の海の中に沈んでいるようで、体も軽く感じる。
息は出来る。
液体も不思議と口には入らず、ただ浮遊感のある空間にいるだけみたいだ。
「あれ? あたし眠ったはずだよね。ここってどこ何だろう」
見渡しても果て無く蜂蜜の世界。
空に流れるのは生クリームの雲、地面には珊瑚の形をしたチョコレートが咲いている。
雲から落ちて来ているイチゴやレモンとかの柑橘類は、次第に溶けては地に着いた時点で細やかな粒として世界に溶け込む。
「夢以外に有り得ないよね、こんな事」
こんな創作物染みた世界は、夢であるに違いない。
そうなると夢だと自覚できる状態になる事に、名前があった筈。
なんだっただろうか。
確か、はるが何気なく言っていたような……。
「明晰夢、だったっけ」
自信は無いけれど、そんな名前だったと思う。
足を付けている肌色の地面は柔らかく、どうやらパン生地で出来ているみたいだ。
水の中の感覚も合わせて、余計にトランポリンとして跳ねる地面。
現実みたいには勢いは無く、昔に見た事が有る月面を歩いているようだった。
「しっかし酷い世界ね。こんなので喜ぶのは
思い浮かべるのは普段はまったりと笑っている親友の顔。
こんな世界が有ったとしたら、きっとそこら辺のお菓子とかを食べてしまうだろう。
「……はぁ。だからこんな世界なのかな」
夢に出てくる内容は、現実で起きた事態や本人の精神状態に関係する。
確かな事ではないけれど、落ち込んでいる
こんな世界だったら、例え短い時間だとしても
はるが変に雑学を吹き込んでくる所為で、らしくもない推測が立ってしまう。
「だとしたら、あたしが見ても意味が無いんだけどな」
この夢をあの子と共有できれば良いのに。
そんな身も蓋もない考えが過ぎってしまい、頭を振って無かった事にする。
どうやっても出来る訳がない方法なのだから、考えても仕方がない。
蜂蜜の空を飛ぶペンギンの群れ。
くちばしは切り分けられた果物で出来ていて、空の光を反射する綿飴の翼を生やす体は、柔らかなスポンジで出来ていた。
空から降る太陽ではない光はいったい何なのだろう。
夢のなのだから気にしてはいけないのだが、照らす物が見えないので疑問を持ってしまう。
そんな疑問を他所に、柔和な色が降り注ぐ中を群れから離れて一羽だけがこちらへ向かってくる。
瑞々しい赤いザクロのくちばしを持った、あたしのお腹ぐらいの大きさのペンギンだ。
「ようこそお姉さん、夢の世界へ。ボクの名前はロア。この世界の住人だよ」
「あたしは……」
言葉が詰まる。
何当たり前のように自己紹介をしようとしているのだろう。
真っ赤なザクロの実の瞳に、無邪気な少年の印象がこのペンギンにはあるが、かと言ってこんな不思議な状況で気を許して良いのだろうか。
危なっかしいからと口うるさく言われていたことを、二人で共有しているようなものだ。
この世界が本当に夢のは分かった。
不思議生物が喋りもするし、あたし自身の意思で動くことが出来るのも理解できた。
目の前のペンギンは幼い子供で、公園で見かけた年上に声をかけて一緒に遊ぼうと、そんな感じで話しかけてきたのだろう。
これは夢のなのだから、そんな事もあるだろう。
都合の良すぎる展開だと、この世界と同じ甘ったるい考えだと、心の隅の悪意が笑う。
「――何だ。ちょろい奴かと思ったら、案外冷静じゃん」
クリーム色の空が茜色に染まる。
それはオーブンの中と同様に、蜂蜜の世界へ高熱を与えていく。
空を漂うペンギンたちは破裂し、黒い欠片と赤いジャムをパン生地へ垂らしていく。
様々な香りをばら撒くジャムに混じり、焼けた炭の臭いも主張を強めていく。
