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 動かせば余計に酔いが回るかも知れないと、ロファーはジゼルをテーブルに突っ伏したままにした。かと言って、不定期に唸るジゼルを一人にするわけにもいかず、傍らで調べ物をすることにした。いつでも本棚の本を使っていいとジゼルには言われている。


 ジゼルの本棚はとても便利だ。無尽蔵に本が出てくる。しかもこちらのリクエストを勝手に察知して、求める本を棚に並べてくれる。常に本で満たされているが、用済みになった本を押し当てると、飲み込むように中に沈んでいく。


 うちにも欲しいくらいだ、と常々思うロファーだが、魔導士の本棚を手に入れられるはずもない。


 それにしても・・・とロファーは思う。


 すっかり魔導士と魔導術に慣れてしまい、たいていのことには驚かなくなった。最初は驚いたり怖がったりしてばかりでジゼルにさんざん馬鹿にされたものだ。


 馬鹿にされているのは今もか? 自嘲気味な笑いが浮かぶ。自嘲ではなく苦笑か。どちらにしろ、初めて会った時から、ジゼルは俺を見下していたっけ・・・


 仲良しのグレインが二つ年上の嫁さんを貰って待望のパブを広場の傍に開いてほどなくのことだった。


 ドラゴンを退治した魔導士が

「定住するならこの街の誰かを助手にしたい」

と言っている。十五から二十の独り身の者は広場に集まるように、と長老からの伝達がロファーの許にも届いた。


 魔導士の助手だって? そんな怖いことできるかよ、だいたい俺は自分の仕事で手一杯だ。一緒に行こうと呼びに来たレオンにそう言ってロファーは呼び出しに応じなかった。レオンは「俺だって怖いさ」と言いながら、呼び出しに応じなかったらもっと怖いことになりそうだから行くよ、とロファーを置いて行ってしまった。


 次に呼びに来たのはグレインだった。女房とは十六の頃から付き合っていて、ロファーやほかの仲間たちに、秘め事を自慢話にしていた男だ。


「長老直々、俺の店に来て、おまえを呼んで来いと言うんだよ」

頼むから広場に来て欲しい。どうも魔導士様は代書屋を指名していて、それでロファーが来ていないことがばれてしまったようだ。


 流石に断れず、仕事を中断して広場に足を運ぶと、街一番の代書屋が参りました、と長老が随分なチビに話しかけている。それがジゼルだった。


 当時のジゼルはロファーの鳩尾みぞおち辺りまでしか背丈がなく、どう見ても子どもだろう、と思った。が、街が手を拱いていたドラゴンを退治したと言うのなら魔導士というのは間違いない、ずいぶん小柄なことだ、と思った。


 あのドラゴンのせいで伝令屋も北には行けず、頼まれた代書を出すことができなくて困っていた。退治してくれたお陰で北への書簡は全て掃けることができ助かった。


 チビのジゼルはロファーを舐めるように見て「名前は?」と聞いてきた。横柄な態度に嫌気がさしたが、魔導士様なんてそんなものかと、思い直してみたものの、答える気にはなれないロファーに代わって長老が答えていた。


「ロファーと申します」

ではロファー、あなたに私の助手となることを命じます、付いてくるように。


 ロファーの意思なんかまったく無視で、勝手に決めてしまった。俺には本業の代書屋があってそんな暇はない、といくら断っても聞く耳持たずで、だいたい初めて会った俺のどこが気に入って助手にする、と聞いた時、初めてロファーの言葉に返事をする気になったようだ。が、「顔だ」とたった一言満面の笑みで言われ、ロファーは気が抜けてその場にへたってしまったし、広間に集まった街人全員の失笑を買った。


