こがねの魚と銀の月

26 （ジゼル）

　シャーンが来なかった。来ると思っていたのに来なかった。

　沼の男の子は今日も来た。約束通り、でも、いつもより遅い時刻。そして明日も今日と同じ時刻に来ると言った。

　二人は魔導士学校の学生だ。私のところに来るより、きっと魔導士学校が面白いんだ。そうか、私、面白くない？　それとも魔導士学校は綺麗で可愛い？　みんな、綺麗で可愛いものが好き……

　魔導士学校、見てみたいな。私は森から出たことがない。きっと森から出てはいけないのだと思う。でも『森から出るな』と、言われた事、あった？

　ビルセゼルトは必ず夕食までには戻るように、と言った。今日はもう夕食が済んでいる。夕食後にお散歩したい時はどうすればいいのだろう。

　今日はもう世話係の魔女は来ない。弾琴鳥（ピュッルラ）の時刻までには眠るよう言われているが、まだまだ時間はある。

　ん、どうしよう。魔導士学校に行けば、シャーンに会えるかな？　会えなくても魔導士学校がどんなところかは判る。

　でも……ビルセゼルトは夜に出歩いてはいけない、って言っていた。なぜだろう？　暗いから？　小鳥もどこかにいなくなるから？　小鳥の代わりにシカやイノシシや、テンやイタチやキツネが出てくるけれど、彼らはみんな優しい。きっとムササビが連れて行ってくれる。

　どうしよう……もう魔女は来ない。少しだけ行って、すぐ帰れば、知られずに済むかな？

　窓を開けると、すぐそばの枝にいたムササビが寄ってきた。

「魔導士学校に行ってみたい」

ムササビがぎょっとする。

（オイラが案内できるのは森の外れまでだよ。そこから先は魔導士学校の領域だから。でも、そこまで行けば屋根が見える）

「魔導士学校の屋根？」

（たぶん……）

フクロウが遠くで鳴いた。

（校長は、今夜は南の魔女の居城だ。奥方の機嫌を取りに帰っている）

「奥方？」

（女房の事だよ。ジゼル、あんたの母ちゃんだ）

「母ちゃん？」

そんな人、いたんだ。私には父も母もいないと、こないだまで思っていたのに。

　私は知らないことが多すぎる。たくさん本を読んで、いろいろ知っているけれど、私は私自身を知らない。シャーンやあの男の子は私よりずっと、ずっと自分の事を知っていたように思える。それって魔導士学校に行っているから？