目の前にいるロアは、潰れた瞳からジャムを垂れ流し、体を膨張させていく。
さながら熱を咥えられて膨らむパンの如く、中身を噴き出しながら巨大になっていく。
その大きさは十メートルぐらいか。
スポンジの体からはジャムが漏れ、綿飴の翼は蜂蜜を吸い熱されたのか、焦げ茶色の固形へと変わる。
くちばしからは絶えることなくザクロの実が弾け、地面へ落ちるたびに地震を起こしていく。
『やっぱり世の中甘くないよね。脳みそスポンジ女かと思ったけれど、ボクとしては有り難い事よ。お花畑と入れ替わるのは嫌だなーって思ってたから』
「ちょっと、いくら何でもこれはヤバイ。夢は夢でも悪夢じゃない!」
ロアの話なんて聞かずに、あたしは背を向けて走り出す。
正確には跳ねるなのだけれど、ともかく少しでも遠くへと離れることに専念する。
怖いと言えば怖いけれど、見た目がまだファンシーよりなので若干の余裕はある。
これがゾンビだとかホラー系の見た目だったら、どうなってたかは分からない。
『正解だよお姉さん。ボクは悪夢さ。だからこれから悪夢を存分に見せつけるんだよ』
「十分、悪夢、だってーの!」
飛べる事だろうから、こんな足で稼いだ距離なんて一瞬だろう。
加えて未だに気温が上がっているので、脱水症状が起きるのは時間の問題だろう。
慣れない足場にサウナ同然の気温。
溢れる汗を拭いながら走るけれども、一歩一歩が遠く感じる。
「ああっ、もうっ……!」
未知への焦りで考えがまとまらない。
いったいあたしはこれからどうなるのだろう。
ロアに殺されたら、脱水症状で倒れたら、それとも別の事でどうにかなったら。
何一つ展開が予想できない。
ここは現実では無いのだから、死ぬぐらいは大丈夫では無いのだろうか。
なのに何であたしは焦っているのだろう。
あのロアの言葉が嫌に心へ刺さっていく。
常識の枠外、非常識しか起こり得ないこの世界が、何よりも理解できない。
助けて欲しい、一刻も早くこの場から。
『お姉さんはもう終わりさ。ボクが貴女を殺せば、ボクは貴女として現実に戻れる。またあの苦い現実へ。甘ったるい生活とはおさらばさ』
何を言っているかは分からないけれども、自分の身が危険だという事は理解できる。
あのロアに追い付かれたら、その時点で何もかもが終わりになるのだろう。
それだけ分かれば十分だけど、助かる為の何もかもが足りない。
あたしの背を押してくれる春風も、あたしの手が震えない様に握っていてくれる花束も。
今この場にはいないのだ。
ほんの
「誰でも良いから、せめて――」
せめて闇に還る前に、大切な人へ言葉を送りたい。
何も言えずに皆の前からいなくなるのは、嫌だ。
地面が裂けるほどの揺れがあたしを襲ってくる。
後ろを振り向くと、巨体を跳ねらせて翼を広げる膨張したロアの姿が有った。
嘴を大きく開き、口元からはジャムを吐き出しながらもこちらへ迫ってくる。
避けるなんて大層な事は出来ない。
ただ、意識が無くなるまでの数刻を呆然と待つだけ。
『――せめて楽に殺して下さいお願いします。なんてね。そんなことを悪夢がする訳無いでしょう』
『グッ! ああもうちくしょう! 何だよ誰だよ!』
鼻に付く笑い声が、青い光と共に後ろから駆け抜ける。
ロアの片翼に穴が開き、そこを中心に暗色の炎が飴の翼を溶かしていく。
軌道が逸れて全く別の場所へ墜落していくロアは、炎を消す為に地面でもがいている。
暴れるロアを眺めながらも、あたしの心は最初の一言への反感に染まっていた。
大切な人へ伝言をお願いしたいと思っただけで、誰もそんな事を言おうとしていた訳では無い。
