3
ロファーの目が覚めたのは真夜中だ。梅酒のお陰でいい気分になってうっかり眠ってしまった。ここのところ山狩りやらなんやらを手伝い、さらに長老に難題を吹っ掛けられ、自分で思っている以上に疲れていたようだ。普段ならあれくらいで寝入ることなんて考えられない。しまった、と思ったがもう遅い。
隣にはこちらに背を向けたジゼルが寝息を立てて……立てたふりをして横になっている。ロファーの気配に気が付かないジゼルではない。寝室の明かりは消されているが、隣室はわざと
あちこちに置かれた花瓶に、ふんだんに活けられた花が全部枯れている。薄暗くてはっきりとは見えないが、寝室に置かれた花瓶もたぶん同じ有様だ。前にもそんなことがあった。寂しいから来て、カケスの伝言はそう言った。
なぜ寂しいんだろうと思ったが、すぐ行くよとだけ答えてカケスを帰した後に、
アドのところの婆さんの容体が急変し危篤だ、親戚中を呼び出す手紙を書い欲しいと、仕事が舞い込んだ。事が事だけに後回しにはできない。アドの親戚は方々に散らばって、件数が多く、なかなか
伝令屋の馬車でジゼルの林の前まで送ってもらい、一本道を逸れて近道を行った。
ジゼルはその時は怒らなかった。ドアの前でロファーを待っていたがお疲れさまとロファーを迎えた。ロファーが何をしているのか、覗いて知っていたのだろう。
あの日、家中に飾った花はすべて枯れて朽ち果て、暖炉の火は消えていた。冬の、雪の降る日だった。
ジゼルの手は氷のように冷たかった。暖めるため抱き締めようとするロファーの腕をスルリとジゼルはすり抜けた。そのために呼んだんじゃない、とロファーを見たジゼルの瞳から一筋涙が流れるのをロファーは見た。
うろたえるロファーを見てジゼルが笑い、突然暖炉の火が燃え始めた。寂しい思いをさせたから少し驚かせてみたと言うジゼルの顔に涙なんか跡形もなかった。
手が冷たいのはしばらく外にいたから、とロファーの手を取り自分の胸元を触らせた。確かに生き物の熱を感じた。それと同時にジゼルの肌の滑らかさに咄嗟に手をひっこめるロファーをジゼルは笑った。
「花たちには可哀想なことをした」
と、ポツリとジゼルが言った。花が蘇ることはなかった。
きっと、怒っても仕方ないと理屈ではわかっていても、ジゼルは感情を抑えきれず花々にぶつけたのだろう。ロファーの顔を見ても収まり切れず、拗ねてしまったが、それを冗談で誤魔化した。あの涙は本物だ、とロファーは思っている。今夜のジゼルは相当怒っているだろう。
あの時のような理由があるわけでもなく、寝過ごしただけなのだ。せっかく用意したのに、一緒に食べようと楽しみに料理したのに、グーグー眠る相手を横目に一人で食事を済ませたのだ。
こんな時、起きるまで起こさないのはジゼルの優しさだとロファーは知っている。同時に勝手だとも思う。起きて欲しい時に起きていなければ、起きてから必ず怒るんだから、無理やりにでも起こせばいいものを、と思う。
どうしたものか……怒ったジゼルは稲光のようだ。できれば逃げ出したい。だけど逃げ出すにも、こちらの動きはお見通しだろうし、第一あの結界を自力で出られるはずがない。ジゼルの気がすむまで行ったり来たりさせられるのがオチだ。それもいつまで続くか予測もつかない。途中で閉じ込めたことを忘れて放置されたりしたら命が尽きるまで気づいて貰えない可能性だってある。だったら素直に謝るのが一番だろう。
どんなにジゼルが怒っても、その怒りに火を点けさえしなければ、せいぜい一時間小言や厭味が続くだけなのは経験上知っているロファーだ。それを避けるには何しろジゼルの機嫌取りをするしかない。まずはジゼルを笑わせよう。さて、どうやったら笑うだろうか。ロファーがにやりと笑む。
背中を見せて横たわるジゼルを後ろからそっと抱き締める。そして耳元で
「愛し ――」
てるよ、と言おうとした途端、ロファーは強烈な肘鉄を食らってベッドから転がり落ちた。
「あは、あははは……って痛てえよ」
大笑いするのはロファーだ。余りにも予測通りの反応、思った以上にキレイに入った肘鉄、笑うたびに響く痛みが可笑しくて、痛いのに笑いが止められない。