 野次馬どもが、それじゃあ断れないな、諦めろ、とヤジを飛ばし、長老も

「顔ならいずれ飽きられる。それまでは諦めて勤めたらどうだ」

などと無責任なことを言う。


 あげく街の総意だ、などと言われれば渋々従わない訳に行かなくなった。要は外れくじを引かされたわけだ。


 それから三年、見たこともない虫や獣を退治するのに付き合わされ、街が与えた土地がどんどん広がるのを横目で見、あの目が赤く光り閃光が迸るのを目撃し、

命からがらな気分の日々を過ごし、しかも我儘魔導士は当然の権利とばかり甘えてくる。


 最初はこれでは命が持たないと、どうぞ罷免してくれと、ジゼルに頼み込んだこともある。そのたびに「私にはあなたが必要なのだよ」と甘えられ、あなただけが頼りだと持ち上げられ、大好きと言いながら見せる笑みに騙され、騙され、騙され、騙され・・・


 いつの間にかジゼルはロファーにとっても必要な相手になってしまった。見捨てられないと思い始めたのが運の尽きなのだろうと思う。


 ジゼルは、魔導術に関してはともかく、丸きりの子どもで、料理もロクにできなかったし、少し体調が悪かったり不安を感じただけで、もう死んでしまうかもしれないと泣き出す ――


 初めてジゼルの瞳から赤い閃光が発せられるのを見た夜、寒い、とジゼルは泣いていた。温めてくれないと死んでしまう、と泣いていた。


 触れると本当に氷のように冷たくて、慌てて暖炉に火を入れたが一向に温まる気配がなかった。ありったけのケットを出してベッドのジゼルに被せたが効果がない。


 ベッドに入って、あなたが温めて、ジゼルの言葉に強い躊躇ためらいいを感じたけれど、そうしなければジゼルは死んでしまうかもしれないと、本気で思った。


 潜り込むとケットの中なのにロファーも寒さを感じるほどの冷えに、ためらいも消えてジゼルを抱き締めた。死ぬな、と抱き締めたジゼルは小さく、あぁ、俺が守ってやらなくては、と本気の本気でそう思った。


 助手という名の保護者だな、それからはそう思ってジゼルに接していたロファーだが、ジゼルに対する感情が一体何なのか、最近では自分でも判らなくなってきている。


 一通り調べ物を終えるとロファーは本を書棚に戻した。いつも通り本は飲み込まれていく。これで頼まれていた訴状は期限までに完成させられる。確かあと十日だ。


 ほっとしてジゼルを見ると、顔の赤みも引き、寝息を立てているようだ。呼びかけても反応がない。ぐっすり眠っているようだ。抱き上げると、何かふにゃふにゃ言ったようだが目を覚ましはしなかった。


 あの時と比べると随分重くなったもんだ。ベッドに運び、キルトを掛けて、顔を眺める。背も伸びて、今ではロファーの胸元にすっぽり入り、顎に届きそうな高さになった。


 街長の屋敷から帰ってすぐに話したことを思い出す。

「父と母もそうだった。きっと私も似たようなものだろう」

政略結婚の事をジゼルはそう言った。


 ジゼルの家が上流なのは判っている。だからジゼルの結婚が政略で決められたものであっても驚かない。だけど、俺の感情はその時どう動くのだろう。


 もう相手は決められているのか、と食事の時に何度も聞きたくなった。だけど聞けなかった。ジゼルのことだ、「そうだよ」と事も無げに答えそうで、それが怖くて聞けなかった。怖いと思う理由はすでに自覚しているロファーだ。


 昨日、ジゼルの長い午睡の時、その顔を眺めながら、女であって欲しい、とロファーは願った。そう、願いだった。


 ジゼルが男であった時、自分の思いをどう処理すればいいのか、ロファーには判らなかった。そしてやっと自覚したのだ。あぁ、俺はジゼルに恋をしている、と。


 好きだと思う相手はほかにも何人もいる。友だちや、伝令屋の親爺、その女将さん、もちろん亡くなった両親のことも大好きだった。だけど、そんな『好き』とジゼルに向ける思いは全く違う。


 性別もわからない相手に自分が恋心を抱くとは思ってもいなかった。だけど、ジゼルを抱き締める時に感じる時めき、肩を抱いて引き寄せるときの充足感、ジゼルの笑顔に幸福を感じ、その髪の香りを慕わしいと思う。そして、いつまでも一緒にいたいと強く願う。これが恋ではなくて何なのだろう。


