10

 ロファーが空腹に限界を感じ始める頃、やっとジゼルが起きてきた。よし、スープを温めて、ミルクを沸かそうと、立ち上がったロファーに抱き着いて

「ダメ、腰が痛い、胸が痛い、お腹が痛い」

とベソを掻く。


 判った、判った、判ったからまず、食事にしよう。何とかジゼルを座らせる。


「腕も痛い、太ももと脹脛ふくらはぎも痛い。だめだ、ロファー、私はもう永くないかも……食事が終わったら入るからバスの用意をしておいて。ミモザオイルを垂らすのを忘れないで」

ロファーが食事の用意をする間、そんな調子でしくしく泣き続ける。


 いつか珈琲を飲み過ぎて眠れないと一晩中しくしく泣いていたことを思い出し、ぞっとするロファーだ。


 それでも食事を始めれば機嫌も直り、

「マーシャには今度お礼を言わなくちゃ」

と、チーズ入りのパンを頬張る。

「美味しいね、ロファー」


 食事をしながら来客の報告をすると

「ワインとビールはロファーが飲んで。ワインなら少しお相伴するよ」

とジゼルが言う。

「俺が?」

「パブの前を通ったとき、マスターが売り上げの計算をしていてね。最近ロファーがちっとも来ない、ってぼやいていたから」

「パブのマスターってグレインの事かな。確かに行ってないけれど、ナダルから買って、ここで飲んでいたんじゃ、グレインの売り上げには貢献できないよ」


「グレインに貢献する気はないよ。ロファーが飲みたいんじゃないかなと思っただけ」

「これは、これはお優しい。だけど、代金は俺持ちなんだね」

笑うロファーを気にすることもなく、

「リカーはもうすぐ枇杷が実るから、それを漬けるよ。手伝ってね」

ジゼルは飽くまで屈託がない。


「お化けごっこってレオンが言ってたけど、あの布は何に使うんだい」

「あぁ、あれね」

ジゼルが不思議そうな顔をする。


「用意しとかなきゃって思ったんだけど、何の用意かその時は判らなかった」

 だけどさっき昼寝から起きた時に判った。家に住み着いている妖精の羽の色が虹色に変わっていて、もうすぐ必要になるから寝床を作るようにと言ってきた。


「私には予知力はないはずなのだけど。不思議だね。ひょっとしたら妖精が予知したものを気が付かないうちに読み取っていたのかも」

「へぇ。妖精の羽がねぇ……妖精は寝床を使うのか? そして妖精は予知力を持っているっと」


「うん、もとは白かった、子どもの妖精は白くて、大人になると色がつく……たぶんそうなんだと思う。妖精が布を幾重にも重ねて長方形に縫ったものを何枚も用意しておくようにって、言っている。それって寝床だと思うでしょう? 妖精サイズの布団 ―― うん、一般的に妖精には予知力があるとされているね。妖精さん、大人になれて嬉しいみたい、ニコニコ笑顔だ」


 寝床だと思うでしょうと言われても、妖精サイズと言われても、一般的にと言われても、ロファーにわかるはずもない。


 スープをおかわりすると満足したようで、お腹が落ち着いたらバスにするね、とジゼルが言う。

「スープ、美味かったか?」

ニコニコ顔でロファーが問えば、

「セロリ、入っていたね。意地悪ロファー、私の嫌いな物を食べさせたがる」

と怒りもしないでジゼルが答える。


「なんだ、ばれていたか」

「ばれるよ、独特のあの匂い、だけどスープにするとマイルドになるね。美味しかった」

それじゃ今度はグリーンピースをポタージュにしてみるか、内心思うロファーだ。


 バスを使ってくるね、と席を立ったジゼルが、あれ?っと首を傾げる。

「さっきは下腹部が歩けないくらい痛かったのに、もう全然だ。ほかの筋肉痛は消えてないのにね」

「痛まないのならよかったじゃないか。ゆっくり体を温めておいで」


 ハーイ、と明るい声を残してバスルームへとジゼルは消えた。やっぱりジゼルはまだまだ子どもだな、可愛いものだな、と思うロファーだ。


 それにしてもしんどい一日だった、と、ひとりになったロファーは思う。精神的な疲れが半端じゃない。ジゼルは街の噂話を面白がって聞いていたようだが、土台噂話など無責任で、本当の事なんか半分も入っちゃいない。昔の事、五年前の出来事をロファーは思い出す。