「行く。魔導士学校に」

　見てみよう。どんなところか。そこで自身が何者か知ることができそうなら、ビルセゼルトに頼んでみよう。魔導士学校に行きたい、と。

　ムササビが、ついておいでと枝を飛ぶ。木々が私を見て驚く。それでも道を開けてくれる。

　森は初め、私を外に出したがらなかったが、お願い、と頼んだら、渋々出してくれた。

（愛しいジゼェーラよ。すぐに戻れよ）

　森の領域を出ると、すぐに踏み固められた跡が判った。それを辿ってしばらく行くと藪（やぶ）の向こうから話し声が聞こえた。

「私にもよく判らないのよ」

シャーンの声だ！

「シャーン！」

私は藪の向こうのシャーンを呼んだ。

「誰？　そこにいるのは誰？」

シャーンが私に返事を寄越した。

「私、ジゼル。会いに来たよ、シャーン」

「なんてこと！」

　藪がガサガサ音を立て揺れる。誰かが出てくる。知っている人。誰だったっけ？

そうだ、シャーンだ。

「シャーン、大好き」

抱き付くと、抱き返してくれる。なんでこんなに気持ちが暖かくなるのだろう。

　気が付くと藪を乗り越えた上のほうからこちらを覗きこんでいる人がいる。木かと思ったら人だ。

「シャーン、その子は？」

「ごめんね、デリス。あなたには言えない。誰にも言えない」

「力を感じないところを見ると街人？　こんな時間に魔導士学校に街人？」

　背の高い男の人が私を見て不思議がっている。ひょっとして私は魔導士学校に来てはいけなかった？

「デリス、お願い、何も聞かないで」

なんだかシャーンも困っている。やっぱり来てはいけなかったんだ。

　すぐに森に帰ろうとシャーンから離れる。すると

「行かないで、ジゼル」

とシャーンが呼び止める。

「さっきの話は考えさせて。必ず返事をするから」

今日のところは帰って、とシャーンが木のような男の人に言う。不満そうだったけれど男の人は姿を消した。

「ジゼル！」

と、急にシャーンが私を抱き締めた。

「今、行こうとしていたの。それをデリスに見つかって」

「シャーン、困っていた。シャーンが困ったのは、私のせい？　それともあの男の人のせい？」

　シャーンが私の頬を掌（てのひら）で包み込み

「私がジゼルのせいで困ることなんかないわよ」

と微笑んだ。笑顔には笑顔を帰さなきゃ、と思ったけれど、気が付くと私は既に笑んでいた。

「ジゼル、いつまでいられるの？」

「弾琴鳥（ピュッルラ）の時刻までに住処に戻る」

「だったら、お茶の時間くらいあるわね」

　ジゼルのお部屋には招待された。今日は私がジゼルを招待するわ、とシャーンが言う。

「でも、誰にも知られないように、移動術を使おうと思うの」

移動術、なんだろう？　魔女たちが使う火のルートとは別のもの？

「ジゼル、私をぎゅっと抱きしめて。いいよ、と言うまで離してはダメ」

言われたとおりにすると、シャーンは腕を私の肩に回し強く引き寄せる。そして。

　眩暈を感じて目をつぶる。体がふわっと浮いた？　なに、これ？　でも、なんだか知っている。以前どこかで同じことがあった。いつ？　どこで？　記憶を辿るが、霧が掛かっている。

「はい、大丈夫。ついたわ」

地に足が着く。自分の体重を感じる。

「ミルクティーでいい？」

　シャーンに頷（うなず）いて、部屋を見渡す。見渡すほどもない狭い部屋。窓際に机があって、壁際にベッドがあって、ラグの上には低いテーブル、その周りに刺繍が施されたクッションがいくつか。

　自分も座りながらシャーンが私に『座って』と言う。同時にテーブルに湯気を立てたカップが二つ、そして砂糖壺が出た。シャーンを真似てラグに座ると、

「お砂糖はいくつ？」

と聞いてくる。シャーンは私のお茶にお砂糖を入れてくれるつもりだ。

嬉しくなって、

「二つ」

と言うと、

「一緒ね」

とシャーンが笑んだ。

「会いに来てくれて嬉しいわ。寂しい思いをさせてごめんね」

「寂しい？」

私を見るシャーンの瞳は優しい。

「誰かに会いたくて、会えなくて……その時感じる悲しくて苦しい気持ち、それを寂しいと言うのよ」

シャーンは私を軽く抱き締めながらそう言った。

　シャーンに会いたかった。でも、私は悲しかった？　苦しかった？　判らない。私は寂しかったのだろうか？

「また会いに来てもいい？」

　迷惑でなければ、『いい』とシャーンは言うはずだ。

「もちろんよ。でも、合図が必要ね」

魔導士学校にジゼルがいるのを見られるのはだめだと思う、とシャーンが呟（つぶや）く。

「ビルセゼルトはここに来ていいとジゼルに言った？」

「ダメとは言ってない。行っていいかを聞いていない」

「きっと、聞いていたら『ダメだ』と言ったと思うの」

だから誰にも見られない方がいい、そう言ってシャーンは私に机にあった花瓶からスズランを一輪抜いて私に寄越した。

「この花をしっかり持って『シャーンの許へ』と言って。そしたらこの部屋に来られるから」

「判った」

と私はシャーンに言った。

「シャーンからのプレゼント、大事にする」

シャーンは嬉しそうに笑った。