ふざけた代弁の上に、その声に助けられたと思うと腹が立つ。
そんな嫌な奴はどんな奴だと振り返ると、あっという間にロアへ向けて影があたしの傍を通り抜ける。
一瞬だけ捉えることが出来た黒い猫の仮面。
後を追っても見えるのは高速で動く黒い影のみ。
「何なの、あれ」
『悪夢は悪夢らしく、悪意を重ねて塗り潰してドロドログチャグチャになった夢を……』
気持ち悪くなる笑い声が、甘い世界を侵していく。
苦いでも、辛いでも、酸っぱいでもない。
味覚を歪ませるどす黒い汚物が、これが真の味だと嘲笑う。
『泣き叫ぶ塵に捻じ込むんだよ。苦痛の中で生かされろってね』
*
地面を蹴りロアへ向けて落ちる仮面の人物――アリスは、腰のポーチからスペードのカードを取り出して、右手に持った拳銃へ
拳銃から
消える炎から現れるのは、元の拳銃に造形が似た突撃銃。
それを腰辺りで構えた彼女は、目下で炎を消そうと暴れているペンギンに向けて引き金を引く。
無慈悲に火を噴く突撃銃は、連続する爆音に合わせて青い流星を吐き出し続ける。
『ぐぁぁぁぁぁあああああああ!』
スポンジの体に穴を開けられ、青い粒子とジャムをまき散らすロアの叫びは銃声によってかすれていく。
アリスは落ちながらも、
激痛に苛まされるロアは当たる銃弾の動きで意図を感じ取り、残る片翼で地面を叩いてはその衝撃で体を浮かせる。
必死に体を転がして銃弾の軌道から逸れていくロアをアリスは追わずに、地面へ降りては再びポーチへ片手を突っ込む。
取り出すのはクラブのカード。
それを三枚も手にした彼女は、まとめて突撃銃へと装填する。
片膝立ちで座り、肩に銃床を当てた構えをとるアリスは、照星を覗き込む。
突撃銃からは青い雷が
アリスから伸びる尻尾が銃倉に繋がると、次第に白は黒に染まっていく。
『
青いクラブのマズルフラッシュから放たれた弾丸が、音を超える。
今までの銃撃とは比べ物にならない速度で飛翔する弾丸は、容易くロアの体を貫き去る。
撃った衝撃に耐えられなかった銃は、真っ赤に熱を帯びたまま分解され、無様に破片を散らせて青い粒子へと還っていく。
穿たれた傷は大きい物ではないが、他の傷以上の粒子が漏れ出している。
『アイツまだ生きてるよ、どうするどうするアリス』
今度はスペードのカード。
それも五枚も取り出し、暗色の火にくべては高らかに空へ掲げる。
昇るくすんだ青の灰は天へ溶け、少女の
ロアの頭上に作られていくのは、1メートルも無い鋼鉄の弾丸。
鈍い黒に染まった弾丸は、作り終わるや否や重力に逆らわず落ちていく。
『うわ、それ使うんだ。それじゃあさようなら』
落ちてきている物が何なのか理解できないロアを置いて、アリスの姿はトランプへと変わりこの世界から消えていく。
ロアが見つけた少女の姿も無く取り残された彼が最期に見たのは、全てを真っ白に焼き尽くす
蜂蜜の世界にほんの数秒、純白の花が咲き誇る。
*
『まったく何時まで経っても我が儘だねぇ、アリスは』
「――いたっ。えっ、何。何がどうなったの」
巨大なペンギンへ黒い塊が落ちた所までは覚えている。
轟く銃声と雷鳴も、耳に刻まれている。
なのにあたしは今、この世界へ来た時と同じ光景を目にしている。
さっきまで目の当たりにしていた非日常なんて無かったかのように。
違うのは、目の前に黒い女の子がいるという事だけ。
暗い配色の不思議の国のアリス。
不気味なチェシャ猫の仮面をかぶっており、振られる尻尾が炎みたいに揺らめいている。
『今更一人二人。善行を積んでも誰も覚えていないよ』
「えっと、貴女がアイツから助けてくれた人?」