 相手はロファーの家から二軒間に挟んだパン屋の娘のリル、幼馴染で気心知れた相手、と思っていた。そのリルがある日、代書を頼んできた。蒸し暑い夏の晩のことだった。


 好きな男の気を引きたい、そんな恋文を書いて欲しい。書いて貰えば必ず思いが通じると評判のロファーにお願いしたい。


 チクリと胸が痛んだのは、ひょっとしたらリルは自分に気があるかも知れない、ロファーがそう思っていたからだ。友だちからもリルはロファーに気があるとよく冷やかされていた。もしそうならばリルが相手でもいいかもしれない。二親を亡くしている俺にそう来手があるとも思えない。そんなことを考え始めていたころだった。


 しかしロファーの思惑は外れ、リルには別の相手がいたらしい。それならば幼馴染の好誼よしみだ、飛び切りの恋文を書かせてもらおう。本気でそう思ったのに……


 リルから話を聞きながら机に向かい文面を練るロファーの後ろから、しなだれるようにリルが手元を覗き込んでくる。リルの体温を背中に感じ、体臭が鼻腔を擽る。書き辛いよ、と苦情を言えば離れるが、またすぐに寄り添ってくる。


「今夜は暑いわね」

時折そう言っては胸元を広げ風を送る。その時のリルがロファーの顔色を窺っているのが判る。そして自分が混乱していくのが判る。


 やっとのことで書き終えて、手紙をリルに渡す。

「遅いから送っていくよ、すぐそこだけど」

何とか空気を変えたいロファーが冗談めかして言うのをリルは無視した。


「もう、鈍感なんだから」

 少しリルは焦れているようだ。この手紙はあなたに宛てたものなのよ―――


「えっ?」

状況が飲み込めないロファーに構わず、ロファーの首に腕を絡めたリルが唇を寄せてくる。訳が判らないまま口づけを受けるロファーがバランスを崩して床に倒れ込んでしまうと、リルは更に激しく唇を求めてくる。


「ねぇ、私に決めてロファー、いいでしょう?」

 この頃にはさすがにロファーも自分の状況が見えてきて、そういうことなのか、それならこのままじゃいけない、と上体を起こし、リルを抱き返す。


 俺でいいのか、と聞けば瞳を閉じてリルは頷く。ならば、この後はどうしたらいいんだったっけ……


 ロファーは、経験済みの友達が自慢話のように伝授してきたことを思い出そうとした。そうだ、キスしながら押し倒し……


「! 痛てててて……」


 自分とリルの間に稲妻が走ったような衝撃で、ロファーは弾かれるようにリルから離れ、尻もちをついた。きょとんとリルが自分を見詰めている。


「どうしたの、ロファー?」

 今の衝撃をリルは感じていないのだろうか? 続きを促すようにリルが近寄ってロファーの肩に手を掛ける。


「!」

激しい痛みを感じ、ロファーはその手を振り払った。


「ごめん、帰って」

泣き出すリルにロファーはそれしか言えなかった。


 リルが触った瞬間、痛みと共に『死にたいのか』と罵声が頭の中に響いた、なんて誰にも言えるものではなかった。


 その時のことをリルが友だちに話したのが噂になって、最初は誘惑しきれなかった、という真実に近い話だったのに、いつの間にかロファーは役に立たなかったとすり替えられていた。否定するのも馬鹿馬鹿しいし、本当のことを言えるはずもない。


 そんなことがあって、あの時感じた衝撃や痛み、頭の中に響いた罵声が何だったのか判らないまま、女性を遠ざける傾向にあったことは否めない。それもまた、噂が変異する要因になっていたのだろう。


 一年くらいしてリルは石屋のパロと結婚して、最近の噂では三人目がお腹にいると聞いた。なるようになったのだとロファーは思っている。


 所詮、世はすべて、成るようにしか成らぬ。あらわれ示されるすべての事象は然るべき摂理ことわりの力が働いたものに他ならない ―― 以前読んだ本の一節をロファーは思い浮かべていた。

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