肆   護衛

 眠気を誘うような春の日差しが照っている。

 昼食を取る母に自分達の食事を問われ、美冬は首を振った。


「母様のご飯、半分食べる?」


 春風のように優しく母が問うても、首を振るばかりだ。


「しっかりと食べないと元気になれないでしょ」


 瞼を伏せた美冬は聞き取りづらい声で返した。

 部屋の端に立つ秋人には、椅子に座る姿が声以上に小さく見える。ぎこちない雰囲気にそうねとやわらかい声が返された。

 一つの所に収まれない美冬だが、今日この時ばかりは歯切れも勢いもしぼんでいる。

 父様にいただいたお金で帰りにご飯を食べなさいと強めに言い含められた二人は母に帰りを促された。療養所の入り口まで見送られ、言葉数が少ないわりに帰らないと頑なな美冬の手を秋人は引く。

 行きも呆気なかったが、それよりも楽に汽車の旅を終えた。美冬が大人しいからだ。

 癇癪を起こすだろうと思っていた秋人は戸惑っていた。平穏を願ってはいたが、どうにも居心地が悪い。

 駅の入り口につき、喧騒を避けて歩く。秋人が人力車を捕まえようと足を止めても、心ここにあらずの状態の美冬は先へ先へと進んだ。走る人力車の前に飛び出そうものなら、秋人が腕を掴んで止めた。思い詰めたような美冬は深刻な顔を変えず、秋人が手を離せば足を動かす。昼を食べることも忘れていた。

 行きは人力車で来た道を、美冬の背を追うようにしてひたすら歩く。駅から小高い丘の上にある岩蕗邸は何とか見えるが、それは屋敷が大きいからだ。子供でも、大人でも時間のかかる道を無言で進む。


「ねぇ、秋人。あれは何かしら」


 美冬が差した方を見れば、鳥居の周りに人集りができていた。

 はやしや笛の音が風にのって聞こえてくる。


「縁日ですね」

「行ってみましょう!」


 秋人の答えを聞くや否や、美冬の背中が小さくなっていく。秋人に彼女を止める術はなく、日が暮れるのにも時間がある。空の腹に問うこともなく、考えるのは一瞬にも満たなかった。引き離された距離を縮めるため、秋人も屋台の波に飛び込む。

 飴細工に人形焼き、焼き鳥、うどんと来て金魚すくい。植木や野菜の店まで立ち並ぶ。

 追い付いた秋人は美冬を盗み見た。

 賽子さいころの目のように表情を変える美冬はいつもの調子だ。

 療養所を出てから縁日を見つけるまで美冬は口を一文字に結び考え込んでいた。それを思えば、いつもの調子を取り戻した姿に人心地つく。

 忙しなく目移りしていた美冬がとある一件を見つけて止まった。

 秋人も合わせてそちらを向く。

 甘い香りに誘われるようにできた列の先。


「ワッフル、す?」


 看板の文字をなぞった美冬の瞳はどんなものか食べてみたいと如実に語っている。並びますかと秋人が訊く前に無言で手を引かれた。

 見るみる内に列が前に進み、飛ぶような売れ行きと手際のよさを感じられる。待つ客は順調に進むおかげか、目新しい菓子が気になるのか落ち着きがない。

 秋人は背伸びする令嬢をたしなめ、行儀よく待たねば迷惑がかかると何度か繰り返す。恨めしそうに睨まれても、秋人は素知らぬ顔だ。

 屋台に近くなるにつれ香ばしい匂いが強くなる。牛乳と溶かし牛酪バターを混ぜ合わせた桶に、砂糖ときめ細かく泡立てられたた卵が合わせられた。さらに、塩と小麦を入れて、さっくりと生地が混ぜられる。大人の掌より一回り大きな焼型に流し込まれ、生地は上下の焼き型にはさまれ見えなくなった。両面を焼く間に濃くなる甘く香ばしい匂い。型を開けると格子模様の焼き目が現れ、湯気の立つそれは台の上に落とされた。上半分にジャムが乗せられ、真ん中で折られる。生地と生地が近づくにつれて押し広げられるジャムとふくらむ期待。

 誰かの喉が鳴る音が聞こえた。


「へい、お待ち」


 金を払った秋人は紙で包まれたワッフルスをもらい、店の裏に回ろうとする美冬の手を引いた。眉を寄せる美冬に鳥居の方を示す。


「あちらの方が店の様子がよく見れますよ」


 秋人の言葉に顔色を変えた美冬は今度は秋人を引っ張っていく。

 まばらに人が座る石垣まで引きづられた秋人はワッフルスを美冬に持つように願った。二人分、座れる場所を探して葉と砂利を払い、ハンカチを敷き調える。

 美冬は場所が調うや否やという間に座り、秋人の分を差し出した。二人で並んで座り、いただきますと呟いて心の中で合掌した後にかぶりつく。

 カリ、ふわ、じゅ、と噛みしめるまでに口に広がる何とも言えない感触。牛酪の塩味がりんごジャムの甘酸っぱさと混じり合う。

 いつの間にか食べ終えた甘味に、おいしかったわねと美冬は吐息をこぼした。

 秋人も首を縦に振る。余韻にひたるように陽気を浴びていると、左肩に重みがかかった。秋人が目線を落とせば美冬の睫毛が見える。あまりの近さに驚くが、規則正しい呼吸に寝ていると判断した。