「ふぅん、今度あなたを笑わせたいと思ったら、肘打ちを入れればいいようだね」
「あぁ、そうだね。だけどもう少し手加減してくれ。こりゃあ、ろっ骨が折れているかもしれないぞ。だいたい、俺はおまえとなら、何がなくてもずっと笑って暮らせそうだ」
「軽口をそれ以上言えないようにしようか」
ジゼルの瞳が光ったような気がして、さすがに怖くなりロファーが口を閉じる。
「何に姿を変えてほしい? 今ならウサギがお勧めだ」
「ごめんなさい、おゆるしください。悪ふざけが過ぎました」
「判ればよろしい」
にんまりとジゼルが笑みを浮かべる。これでよし、ロファーは内心ほっとする。もうひと押しだ。
「それでその……」
遠慮がちにロファーが言う。
「大変空腹で……差支えなければテーブルの上の料理をいただく許しも欲しいのです」
ロファーに美味しいと言って貰いたいはずの料理だ。食べずに済ませば何日あとを引くことか。
「空腹か、それは気の毒だな」
程なく戻ると、手にした皿からは湯気が立っている。
「椅子に掛けたらどうだ?」
テーブルに皿を置きながら言うジゼル、慌てて椅子に腰かけるロファー、
「いただきます、って言ってから食べるように」
皿の中身はクリーム煮込みだ。
「はい、いただきます……うん、美味い。肉が入っているなんて豪勢だね。これはなんの肉?」
「ウサギ肉」
「!」
吹き出しそうなのをグッと堪えてロファーは咀嚼した。ここで笑いだし、口の中のものを飛ばせば、ジゼルに何を言われるか。
ほんの先ほどウサギに変えるぞと脅した相手にウサギを食わせるセンス、これだからジゼルといると飽きないとロファーはしみじみ思う。ジゼルにそんなつもりはなくても笑ってしまうロファーだ。
「さっき、私の結界に迷い込んだウサギだ。殺人について何か知っているかと聞いてみたが何も知らなかった。せっかく入れてやって人参をご馳走したのに収穫がなかったのだ。自らが捕獲されても仕方あるまい。おかげでウサギに欠員ができた。後釜になることを勧めたが、ロファーにその気はないようだ」
「俺もいつかジゼルの役に立たなくなったら食われちまうのかな」
「その時はウサギか鶏に変えてからにしておくよ。馬でもいいな、シンザンと決闘させてあげよう」
けらけらとジゼルが笑った。ご機嫌はロファーの思惑通り直ったようだ。
そのあともう一眠りした。浅い眠りの中、肘打ちを食らったロファーの胸に、ジゼルがキスする夢をロファーは見ていた。すーっと痛みが引くのが判った。骨折はしてないがヒビが入ってしまった、とジゼルの声が聞こえた。でも、もうこれで痛むことはない。ちゃんと治した ―― 起きているときにしてくれりゃあいいものを、と夢の中で思った時、ロファーは脇腹に痛みを感じた。
朝、ロファーが目覚めた時、牛飼いのマーシャがジゼルにミルクを届けに来ていた。台所に運び入れるマーシャから、ベッドの上のロファーは丸見えだ。これできっとまた、ジゼルが風に飛ばすと言っていたのとは別の、新たな愛人説が浮上することだろう。
マーシャはジゼルから代金とジェシカに届ける薬、そして小さな包みを受け取るとニコニコと帰って行った。包みはきっとクッキーだ。
「台所から寝室が見えないよう、ドアを付けたらどうだい」
ロファーにジゼルは応えない。何かぶつぶつと唱え、瞳が
経験済みのロファーはジゼルの関心を引くのは諦め、戸棚からグラスを出して、マーシャが持ってきたばかりのミルクを注ぎ一口飲んでから、馬小屋と鶏小屋の世話をするため勝手口から出て行った。
卵を持って部屋に戻ると、ジゼルはミルクを温めていた。そしてロファーを見もしないで
「昨日の頼みに追加だ。『朝のうちは家を出るな』と伝えてくれ。街人全員だ」
と言う。
「マーシャを付けている奴がいた。私の結界には入ってこさせなかったが、こちらの様子を
「カラスで大丈夫なのか」
「カラスを通じて私が見ていることはヤツにも判っている。今日のところはマーシャは無事に帰宅した」
だが、明日、誰を襲うか予測できない。
「でも、犯人が誰か判ったんだろう?」