 だけど、とロファーは思う。ジゼルが男だったら、と。男だったとしても同じ思いをジゼルに向け続けるのだろうか、と。そこがロファーにも判らない。


 いや、正確には、男だとしても思い続けるだろう、だとしたら、だとしたら自分の思いは結局『恋』とは違うものなのか、そこがロファーには判らない。


 以前は自分をジゼルの保護者と感じていた。ならばこの思いは恋ではなく親が子に向ける愛情なのだろうか? それならば性別は関係なくなる。これが正解か、と思わなくもない。


 だが、果たして親は子を『だれにも渡したくない』と思うものなのだろうか? 子を持ったことがない故かその辺りがピンとこない。もしジゼルがほかの男、あるいは女と愛し合うなんてことになったら、俺は気が触れてしまうのではないか、と不安になる。


 そんなことになるくらいなら、いっそジゼルをどこかに閉じ込めて、すべてから遠ざけてしまいたい。そこまでの執着を親は子に抱くだろうか? それに・・・


 ジゼルには決まった相手がいるのかもしれない、そう考える時に感じる嫉妬は、ふつふつと首の後ろから頭に上っていくように圧迫感を増し、爆発寸前の怒りを体中に駆け巡らせる。


 それが破裂したら、その時はきっと全ての欲望をジゼルに向けてしまうだろう。お前は俺のものだ、と叫びながら、自分の全てをさらけ出し、相手の全てを奪うだろう。


 その衝動はロファーに自身を嫌悪させ、混乱させた。そして、そんなことになってはいけないと、強くロファーに思わせる。


 事件は直に収束するだろう。ジゼルが終わらせるはずだ。そうしたら、少しジゼルと距離を置ける。


 こんなに長い時間一緒にいて、一緒に食事をし、一緒のベッドで眠っていたから、こんな風に感じてしまうようになったのだ。代書屋の仕事も溜まっている。苦労して獲得してきた客を逃してはいけない。


 そうだ、仕事がひと段落ついたらどこか旅に出るのもいい。きっとジゼルへの思いを忘れさせてくれるだろう。


 ドアが開く音がロファーの体をビクリとさせた。寝室へのドアが開き、ジゼルがこちらを見て立っている。


「目が覚めたのか。喉が渇いているだろ? 水を持ってくるよ」

動揺が見透かされそうで、ジゼルから顔を背けてロファーはキッチンへ逃げようとした。そのロファーの前にジゼルが立ちはだかる。そして ――


 パン! 破裂音と共に感じた衝撃にロファーがよろける。次にジリジリとした痛みが頬に広がる。


「な、何するんだ」

「私の傍を離れるなんて許さない」

ジゼルが叫ぶ。


「そんなこと許さない。ロファーがいなければ、私は死んでしまう」

「おまえ、俺を読んだのか?」


「言ったじゃないか、強い思いは勝手に飛び込んでくると。あれだけ強く私のことを考えて、私に届かないと思っていたのか? ましてここは私の結界の中なのに?」

 ジゼルの瞳から涙が溢れ出すと、体から力が抜けたようにジゼルがしゃがみ込む。

そして今、自分が頬を叩き、その勢いで床に倒れたロファーの首に腕を回し縋りつき、その耳元で泣きじゃくる。


「ロファー、ロファー、お願い傍にいて。私は女になるから。そう決めたから。あなたが望むならそうするから」

「ジゼル・・・」


 男でも女でも、もうどうでもいいよ。ロファーがジゼルの顎に手を添えて上を向かせる。そしてそっと唇を重ねた。


 驚いたのかジゼルは身動ぎしたがロファーは離さなかった。強くジゼルを抱き締める。ジゼルが応えて抱き返す・・・


 長いキスの後、ロファーがジゼルの涙をぬぐう。もう、ジゼルは泣いていない。


「今のキスは?」

ジゼルが不思議そうな顔でロファーを見詰める。

「恋人同士がするキスだよ」

ロファーは答えた。


 こんな時はジゼル、おまえの瞳は俺と同じ琥珀こはく色に輝くのだな。ジゼルの瞳からロファーは目を離せなかった。

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