紅に染む

かこ

秋人

壱   白い花

 秋人あきひとは異国の空を見上げた。

 うごめく雲は闇の中、行方はのぞめない。


⊹ ❅ ⊹


 秋人は急いでいた。渋る足をやっと奮い立たせた先に、雪が降ってきたのが運の尽きだ。

 汽車が出る時間が差し迫り、帝都一の駅は兵士と見送る人でごった返していた。

 秋人はひるむことなく、人の間をすり抜けていく。視界をせばめる軍帽がわずらわしくなり、無造作に脱いだ。老人のような白い髪に視線が突き刺さるが構っていられない。

 乗降場から吹き抜ける風が肌をさし、真新しい雪に足跡がつく。

 鉄色の軍服と黒い外套はすべからく視界からはじき出し、ざわめきと白い息の間に探し人を見つけた。面影の薄れた横顔だが、あの瞳は忘れられない。空を睨み付ける姿に遠い記憶が呼び起こされる。

 凍てつく寒さの中、咲き誇る白い花と、少女の頑な横顔。

 立ち尽くした秋人は声をかけることもできずに、横顔と思い出を重ねた。最後かもしれないと思うとひやりとしたものが心を縮める。この感情を言い表すことができなかった。

 あの白い花を彷彿とさせる雪が降っている。黒光りする汽車や、ならされたセメントを平等に消していった。

 出発まで間がない。機関室からの音が速くなる。

 拳を握りしめた秋人はここまで来た意味を自分に問い、足を踏み出す。

 久方ぶりにまみえる幼馴染みから冷めた双眸が向けられた。瑪瑙めのうのような底の見えない瞳にあの頃の熱はない。

 秋人は突きつけられた現実に体が動きを止めた。真っ直ぐな目も彼女の額の傷も直視できない。何も言えず、彼女の襟元を眺める。


葛西かさい少尉、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 美冬みふゆから声をかけられるとは思っていなかった。かつての話し方とはかけ離れていたとしても、心が震える。秋人は伏せていた瞼を上げるが、美冬の瞳に写る自分の姿を見たくなかった。一瞬で戻し、乾いた口を無理矢理こじ開ける。


「その呼び方は居心地が悪いです」

「……じゃあ、昔のように秋人と呼びましょうか?」

「はい、お嬢様」


 激情を圧し殺したような低い声に秋人はかつての呼び名で応えた。後悔し始めた思考を止めたのは、美冬の父でもあり、秋人の上官の言葉だ。


「秋人、何か急用か」

「急用ではありませんが、出立のご挨拶を申し上げに参りました」


 秋人の感情の読めない言葉にお前もまめだな、と父は小さく笑んで、何か思い付いたように瞬きをした。秋人、と手招きをする。

 秋人は素直に従った。


「ほら、この前、器用なことをしただろう。あの白い花だ。この一帯にまけ。今日は寒くて敵わん」


 どこか子供じみた心を捨てきれない父はこうやって秋人に無理難題を押し付けることが多々あった。何か面白い話はないか、と訊かれるよりマシだが、すぐには頷けない理由がある。


「……触ったら、火傷で済みませんよ」


 そこはだな、と上官は片方の口端だけを上げた。身を乗り出した彼が大きく息を吸う。次にすることはわかりきったことだ。


「諸君!! これより門出の花がたむけられる。それはとても美しいが異能いのうだ。決して! 決して!! 触らぬように!」


 車両が連なる乗降場に響き渡る声は正しく最後尾まで伝わった。静まりかえる中、雪だけが落ちていく。

 頭まで揺さぶられる音は東西広しといえど早々ない。秋人の耳の奥も揺れていたが、慣れとは恐ろしいものだ。殴り付けるような音の後でも、雪が降る音が拾えた。

 期待と好奇の目が無数だ。

 諦めた秋人は動き出す。

 白い花。それは秋人が生み出す異能が形を変えただけであって、本物ではない。美しさで言うならば、幼い少女と見たあの花には負ける。知らず秋人は美冬を見つめていた。

 わずかに眉をひそめた美冬が視線を外す。

 秋人は己の失態を払うように息を吐き、姿勢を正した。皮手袋を外し、天に掌を向けこぶしを作る。神経を研ぎ澄ますと、身の内にふつりふつりと沸く寸前の泡が貯まっていくような感覚を覚えた。冷えた指がじわりと燃えるような流れに任せて掌を広げる。

 想い描いた花が浮いていた。

 秋人は空の高い位置に白い花をまく。

 舞い落ちる雪と見間違える花の実態は灼熱の炎だ。その恐ろしさを秋人は身をもって知っている。いくら美しく作り出そうとも、脅威が変貌することはない。

 夜を背景に雪と花が舞っている。

 白い熱に溶かされ、いくつもの雪が闇に消えていく様を秋人は眺めた。溶けた滴が雪や服にまばらな染みを作る。幾千もの白い花は雪と混じりあうことも、まして近づけるはずもなく、頭上をたゆたう。

 秋人は美冬を盗み見た。

 美冬の瞳に熱が戻ることを願っていたが、見上げる彼女は花ではない何かを見つめている。

 秋人は周りで上がる感嘆の声を無視して、白い花を消した。心の内は雪の舞う夜よりも暗い。

 ほのかに温かくなった場内に、車掌の声が響く。乗降口にいた人々が散り、ゆっくりと汽車が走り出した。

 美冬は父の笑顔に手を振る。

 秋人は深く頭を下げた。汽笛に負けないよう、万歳という声が上がるのを遠くのものに感じる。

 汽車の音が聞こえなくなった後、美冬は吐息と共に言葉をこぼした。


「秋人はいつ出立するの」


 感情の消えた声を聞いた秋人は混乱する。それでも彼女の言葉に簡潔に返したのは、きっと染み付いた癖のせいだ。


「明朝です」

「そう」


 文字通りの感情のない言葉。たった二文字が秋人のわずかにしがみついていた期待を砕いた。

 まさか、憎しみをぶつけられた方がよかったと思うとは。幼い頃のように戻ることはないと言い聞かせていたが、現実が心臓を握りつぶす。秋人の人形のように固まりきった表情の下で激流のような感情に翻弄された。

 二人の間にもひとしく雪が降りつもる。

 送迎を申し出る秋人に家の者を待たせてあると美冬は断った。

 示す合わすこともなく、踏み散らかされた雪に二人の足跡が加わる。切符売り場までの道に会話はなかった。


「どうか、息災で」


 秋人は別れの言葉だけ告げると、返事を待たずに踵をかえした。美冬を見ることが苦しい。自分がした過ちを心の底から呪った。

 当然ながら、返事はない。

 歩みだした足は白い雪を踏みしめ、闇を進む。凍てつくような寒さはどこかに消えていた。今日こそ、感情が死んだのかもしれない。

 ひたすらに足を進めた秋人は、景色が夜に染まる中、雪だけが闇に馴染まないことに気付いた。白と黒が混じり合わない様を眺め、色彩を失った町並みをゆっくりと抜けていく。

 煉瓦とセメント、漆喰に木造と、まとまりのない道はまっすぐ延びていた。脇道に入っても色が失せた光景は変わらない。

 低い塀の向こうに木の枝が見える。冬に耐え、春になれば芽吹くだろう。もしかしたら、白い花が咲くかもしれない。その花はきっと、自分の髪と同じように闇に染められることもなく、奇異の目に恐れることなく誇らしく咲きこぼれるだろう。

 秋人は蠢く雲と同じ瞳を瞼で隠した。夢想に虚しい笑いが込み上げる。

 せめて、白い花が彼女の慰めになればいい。そう願いながら雪を踏みしめた。



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