『そうそう見ず知らずの他人をついつい助けちゃう、馬鹿で愚かなお人好し。それがこの子だよ』
聞こえてくるムカつく声とは違い、女の子はしりもちを付いているあたしに手を差し伸べてくれる。
この声は仮面からなのか、女の子の声なのかは分からない。
あたしを起こそうとしてくれているから、悪い人では無いとは思うのだけれど、さっきのペンギンの事もあり素直にその手を取れない。
そうやって宙を彷徨う手を、彼女は掴んできて体を無理矢理起こしてくれる。
『言ったはずだよお人好しって。悪夢嫌いのお人好し。それがアリスなんだよ』
「アリスって名前なんだ……。いや流石にそれは無いか。匿名って奴だね」
もしかしたら本当かもしれないけれど、安直すぎるし聞こえる声がずっと笑っているので違うのだろう。
どう話していても遊んでいる印象しかなく、この声は信用が出来ない。
「改めて、助けてくれてありがとう。あたしの名前は
返ってくることの無い声に、どこか懐かしさを覚えてしまう。
反応が決してなかった訳では無かった。
ただどうすればいいのか分からないみたいだったから、こちらから相手の意思をくみ取る方法を必死に考えたのを、今でも覚えている。
はるを巻き込んで、色んな本を読んで、日が暮れてもあの子の傍に居続けた。
あの子の事だったら以心伝心とは言わないけれど、ある程度は分かっているつもりだ。
――だからなのか、自然と声が漏れてしまう。
「……カナデ?」
名前では無くて、昔からの愛称が口から流れる。
表情とかは仮面で隠れて分からない。
仕草とかもそこまで似ている訳でもないし、あくまで雰囲気に留まっていることだが、どことなく似ている気がする。
皆嫌いだと言っていた、あの頃の
ただそれと同じくらいに、今の
嫌いでも何でも、誰かの為にと無理に笑って見せているその姿が。
『カナデ、かなでー? んー誰だろう誰だろねー』
「ごめんね。あたしの友達に似てるなーって思っただけだから。気にしないで」
もう声に対しては意識しないようにして、次の事を考える。
この世界のことについてだ。
いくら何でも夢で済ませるには臨場感が有りすぎる。
これは現実で、もしかしたら一生目が覚めることが無いかもしれない。
一番最初に知るべきなのは、帰る方法だろう。
運が良ければ自由に行き来することが出来るかもしれないし、起きても夢の内容を覚えているかもしれない。
「ねぇ、アリスさん。これって夢なんだよね。なら夢から覚める方法を知りたいんだけど」
『ああそれはね。にゃはは』
いい加減この笑い声には黙っていて欲しかった。
アリスさん自身はポーチへ手を入れているので何かを準備しているのだろう。
意思疎通は何とか取れているけれど、やっぱり声くらいは聞いてみたい。
そうは言っても彼女に何かをするのは、助けて貰った身として忍びない。
『この世界で眠れば帰れるかもよ』
取り出されたのはクラブのカード。
何も無しにカードの端から火の手が上がり、灰へと還していく。
それに合わせてあたしの意識に霧がかかり、まぶたが次第に伏せられる。
体が重くなっていき、立つことすら難しくなるのをアリスさんが支えてくれる。
ただ倒れない様に全身で受け止める、不器用な支え方。
きっとあの子も、こんな感じで倒れる誰かを支えるんだろうな。
「お休み、ミユさん」
最後に聞こえたアリスさんの声。
ぶっきら棒で、淡々としていて、それでもだからこそ手を取りたくなる音色だった。
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