「そんなに簡単じゃない。カラスの目を通しているからそう鮮明には見えない。人間の形をしていることは判ったが・・・髪の色は金か銀、朝陽をよく映していた」
「街に住む金髪か銀髪と言えば・・・」
「簡単じゃないと言ったはずだ」
レタスとベーコンエッグ、マッシュポテト、そして人参パンが今日の朝食だ。パンを焼いたのはジゼルだが、物思いに
「どうせ私のことを報告しに長老のところに行くんだろうから、長老からも話を聞いてきてほしい。二十五年くらい前から十年くらい前の間に、生まれたはずなのに街に住んでいない者がいないか、と。あるいはその期間に
「魔導術とやらでさっさと実らせられないのかい? 畑を広げてトマトの苗を植えたようだけど、また土地が広くなったと言われてしまうよ ―― そんな噂は聞いた事ないが、それが犯人に繋がっている、と?」
「魔道術とやら、とはなんだ、やら、とは。できなくはないが、自然の摂理に逆らって実らせても味が落ちる……私と同じ匂いを感じた。生まれるはずがなかった心、知られてはいけない命、放たれることを望む吐息、それともう一つ、あれは何だったんだろう」
「おまえと同じ匂い? おまえからは何とも言えない、いい匂いしかしないが……ミルクティー、もっと飲む?」
「うん、入れて ―― 常人のロファーに嗅ぎ分けられるもんじゃないし、実際匂っているわけじゃない。気配とでもいうものだね」
「それにしても、生まれるはずがどうとかって、それがおまえと同じ、って ――」
《聞き流せ》
ジゼルの瞳が光る。一瞬でロファーは言いかけた言葉を忘れ別の話題を口にする。
「長老のところには行くさ。夜の内に俺の家に使いが来ていたかもしれないし……来てたら、どこに行っていたと追及されるだろうね」
「私のところにいたと言えばいい。手伝うと言わせるのに一晩かかったと」
「どうやって口説き落としたか、しつこく聞かれそうだ。まぁ、そこは何とかするよ」
食べ終わった皿を下げるジゼルを目で追いながらロファーが言うと、戻ってきたジゼルがテーブルの花瓶からポピーを一輪引き抜いて渡してきた。今朝、活け替えたばかりの花だ。
「この花をあなたの家のドアに刺しておいて。誰が来ても『そうだ、ロファーは留守だった』と思って帰っていくから」
「居留守を使えっていうのかい」
「ううん、あなたはしばらくこの家にいるように…… マーシャを追っていたアイツがあなたを狙うかもしれない ―― ミルクティー、これで終わりみたい。飲んでもいい?」
「もちろんお飲みよ ――なぜ俺が狙われるんだい?」
「アイツは魔導術かそれに類似した力が使える。私の結界を見渡す力を持っていた」
ロファーの気配も感知したはずだ。
「そして私を敵と見ただろう」
「魔導術に類似した力って? 魔導士ではない、ということ? ―― 俺にもカラスの護衛をつけるのか」
「何年かに一人か二人、生まれながらに魔導術のような力を持った人間が生まれることがある。魔導士ギルドが早急に探知して、魔導士学校に入れるか、力を封印してしまうんだけど、探知しきれない時もある。ヤツはそんな誰かなのじゃないかな」
たまにとんでもなく強力な力を持った特別な存在もいて、その存在は魔導士学校では納まりきらないし、ギルドが総力上げても生涯封印するのは無理だ。ただ、私の結界を覗き込んだヤツがそこまでの大物とは思えない。
「ヤツは宿に泊まっちゃいないし、旅人でもなさそうだ。カラスじゃ私がずっと監視しなくちゃならない。効率が悪すぎる。あなたにはサッフォを貸すよ。あのコは賢い。あなたを私の許に必ず無事に帰してくれる」
「その前にサッフォに無事にたどり着けるだろうか」
雌馬のサッフォはシンザンと同じ馬小屋にいる。ジゼルの馬小屋にはもう一頭、雌馬のジュリがいるが、ジュリは飼葉を食べるために生きている、といつかジゼルが言っていた。
「たどり着けるさ。シンザンにはステキな夢をプレゼントするとしよう」
ジゼルが笑った。
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