 しばらく寝かせるか、そう呑気に考えていると人混みの中から一人の青年が近づいてくる。

 ワッフルスに夢中になっている間に周りの人はいなくなっていた。人攫いを恐れ、この場所を選んだ意味がない。

 秋人は美冬を起こそうか悩んで、ポケットにいれた守石を思い出した。青年に気付かれないように手を差し込む。使い方はわからないが、投げつければ不意打ちぐらいにはなるだろう。


「疲れたんだな」


 青年の美冬に向けられた一声に秋人は顔をしかめた。気だるげではあるが、穏やかな雰囲気はかどわかす者の態度とは考えにくい。

 ワッフルス片手だとどうも気が締まらないが、隙のない構えだ。何処から攻めればいいか悩む所がある。学生帽の下からは明るい髪がのびていた。そのとび色には見覚えがある。

 汽車に乗る際に見た、あの青年だ。

 遠目では黒に見えた詰襟は正しくは鉄紺色だった。ただの学生ではなく、士官学校の制服だ。秋人の記憶が正しければ、父にしごかれる中にはいなかった。

 睨みをきかせる秋人に青年は笑顔で名乗り出る。


「俺は佐久田さくだたくみ。お嬢さんの護衛を任されているんだ。まぁ、本人に気付かれないようにと言われてるけど」


 肩をすくめた青年は納得できない様子の秋人に学生証と美冬の父と撮った写真を見せる。

 今までにも、岩蕗家の令嬢美冬には幾人かの護衛がつけられた。しかし、気難しい令嬢は護衛を巻くのに闘志を燃やし、いたずらを仕掛ける。いくら苦渋をなめようと、いたずらに耐えようと、護衛を文字通りひれ伏せさせ辞めさせた。そばにつけるのは秋人だけで、誰一人お眼鏡に叶うものはいない。

 考えあぐねる秋人を放って、青年は四口でワッフルスを平らげた。軽く手をはたいた後、美冬の肩に自分の外套をかける。腰を上げるようとする秋人を片手で制し、二人に背を向け膝をついた。それでもなお、隙がない。

 秋人が美冬を抱えて逃げるには敵いそうにない相手だ。

 匠の手は気遣うように美冬の腕を自身の肩にかけた。着物の乱れに気を付けながら、器用に背負う。

 青年の背で丸まる美冬は母の羽織の中で眠る子供のようだ。秋人は何とも言えない顔で外套に包まれた少女を見上げる。当の本人は呑気に夢の中だ。

 青年が足を踏み出す。足音は一つしかない。

 半身だけ振り返った青年はその場を動けずにいる秋人に笑いかけた。


「何もしやしないよ。疑うなら、そのポケットの中身を離さなければいい」


 品定めをするような視線に秋人は眉間にしわを寄せた。

 答えを待たずに青年は踵を返す。

 秋人はポケットから取り出した守石を握り、青年の斜め後ろについた。

 二人の足取りは長い影法師についていくようにゆっくりとしたものだ。


「俺がいるの、気付いていただろ?」


 青年の言葉が影に訊くように落ちた。

 秋人は口を開かない。

 笑い声を上げる子供達が脇を駆け抜けていく。


「ワッフルス、うまかったなぁ。君はどうだった?」


 反応を示さない秋人はただ進むだけだ。

 すれ違う老夫婦が微笑ましく見てくる様子に青年は帽子の鍔を上げて軽く返した。

 青年が後方を見やれば、人形のように感情の抜けた顔が目に入る。美冬を抱え直し、細く息を吐いた。


「俺ね、弟が二人いるんだ。懐かしいなぁ」


 並ぶ影に目を細めた青年は続ける。


「俺と弟は親父に腑抜けだって罵倒されるんだけど、一番下だけは馬鹿正直でね。それでもって頑固なんだ。君達より年下のなのに度胸なのかなんなのか肝が座ってるときた。親父はアイツを跡継ぎにするとか言ってる始末だよ。そうしたら、じいちゃん達が長男に継がすもんだろうって騒ぎだしてさ。学校も出てないのに、やれ嫁だ、やれ仕事だ、家だ、てね」


 昔話を言い聞かせるような口調はゆったりとしている。正直、どうでもいいんだけどねと青年は間を取った。


「下っ端軍人でもお家騒動があるんだから、花族かぞくなんて大変に決まってるよなぁ」


 誰とも明確に言わず横目で見てくる青年に秋人はうんともすんとも答えなかった。

 青年が足を止めれば、秋人も止める。目を合わせようとも、伏せられた睫毛が邪魔をした。

 急に止まったせいか、美冬が身動ぎをする。

 秋人は美冬の寝顔を確認し、すぐに視線を戻した。美冬の顔を見る、ほんの一瞬だけ瞳に感情が灯るのを本人は知らない。守石を固く握りしめられた手は屋敷にたどり着くまでほどかれることはないだろう。

 ためた息を細く吐き出し、青年は眉尻を下げた。


「付き合い方を考えないと、自分が困るだろう」


 沼のように底の見えない瞳が青年を映した。真意を問うような目線は瞬き一つで外される。

 まるで線引きされたような変わらない距離に青年は苦笑し、歩を進めた。

 秋人は丸くなった背中を追う。


「物分かりがいいのも考えものだな」


 青年は誰に言うでもなくぼやいた。


「もう一度、ワッフルスが食べたいなぁ」


 嘆くような大袈裟な物言いに秋人の足取りは重くなる。早く帰りたい、と思うが尾首にも出さず、守石を指の腹で確かめてみる。なめらかな表面は少しも心を穏やかにはしてくれない。

 秋人の物言いたげな様子を感じた青年は情けない笑みをこぼした。



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